26−1 美香
ふと目を覚ますと、隣にお兄ちゃんの姿がなかった。不安に駆られてがばりと体を起こすと、お兄ちゃんは部屋の隅で何やら片付けていた。そして私のただ事じゃない気配に気づいたのか私を振り返った。
「おはよう。よく眠ってたね、もう昼だよ。……って、寝かせなかった俺のせいか」
「いなくなったかと、思った……」
お兄ちゃんの冗談に応じる余裕もなく、私は気の抜けたように呟いた。
するとお兄ちゃんがやさしく笑って、私のいるベットの前まで来て私の頭をなでてくれた。
「急に消えたりしないよ、心配すんなって。……それより、そのままでいるとまた襲われるよ?」
ふと、言われて気づいた。私は服を着ていないのだ。そして勢いよく体を起こしたから、布団もずり落ちて、今私を隠すものが何もなくなってしまっている。急に恥ずかしくなった私は慌てて胸元に布団を引き上げてから、赤くなっていく顔を止めることもできず、仕方なくお兄ちゃんに当たることにした。
「お、お兄ちゃんのバカ!」
枕を投げつけたのに、軽々とキャッチされてしまった。お兄ちゃんは面白そうに笑っている。怒って見せようとしたけれど、結局はいつものごとく穏やかな雰囲気にのまれ、笑ってしまう。いつまでたってもかなわない。そうして余裕が出てきたところで、ある変化に気づいた。お兄ちゃんの部屋は眠る前より片づいていた。そしていくつかダンボールが置いてある。お兄ちゃんがこの家を出ていく。急に、現実が迫ってくるようで、泣きたい気分になった。
「行っちゃうの? ほんとに」
信じたくない気持ちのまま聞くと、お兄ちゃんは困ったように笑った。
「なにも会えなくなるわけじゃないんだから、そんな顔するな」
お兄ちゃんは気丈な様子だけど、半ば追い出されるようにして出ていかなきゃいけないのだ。平気なわけがない。
一日一日が過ぎるのが速すぎた。日を重ねるにつれ、お兄ちゃんの部屋も片付いていく。そのたび、私の不安も増していく。
そして、今日は最後の夜。明日は夏休み最終日。今夜は、二人とも眠るのがもったいないと言わんばかりに、夜中までベランダで話していた。熱を帯びた夜風は相変わらずで、でもお兄ちゃんの隣にいると、それすらも心地よかった。以前、この場所で一緒に夜を過ごした時には、私は自分の気持ちを抑えなくてはいけなかった。
けれど今は、私を制限するものは何もない。隣のお兄ちゃんに寄りかかると、お兄ちゃんの微笑みが私を包む。
「ねぇ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは私の、たったひとり、だね」
「何それ?」
私の唐突な言葉に、お兄ちゃんが首をかしげる。昔聞きかじっただけの話だけれど、今、ふと思い出して、それをお兄ちゃんにどうしても伝えたいと思ったのだ。お兄ちゃんの大きな手を取って、指をからめて握りながら、私はその話を始めた。
「前にね、友達に聞いたの。誰にでも、たったひとりの人がいるんだって。その人と出会ったら絶対に恋に落ちるの」
言って、寄りかかったままお兄ちゃんをうかがうように、肩越しに見上げると、お兄ちゃんはいつものように優しいまなざしをしていた。至近距離でこんな風に見つめられると、なんだか照れくさいような、うれしいような、複雑な気持ちになる。慌ててまた視線を元に戻し、私は続ける。
「一生出会えないままかもしれない。出会っても、すれ違っただけで気づかないかもしれない。だから、たったひとりの人と結ばれるのは奇跡だって」
言い終わると、お兄ちゃんはふ、と小さな笑いをこぼした。でもバカにしている感じではなくて、どこかしんみりとしたようなやわらかい笑い方だった。そして私の手を握ったまま、お兄ちゃんはそれを口元に持っていき、キスを落とした。手の甲にキスをされるなんて初めてで、なんだか少し戸惑った。まるで映画かなにかみたいだ。
「……じゃあ、俺のたったひとりも、美香かな」
お兄ちゃんがそんなことを言うので、なんだかどうしようもない気持ちになった。際限なく膨らんでいくようなお兄ちゃんへの気持ちを、言葉になんて言い表せない。大好きだとか、愛しいとか、私はそんな言葉しか持たないなんて。どれも私の気持ちを表すには、薄すぎる言葉だと思った。
たったひとりと結ばれるのは、奇跡なのかもしれない。だからこそ奇跡を、信じたい。
