27−1 美香
家を出た時にはすでにお兄ちゃんの姿は見えず、どこに行ったかわからなかった。お兄ちゃんの車も駐車場に停まったままだった。けれど何となく、お兄ちゃんの居る場所は予想がついた。というより、予感がしたのだ。お兄ちゃんはそこにいると。
私は突き動かされるように、その場所へ走って向かう。息を切らしてそこにたどり着くと、予想通り、お兄ちゃんは居た。あの、公園。石のベンチにぽつりと座っている姿を見て、なんだか胸が痛くなった。
無言で歩み寄ると、お兄ちゃんが座ったまま私を見上げた。捨てられた子犬みたいな目だと思った。思わず、そのままお兄ちゃんの頭を抱きしめる。しばらくそうしていて、体を離してから、お兄ちゃんの切れた口の端に指先でそっと触れる。痛かったのか、お兄ちゃんが少しだけ眉根を寄せた。代われるものなら私が代わってあげたい。
「お兄ちゃん、痛いでしょう? お父さんも、ひどいよ。突然あんなことするなんて……」
私が少し憤慨気味に言うと、お兄ちゃんは苦笑した。
「……殴られるのはわかったけど、わざとよけなかったんだ。それじゃ何の解決にもならないから」
何も、言えなかった。お兄ちゃんはちゃんと向き合おうとしている。私は必死になって、子供のように癇癪を起し、後ろめたさを隠そうとしているだけだった。お母さんの言うことだって、本当はわかっている。でもわかりたくなかったのだ。言葉を失ったまま立っていると、ふとぽつりと、頬に水滴を感じた。空が灰色に埋め尽くされている。雨が降り出したようだった。
お兄ちゃんが目を伏せて、口を開いた。
「ごめん……」
「お兄ちゃんが謝る必要なんてないでしょ? お兄ちゃんは何も悪くない。謝るなら、私の方でしょ……」
私の言葉に、お兄ちゃんは目を閉じて、ゆっくりと首を横に振った。どうしてみんなお兄ちゃんを悪者にしたがるんだろう。お父さんも、お母さんも、お兄ちゃん自身も。いっそ私のことをなじられて、私が悪者になった方が楽だと思った。お兄ちゃんにばかり辛い思いをさせるよりも。
重苦しい雰囲気に耐えかねて、私はわざと明るい声で冗談ぽく言った。
「お兄ちゃん。いっそのこと二人で逃げ出しちゃおうか? 駆け落ちみたいに」
「だめだよ、それじゃ。ちゃんと向き合わないと。俺たちがこんなことになって、父さん達も、辛いんだと思う」
お兄ちゃんは冗談にしてくれなかった。それはそうだ。こんなことを冗談で言うべきじゃない。私は軽薄な自分を恥じた。
間違っているのは、私たちの方なのだろうか。お兄ちゃんは向き合わなければいけないと言った。きっとそれは正しい。けれど向き合っても、真剣に訴えても、もうお父さんたちの気持ちは変えられないように思えた。重苦しい現実。見えなくなっていく未来。脳裏に浮かぶ、お母さんの声。
その瞬間、私の心がくずれおちていくようだった。
だめ、なんだ。私と居ると、お兄ちゃんを苦しめるだけ。奇跡は起こらない。私が妹である限り、お兄ちゃんを幸せにできない。そんなことを今、ひしひしと思い知らされて、心が上げた悲鳴が、そのまま涙となって私の瞳からこぼれおちた。ずっと一緒にいたかった。何よりも大切だった。誰よりも、大好きだった。私が、幸せにしたかった。けれどお兄ちゃんの幸せを守るには、私が離れるしかない。
降り出した、雨。やがて私とお兄ちゃんを濡らし始める。私の涙も、きっと隠してくれる。
――大丈夫。言える。
「お兄ちゃん、私ね。絶対に離れないんだって必死に思ってた。絶対、なんて……ないのにね」
雨に濡れたお兄ちゃんの瞳が、縋るような色をして私をとらえた。あっという間に、私の心を愛しさが埋め尽くす。
信じていた、お兄ちゃんとの幸せ。守りとおせると思っていた、二人の大切な時間。私を幸せで包むように抱きしめてくれる、優しい腕。穏やかな朝、目覚めた私を覗き込む愛しい、愛しい瞳。離さないと、約束して。心から私を好きだと言ってくれる、大切な人。まるで陽だまりのような、優しすぎる彼のすべてを。
