27−2 達也
どうして、この場所に向かったのか、自分にもよくわからなかった。
昨日美香と来た、あの公園。安心したかったのか。過去を追い求めているのか。ここに来ると、美香を感じるからかもしれない。まだ何の心配もなく、美香への自分の抱える想いの意味も知らず、ただ無邪気に笑っていた幼い自分。今の俺は罪の重さを思い知り、覚悟を決めて美香といる。幸せな分、辛いことにも耐えていかなければいけない。けれど今は、心が少し脆くなってしまっているらしい。美香にそばにいて欲しかった。だがあの場で美香を連れてくるわけにもいかなかった。
雨が降り出しそうだったからか、公園には珍しくも誰もいなかった。昼間の公園に誰もいないと少し寂しい感じがする。まるで一人でとり残されたような気持ちだ。……情けない。俺が美香を守ってやると思っていたのに。もっと強く在らねばならない。そんなことを思いながら、ベンチに座った。
そこから公園全体を見渡すことができた。砂場を見ると、そこで無邪気に笑いながら俺を振り向いた浴衣姿の美香が見えた気がして、俺は目を細めた。それは昨日のことのはずなのに、まるで昔のことのように感じる。美香に、会いたい。
そう思った瞬間に、誰かがこちらに歩いてくる気配がした。目の前に立った人物を、座ったまま見上げると、それは美香だった。一瞬幻かと思ったが、本物だったらしかった。美香が俺を見て悲しそうな目をしたかと思うと、突然その胸の中に抱き寄せられた。一瞬驚いたものの、美香に抱きしめられているとその温かさもやさしさもとても居心地がよく、安心を得た俺はされるがままに目を閉じていた。
しばらくそうしていて、美香は俺から体を離した。ずっとこのままでいたかった俺は名残惜しく思いながらも離れる。すると美香が再び俺を見て、俺の切れた口の端に指先でそっと触れてきた。痛みに思わず眉根を寄せると、美香がその瞳の中の哀しみの色を濃くして言った。
「お兄ちゃん、痛いでしょう? お父さんも、ひどいよ。突然あんなことするなんて……」
「……殴られるのはわかったけど、わざとよけなかったんだ。それじゃ何の解決にもならないから」
不満な様子の美香に、俺は苦笑しながら言った。美香は何も言わなくなった。無言でただそこにいる俺と美香に、少しずつ水滴が降り注ぎ始める。雲に覆われた暗い色をした空から、雨が降り出したようだった。
雨は平等に濡らしていく。俺も、美香も。それはまるで俺が美香と居ることを選んだことで、美香にも罪を背負わせねばならないということに似ている。それでは駄目なのだ。美香はだれにも責められるべきじゃない。重さを背負うのは、俺一人で十分だ。けれど、守ってやれなかった。今美香は、まるで泣きそうな目をしている。それが辛くて、見たくなくて、俺は思わず目を伏せてから口を開いた。
「ごめん……」
「お兄ちゃんが謝る必要なんてないでしょ? お兄ちゃんは何も悪くない。謝るなら、私の方でしょ……」
美香の言葉に、俺は否定を示すように、目を閉じたまま首を横に振った。美香が悪いんじゃない。悪いのは俺の方だ。罪の重さも、周りの目も、すべて承知の上だったはずだ。それでも美香と居ることを選んだのだから。美香はこんな重苦しい雰囲気を気まずく思ったのか、不自然に明るい声で冗談ぽく言った。
「お兄ちゃん。いっそのこと二人で逃げ出しちゃおうか? 駆け落ちみたいに」
「だめだよ、それじゃ。ちゃんと向き合わないと。俺たちがこんなことになって、父さん達も、辛いんだと思う」
美香の言うことは、この状況では冗談にならなかったので、俺は真面目に答えた。父さんは厳格で厳しくはあるが、基本的に非道な人間ではないのだ。優しいところもちゃんとある。血のつながりのない俺だが、養子だと感じさせられたことは今日まで一度もなかった。美香と同じように、平等に育ててきてくれた。冷静に考えて、俺にあんな言葉を言ったことに対し、あの人もきっと心を痛めている。俺達のためと思い、親たちはああ言っているのだ。
それがわかるからこそ、これからどうすればいいのかわからなかった。美香のためにはもしかしたら別れた方がいいのか、と冷静な部分で自分が言っている。けれどそれだけは、どうしても選択できない。俺の迷いを非難するように、雨が強まる。ふと、美香が言った。
「お兄ちゃん、私ね。絶対に離れないんだって必死に思ってた。絶対、なんて……ないのにね」