迎えた夏休み最後の日、私もお兄ちゃんも緊張した面持ちで、居間でお母さんの登場を待っていた。どうなるのかわからないけれど、別れるつもりはない。昼ごろに帰って来るだろうと思っていたけれど、家の扉が開かれたのは、意外にも午前中だった。
「ただいま、美香、達也」
お母さんの声が重くのしかかる。そして居間に姿を見せたお母さんと、もう一人に、私は息を呑んだ。
「お父さん……」
思わず呟くと、お父さんは厳しい眼差しで、ゆっくりと私とお兄ちゃんを見比べた。思わず佇まいを直すように私もお兄ちゃんも立ち上がる。けれどお父さんが口を開く前に、お母さんが話しだした。その表情はどこか明るいと言うか、私たちがお母さんの言うとおりに別れることを、信じ切っているような感じだった。
「お父さん、仕事忙しかったけど、どうしても来るって聞かなくてね。……けど、もう心は決まってるでしょう?」
「決まってるよ」
お母さんの言葉を受けて、お兄ちゃんが真剣な顔で頷いた。何かを決心したような強い光を宿した、その瞳。
「お兄ちゃん……?」
お兄ちゃんが別れることを了承してしまうのかと、私は一瞬恐怖し、斜め前に立つお兄ちゃんの服の裾をつかんだ。けれどお兄ちゃんの口から出てきたのは、私が予想したものとは反対だった。
「別れない」
「な、達也? 本気で言ってるの?」
すぐに、お母さんが上ずったような声を出した。けれどお兄ちゃんの意思はそのくらいで変わるものじゃなかったようだった。
揺るぎない声で、お兄ちゃんは言葉を続ける。
「本気だよ。この家は出ていく。仕送りはいらない。自力で生活していくよ。だけど、美香とは別れられない」
お兄ちゃんが言い終わったかどうかというところで、突然お父さんが前に出てきた。何事かと思う暇もなく、お父さんはそのままお兄ちゃんの前まで早歩きで来ると、お兄ちゃんを拳で思い切り殴りつけた。痛々しい音が響き渡った。あまりに突然の出来事で、私とお母さんが悲鳴をあげる。お兄ちゃんは殴られて一瞬よろめいたけれど、血をにじませた口の端を抑えながら立っていた。
「お前のようなやつを、養子にもらったのが間違いだった」
顔を歪めたお父さんが、お兄ちゃんに向かって、ひどいとしか言いようがないそんな言葉を投げつけた。お兄ちゃんの瞳に傷ついたような色が見える。あまりのことに、私はお兄ちゃんに駆け寄って、お父さんとの間に割り込み、お父さんから庇うように必死にお兄ちゃんを抱きしめた。
「やめて! もうこれ以上、お兄ちゃんを傷つけないで! 私だって悪いでしょ!? なんでお兄ちゃんばっかり!」
「美香、お前は黙っていなさい」
けれど冷たい声でそう言い放つお父さんに、私の言葉は届かない。私だって自分の意思でお兄ちゃんと一緒にいたのに、お兄ちゃんだけが悪者になってしまう。どうしようもないやり切れなさと、お兄ちゃんが傷つけられたことに対する悲しみでいっぱいだった。
「頭を冷やしてこい。俺は絶対に認めんぞ」
お父さんの言葉を受けて、お兄ちゃんは抱きついている私の肩に手を置いて、やんわりと体を離した。お兄ちゃんの、優しいけれどどこか不安定な瞳と目が合って、私は痛む心を隠せないままその瞳を見つめていた。ほんの少しの時間そうしていて、ふ、とお兄ちゃんが目をそらし、そのまま居間を出ていく。言葉を失った私は、半ば呆然とその後ろ姿を見送った。
玄関の扉が閉まる音を聞いて、やっと我に帰った。後を追わないといけない。咄嗟にそう思った私は、玄関に向って駆け出そうとした。けれど背後から腕を掴まれて、それは叶わなかった。私はもどかしさと苛立ちを隠そうともせず、背後の人物を振り返る。それは厳しい顔をしたお母さんだった。
「離してっ!」
乱暴に叫んで掴まれた腕を振り払うと、お母さんが辛そうな顔をした。私たちを、お兄ちゃんをさんざん傷つけておいて、そんな顔をするなんて。悔しいけれど、そんな顔をされたらすんなりお兄ちゃんの所へ行けなくなる。お母さんたちだって辛いのかもしれない。私たちが悪いのかもしれない。でも私たちだって必死なのだ。お母さんは、私に言い聞かせるように言った。
「美香? あなたたちが別れてくれれば、私たちは何もこんなことを言ったりしないのよ。あなたが達也から離れれば、もう責めたりしないわ」
何も、言えなかった。ショックだった。私が一緒にいるから、お兄ちゃんはこうして傷付けられてしまうのだろうか。その時私の中に、はじめて“別れる”と言う言葉が出現し、不安でどうしようもなくなった。どうしてもお兄ちゃんのそばで安心したくなった私は、なりふり構わず、そのまま玄関に走り家を後にした。