離れたくなんてない。別れたくなんてない。すごく幸せだった。涙が出るほど愛しかった。失いたくなんて、なかった。
奇跡を、願っていた。お兄ちゃんはきっと、私にとっての永遠だったんだ。
だけど大好きだから。何よりも、大切な人だから。
――だから、今。私は、この人の手を離さないといけない。
「もう、終わりにしよう?」
まるで鉛のように重い、自分の言葉に自分で傷ついた。
もう離れないといけない。わかっているのに、心は簡単に揺らぐ。私は必死に願っていた。どうか、ひきとめてほしい。あの夜、はじめて私を抱いてくれた時みたいに。優しい声で、好きだと言ってほしい。
私を見上げるお兄ちゃんの瞳が、泣きそうなほどに切なく歪んだ。その頬が、雨に濡れている。
泣いて、いるのだろうか。雨にも涙にも見える。きっと、私の顔もお兄ちゃんと同じように、雨と涙でぬれているのだろう。けれどお兄ちゃんは、そんな目をしたまま、困ったように微笑んだ。
「わかった。ごめんな……俺、辛い思いばっかりさせたな」
あくまで優しい声の音色で言ってから、お兄ちゃんは、私の頬に手を伸ばし、涙を親指でぬぐった。ショックよりも、哀しさが勝っていた。どうして、こんなときにまで私のことを。その表情を見ればもう、お兄ちゃんも泣いているようにしか見えないのに。
雨は強くなっていく一方で、私もお兄ちゃんも、気付けばかなり濡れていた。私なんていくら濡れたっていい。けれど濡れていくお兄ちゃんが痛々しくて、お兄ちゃんが冷えていくようで怖くて、私の体温をあげたくて、私はまた、雨から守るようにお兄ちゃんを抱きしめた。
お願い。どうか、これ以上お兄ちゃんを濡らさないで。これ以上、お兄ちゃんを傷つけないで。
「お兄ちゃん。私たち、兄妹じゃなかったらずっと一緒に居られたのかな。ずっと……笑ってられたのかな」
涙を止めることができないまま、私はお兄ちゃんの頭に問いかけた。
兄妹じゃなかったら。そう、願ったことは何度もあった。兄妹としてでなく男女として普通に出会い、普通に恋愛し、普通に、幸せを守っていけたらと。けれど兄妹だからこそ、私たちの絆は強く、私たちはきっと、鮮烈に惹かれあった。誰が間違っていると言おうと、穢れていると言おうと、私たちのこの気持ちだけは、本物だった。この想いだけは、誰にも否定させない。
「ねぇ、お兄ちゃん。それでもね。私、お兄ちゃんの妹になれたこと……後悔はしたくないの」
言って、抱きしめていた、体を離した。お兄ちゃんと一緒に過ごしてきた時間もすべて、かけがえのないものだから。それはきっと、兄妹として過ごしてきたからこそ得られた、証だから。涙声になりながらも、私は必死に笑おうとしていた。けれどそれは叶わず、私は言葉に詰まりながら続ける。
「一生に一度の恋だって。もう二度と、こんなに誰かを好きになれることないって。お兄ちゃんを好きになれたこと。お兄ちゃんと、一緒にいたこと。私、絶対後悔しない」
涙はどうしても止まらなかったけれど、私は精一杯に頬笑みを作り、お兄ちゃんを見つめた。
「大好きだよ。私のたったひとりのお兄ちゃん。たったひとりの……大切な人」
本当は、さよならなんてしたくない。ずっと一緒にいたい。あの星空の下で、永遠を信じた私たちを、永遠に信じていたかった。
「さよなら」
短く響いた私の声。内容はとても重いのに、やけにあっさりとした言葉だと思った。そんな、たった一言で、終わらせたくなんてなかったのに。お兄ちゃんは俯いて、何かを堪えるように肩を震わせた。
今は昼間で、空は一面に雲に覆われていて、あの日、お兄ちゃんと見た星空は、今はどこにもない。私たちに降り注ぐのは、星の優しい光じゃなく、冷たい雨の針だけだ。けれど、それでも見えない星にすらすがり、願わずにはいられなかった。これから先、お兄ちゃんの笑顔を、幸せを守ってほしいと。
たとえ私たちの未来が見えなくなってしまったとしても。兄妹として出逢ったことを、私たちは後悔しない。