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「ひみつ」  作者: 名無し
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26−2 達也

 昼に差し掛かっても、美香は目を覚まさなかった。


 美香が目覚めないのには少し助かった。引越しの準備をしなければいけないのだ。部屋の片づけをすることを隠し通せるわけはないが、美香は自分のせいだと気にしている。目の前で準備をするのは酷だろう。眠っている間に、なるべく終わらせようと精を出しかけたところで、背後のベットで眠っていたはずの美香が起き上がる気配がした。


 振り返ると、美香の様子はどこか切羽詰まったような感じだった。布団で隠すことすら忘れている。


「おはよう。よく眠ってたね、もう昼だよ。……って、寝かせなかった俺のせいか」

「いなくなったかと、思った……」


 少しからかってやろうとしたが、美香はそれどころじゃないようで、気の抜けたように呟いた。やはり不安を感じさせてしまっているようだ。俺はベットの前まで行って美香の頭をなでてやった。


「急に消えたりしないよ、心配すんなって。……それより、そのままでいるとまた襲われるよ?」


 軽口を叩いて雰囲気を軽くしようと思ったのだが、少しやり過ぎたようだった。美香は俺に言われて、隠し切れていない自分の胸元にやっと気づいたらしい。慌てて胸元に布団を引き上げ、あっという間に真っ赤になった。


「お、お兄ちゃんのバカ!」


 美香が枕を投げつけてくる。当たってやることも一瞬考えたが、それでは恰好がつかないので、受け止めることにした。悔しそうな美香が面白くて思わず笑うと、美香もつられたのか笑い出した。穏やかな雰囲気を守れて、俺は心の中で安心していた。


 しかしそれはすぐに消えていった。美香が俺の部屋を見回し、片づいていることに気づいてしまった。すぐにその表情が歪む。


「行っちゃうの? ほんとに」

「……なにも会えなくなるわけじゃないんだから、そんな顔するな」


 そう言って美香の気を少しでも晴らそうとしてやったが、なかなかうまくいかなかった。

 毎日が、あっという間に過ぎていく。時間を止めたいと言う俺の願いは、やはり叶うこともなく。そして気付けば、最後の夜を迎えていた。


 その夜は眠ってしまいたくなくて、俺も美香もベランダに出て、夜中まで話していた。むっとするような夏の夜の熱気の中でも、美香が隣にいると言うだけでかけがえのない空間になる。美香が甘えるように寄りかかってくるのを、愛しさを込めて見つめていた。すると美香がふと思いついたように口を開く。


「ねぇ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは私の、たったひとり、だね」

「何それ?」


 訊き返し、俺が首をかしげると、美香は俺の手を取って、指をからめて握りながら話し始めた。


「前にね、友達に聞いたの。誰にでも、たったひとりの人がいるんだって。その人と出会ったら絶対に恋に落ちるの」


 俺に寄りかかったまま、言い終わった美香がうかがうように肩越しに見上げてくる。至近距離で目が合うと、美香は照れたのか少し頬を染め、慌ててまた視線を元に戻し話を再開する。


「一生出会えないままかもしれない。出会っても、すれ違っただけで気づかないかもしれない。だから、たったひとりの人と結ばれるのは奇跡だって」


 少し、信じたくなるような話だった。奇跡、かもしれなくても。

 どこか切ないような気分で、俺は小さな笑いをこぼした。美香は俺を、そのたったひとりだと言ってくれた。美香と別れないことを決心するのに、それは十分すぎる理由だった。つないだ美香の手を、俺は自分の口元に持っていく。想いを、誓うように。願いを込めて、美香の手の甲にキスを落とした。


「……じゃあ、俺のたったひとりも、美香かな」


 言うと、俺を見つめてくる美香の澄んだ瞳に、俺と同じ想いを感じた。ふとした時にそれを感じ、心は簡単に満たされていく。俺にとっては今、この瞬間すらも奇跡だ。俺は美香を想い、美香も俺を想ってくれる。たったひとりと結ばれるのは、奇跡なのかもしれない。だからこそ奇跡を、守りたい。


