25−1 美香
花火が上がっていたのはほんの短い時間で、あっという間に過ぎていった。花火が上がっている間はとても感動していたけれど、終わってしまったあとの空虚感が、今日はどこか寂しく感じた。このまま帰ってしまいたくない。そう思った私は、ふと今朝の夢を思い出した。車に乗り込んで、エンジンをかけたお兄ちゃんに、私は助手席から遠慮がちに声をかける。
「少し、帰りに寄ってもらいたいところがあるんだけど……」
「いいよ。どこ?」
お兄ちゃんは笑いながらあっさりと許してくれた。けれど私が告げるその場所を聞いたら、どんな顔をするだろう。私だってさっき思いついたのだ。普通なら考えもつかなかった。そんなことを思い少しわくわくしながら、私はその行きたい場所を、お兄ちゃんに耳打ちした。
「……そんなとこに?」
そう言ったお兄ちゃんは、予想通り、頭の上に疑問符が浮かんでいそうな怪訝な顔をした。
予想外だったんだろう。してやったりというような気持ちで、私は笑みを返す。するとお兄ちゃんもすぐに笑顔になった。
「美香が行きたいって言うなら、どこにでも連れてってやるよ」
そんな嬉しいことを言ってくれて、お兄ちゃんは車を発進させた。しばらく車を走らせて、見えてきた懐かしい景色に、胸が熱くなる。やっと目的地にたどり着いて、車を降りてすぐ、私は少しはしゃぎながらお兄ちゃんに言った。
「この公園! ここにお兄ちゃんとこれたの、花火会場とおなじくらい嬉しい」
私が連れて行ってほしいとお願いしたのは、今朝の夢にも出てきた、幼いころよく遊んでいた公園だった。昼間は小さい子が多いし、一人で行くのも気が引けるから、今誰もいない時間にお兄ちゃんと二人で来たいと思ったのだ。
「それも複雑だけど、よかったよ」
お兄ちゃんは少し苦笑いしながらそんなことを言った。そんなお兄ちゃんを尻目に、私は公園全体を見回し、そして見つけた砂場に駆け寄った。そして動こうとしないお兄ちゃんを振り向き、視線でこっちに来てと促すと、お兄ちゃんもやれやれと言った様子で微笑みながら歩いてきた。
「この砂場。ここでよくコータくんがいじめてきたんだよね。ひどいときは頭から砂かけられたりして」
私はかがんで砂を一つかみすくい上げながら、思い出してくすりと笑った。お兄ちゃんもそんな私の横にかがんで、少し複雑な目をして、でも懐かしそうに笑いながら言った。
「あいつは美香が好きだったんだ。だからやきもちもあって、俺たち仲良くできなかった」
そんなこと、始めて聞いた。胸が切なくなる。あの幼いころから、お兄ちゃんの中に私はいたのだろうか。
夜の公園は、昼間と雰囲気が違った。思い出の中に何度も出てくる、なじみのある場所のはずなのに、まるで別の場所みたいに感じる。それはもしかしたら、目の前にいるお兄ちゃんも、記憶の中のお兄ちゃんとは違っているからかもしれない。大人になったお兄ちゃん。大人になった私。思い出は思い出のまま色褪せないのに、この公園も変わらずここにあるのに、私たちは変わっていく。
それが、なんだか怖かった。
「ずっと、一緒だよね?」
思わず訊いた私に、お兄ちゃんは返事の代わりに私の手を握ってくれた。私たちは大人になっても、これから先、どんなに外見や年齢が変わっていっても、この気持ちだけは絶対に変わったりしない。つないだ手の温かさを確かめて。私は、ともすれば吸い込まれそうなその瞳を見た。
「キスして、お兄ちゃん」
私の言葉を受けて、お兄ちゃんは少しだけ優しい目をした。確かめたかったのかもしれない。私たちは変わっても、気持ちは変わってはいないと。目を閉じて、小さく唇に触れた愛しい人。この公園で、私たちはまた思い出を作っていく。過去と今をつないで、私達の想いを守りたい。決して簡単に消したりしない。
そうして家に帰り、今日もまた、一緒に夜を迎えた。お兄ちゃんは今日も、二人で同じベットにいるのに私に触れようとしない。
けれど花火を見たあのときから、私はお兄ちゃんを抱きしめてあげたいと思っていた。初めて私に弱さを見せたこの人は、きっと今傷付いている。その心を温めてあげたい。自分から言い出すのはとても勇気が要ったけれど、私は意を決してお兄ちゃんに言った。
「私のこと、だ、……抱いてくれないの? お兄ちゃん」
「今日は、このまま……」
けれどお兄ちゃんはそう言って、私を腕に抱いたまま動こうとしない。拒絶されたようで、私はショックを受けた。するとそんな私の気持ちを察したのか、お兄ちゃんが私の頭をなでながら、私の目を覗き込んで言った。
「怖いんだ。お前を壊してしまいそうで」
お兄ちゃんの眼差しが、その苦しい心情を訴えている。この人は、と思った。どんな時も自分より私のことばかり心配している。
この胸に込み上げる愛しさも切なさも、全部お兄ちゃんからもらったもの。私もお兄ちゃんに何か返したい。
「それでもいい。私もお兄ちゃんを抱きしめたいから。だから……」
強く、刻みつけて欲しい。今そばにいる証しを。
恐る恐る私の額にキスをしたお兄ちゃんは、いつものような激しさをかけらも見せず、大きな手で驚くほど繊細に私に触れた。
大切にしたいのは私も同じだ。強いようで、心の中に弱さを隠しているこの人を。
二人だけの世界の中、重なる二つの心に、私はまた涙した。