その言葉の意味を瞬時に受けとり、俺の心臓が一回大きく軋むような嫌な音を立てた。恐れていた“美香を失うこと”が突然目前に迫ってくるようで、俺は恐怖の中、恥も何も捨ててただ縋るように美香を見あげた。ずっと想い続け、叶わぬ夢だと自分を責め、そうしてやっと手にした幸せ。手に入れることはとても難しかったのに、こうも簡単に手から滑り落ちて行くのだろうか。美香は俺と同じように雨にぬれていた。
「もう、終わりにしよう?」
想像通りの言葉が、美香の口から出てきた。その頬に、雨に混じった涙を見つけて、俺も泣きたくなってしまった。
未来は、見えなかった。それでも、奇跡を信じたくなってしまうほど、俺は美香が大切だった。愛しかった。とても、とても好きだった。二人だけで過ごした、夢のような日々が蘇る。初めて一緒に過ごした夜、夜景を見て寄り添いあった日、花火の前の願い、一緒にいると決心した最後の夜。俺を振り返り、満面の笑みを浮かべる愛しい妹。好きだと、お互い何度その言葉を交わしただろう。
なにも大きなことを望んでいたわけじゃない。美香が俺を見て微笑み、俺も美香に微笑み返す、そんなささやかな幸せが欲しかっただけなのに。それすらも、叶わぬ夢なのか。きっと美香も感じていたのだ。そして、悟った。このまま一緒にはいられないのだと。
俺たちは兄妹で、これから美香を守っていくためには、やはり別れるのが一番なのだ。俺からは決して言えなかった終わりの言葉を、美香から言い出した。それはきっと手を離すのが正しいということなんだろう。本当は、引き止めたかった。このままここで美香を抱き寄せて、絶対に別れたくなんてないと言いたかった。けれど美香のため、そう自分に言い聞かせ、俺は微笑んだ。
「わかった。ごめんな……俺、辛い思いばっかりさせたな」
言って、美香の頬に手を伸ばし、涙を親指でぬぐってやる。悲痛な表情で涙を流す美香を見るのは辛く、胸が痛むが、大丈夫だ。ここで終わりにしてしまえば、もう美香が泣くこともない。雨が降っていてよかったと思った。心が引き裂かれたような痛みは、僅かな涙となって俺の頬をこぼれおちかけていたが、雨に混じって隠れてくれている。
けれど、美香がその雨に濡れていくことだけが心配だった。家に戻れと言おうとしたその時、美香の胸にまた抱きしめられた。まるで包まれるような感覚に切なさが増す。こんな温かさを美香に与えられたのは初めてだった。
「お兄ちゃん。私たち、兄妹じゃなかったらずっと一緒に居られたのかな。ずっと……笑ってられたのかな」
頭の上から、美香の涙声が降ってきた。思わずその背を抱きしめ返したくなるのを、俺は必死にこらえた。
だめだ。今美香を抱きしめてしまったら、もう二度と手を離せなくなる。
「ねぇ、お兄ちゃん。それでもね。私、お兄ちゃんの妹になれたこと……後悔はしたくないの」
美香はそう言って、俺から体を離した。もう、本当に終わりなのだろうか。やけに現実味がない現実の中、美香は雨に濡れながら必死に笑おうとしているようだった。けれど上手く笑えなかったようで、泣き笑いのような痛々しい表情をしながら、美香は必死に続ける。
「一生に一度の恋だって。もう二度と、こんなに誰かを好きになれることないって。お兄ちゃんを好きになれたこと。お兄ちゃんと、一緒にいたこと。私、絶対後悔しない」
泣きながら、美香は精一杯に頬笑みを作り、俺を見つめてきた。
「大好きだよ。私のたったひとりのお兄ちゃん。たったひとりの……大切な人」
こんな場面で、美香にそんなことは言われては、切なさは増すばかりで、込み上げるこの気持ちを、どうしていいかわからない。昨夜の夢のような話の続きを、ずっと夢見ていたかった。たったひとりと結ばれて、奇跡の後に訪れる幸せを。願いは届くと信じていた。けれど現実はあまりに残酷で、こうして気持ちは通じ合っていても、もう一緒には居られない。
「さよなら」
美香の小さな声が、俺の心の奥底まで冷たく響き渡った。
俺の心にも、美香と一緒にいたことに対する後悔なんてひとつもない。美香と兄妹として、恋人として一緒にいた時間のすべてが、俺自身の証となる。兄妹じゃなかったら、確かに何の障害もなく一緒に居られた。けれど兄妹だからこそ、得られたものもたくさんある。ずっと美香の近くにいた。幼い頃の美香も、大人になっていく美香も。すべてが大切な記憶だ。
ただひとつだけ悔いがあるとすれば、それはここで、美香の手を離したことだ。離さずにいればよかったと、後悔する日がきっとくる。けれど美香の幸せを守るため。決して消えないこの気持ちを、再び心の奥底にしまいこんだ。