 そうして遂に迎えた、夏休み最後の日。俺も美香も緊張した面持ちで、居間で母さんの登場を待っていた。別れないと、決めた。反対されることはわかりきっていたが、決意は固かった。昼に差し掛かる前に、母さんは帰ってきた。


「ただいま、美香、達也」


 玄関からの母さんの声に気が重くなる。やがて居間に母さんが姿を見せたが、母さん一人だけではなかった。予感は、していた。予想外だったのか、美香が息を呑んで呟く。


「お父さん……」


 父さんは厳しい眼差しで、ゆっくりと俺と美香とを見比べた。思わず佇まいを直すように、俺も美香も立ち上がった。昔から厳格な父親。きっとかなりのことを言われると覚悟したが、その前に母さんが話しだした。重苦しいこの雰囲気の中、母さんはどこか安心しきったような表情をしている。まさかこの期に及んで別れないなんて言いだされるとは思ってもいないんだろう。


「お父さん、仕事忙しかったけど、どうしても来るって聞かなくてね。……けど、もう心は決まってるでしょう?」

「決まってるよ」


 心を決め、俺は頷いた。緊張が走ったが、昨夜の誓いが俺を支えていて、堂々としていられた。


「お兄ちゃん……?」


 美香が斜め後ろから不安がっているのかか細い声で俺を呼んだ。美香を失わないために。この先の幸せを守るために。

 母さんたちには申し訳なく思う。けれどどうしても譲れないこともある。


「別れない」

「な、達也? 本気で言ってるの?」


 俺の言葉がよほど予想外だったのか、母さんが苦笑しながら上ずったような声を出した。

 俺は母さんのその目をまっすぐに見ながら、言葉を続ける。


「本気だよ。この家は出ていく。仕送りはいらない。自力で生活していくよ。だけど、美香とは別れられない」


 言い終わる前に、怒りの形相をした父さんが早歩きで俺のところへ向かってきた。目の前に来るその寸前、殴られることを悟った。だが避けたら余計に怒らせるだけだろう。大人しくそのままでいると、やはり父さんは拳で殴りつけてきた。美香と母さんが驚いたように悲鳴をあげる。身長の差か、それほどまでの衝撃はなかったので立っていられた。それでも痛いものは痛い。口の端を抑えると血がにじんでいた。


「お前のようなやつを、養子にもらったのが間違いだった」


 父さんが苦々しく顔を歪め、そんなことを言った。なじられることはわかっていたし、覚悟もしていた。けれどまさか養子だということを引っ張り出してこられるとは思っていなかった。血のつながりはなくともずっと親子として過ごしてきたのだ。さすがに、そんなことを言われるとショックを隠しきれなかった。すると泣きそうな顔をした美香が駆け寄ってきて、父さんから俺を庇うように抱きしめてきた。


「やめて! もうこれ以上、お兄ちゃんを傷つけないで! 私だって悪いでしょ!? なんでお兄ちゃんばっかり!」

「美香、お前は黙っていなさい」


 父さんは真顔で美香に言ってから、また俺に怒りの納まらないような視線を向けてきた。


「頭を冷やしてこい。俺は絶対に認めんぞ」


 父さんにそう言われて、とにかくこの場は、出ていった方がよさそうだと思った。このままここにいても、より状況を悪化させるだけだ。俺に抱きついている美香の肩に手を置いて、強引にならないようにゆっくりと体を離した。美香は俺以上に傷ついたような瞳の色をして、俺を見つめてくる。美香を置いていくのは心配だったが、とりあえず俺はいない方がいい。美香から目をそらし、そのまま居間を出た。


 家の外に出ると、雲行きが怪しかった。

 車の鍵を取ってくるのを忘れたが、戻るわけにもいかず、仕方なく、俺はあの場所に向かった。


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