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「ひみつ」  作者: 名無し
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24−1 美香

 お兄ちゃんを待っている時間は、心が押しつぶされそうなほどだった。


 お兄ちゃんは、帰ってくると言ったのだ。それを信じている。信じたい。けれどもし、このままどこかに行ってしまったらと思うと耐えられないのだ。私のせいで、大変なことになってしまった。こんなことになるなら、隠し通しておけばよかったのだろうか。私たちは、そんなに悪いことをしているのだろうか。


 違うと信じていた。私たちはただ一緒にいたいと願っただけ。たったそれだけの願いを、どうして許してもらえないのだろう。お兄ちゃんは泣かないで待っていろと言ったのに、私はいつかのように、玄関でお兄ちゃんを待ちながら、膝を抱えてすすり泣いていた。


 そうしていると、一秒すら長く感じた。世界に一人ぼっちでとり残されたような気持ちがして、私は追憶の中で必死にお兄ちゃんの記憶を呼び起こす。お兄ちゃんの笑顔。お兄ちゃんの温かさ。お兄ちゃんの、優しい瞳。涙がまた、あふれ出した。思いだすだけで、こんなにも胸が痛くなるのに。


 記憶だけなんていやだ。今、本物のお兄ちゃんのそばにいたい。今すぐ、会いたい。


「お兄ちゃん……」


 たまらなくなって、私は涙声でお兄ちゃんを呼ぶ。すると驚くほどのタイミングで玄関の扉の鍵が開き、待ち焦がれた人が入ってきた。お兄ちゃんは私を見てすぐ、少しだけ切ない色をした瞳で微笑んだ。私が勝手にお母さんに話したからこんなことになってしまったのに、お兄ちゃんは変わらず優しい。そしてちゃんと帰ってきてくれた。お兄ちゃんが靴を脱いで上がってくるのを、私はほっとしたあまりに気の抜けた気持ちで見ていた。


「美香、またここにいたのか? 風邪ひくって言ったのに」


 私の前まで来たお兄ちゃんに言葉を返そうとすると、その前にお兄ちゃんが私の前にかがんで、手の甲で私の涙をぬぐった。そうしてお兄ちゃんは私を優しく抱きしめてくれる。その温かさに、さっきぬぐってもらったばかりだっていうのにまた涙が出た。


「……泣かないで待ってろって言ったろ?」


 私の背中をさすりながら、お兄ちゃんはやわらかい声で言った。けれどお兄ちゃんの優しさに触れて、泣くなという方が無理だった。お兄ちゃんの声の隅々に、お兄ちゃんの気持ちを感じることができる。大好きな人。大切な人。愛されていると実感するたび想いは高まり、お兄ちゃんへの愛しさが私を支配する。


「お兄ちゃん、ごめんね。私……っ、わたし……」


 体を離して、私はお兄ちゃんに必死に詫びた。お兄ちゃんは私のためにここを出ていかなきゃならない。そしてお父さんに知られたら、きっとお父さんは私よりお兄ちゃんを責める。二人で悪いことをしても、妹より兄が悪いという。うちはそういう家柄だ。私はそんなことを考えもせず、ただ自分の幸せを守りたいからといって勝手なことをしたのだ。


 けれどお兄ちゃんは何も言わずに微笑んだまま、私のまぶたにキスをして唇で涙をぬぐった。

 お兄ちゃんは困ったように笑っていて、その表情が今にも消えてしまいそうで怖かった。


「お兄ちゃん……」

「ごめんな」

「なんでお兄ちゃんが謝るの? お兄ちゃん……」


 お兄ちゃんは私の問いかけには答えず、私の髪を撫で始めた。

 お兄ちゃんは、苦しんでいるんだ。きっとそれは今日に始まったものじゃない。一緒に星空を眺めた夜も、お兄ちゃんはこんな哀しい瞳をしていた。兄妹で愛し合うこと、その重さを、ずっと抱えてきたんだ。


 隠し通さないといけない。誰にも知られてはいけない。こうして親に認めてもらうことすら、私たちには難しい。この先どうなっていくのか、未来が見えない。わかっているつもりで、私は全然わかっていなかった。


 その日は、自然と一緒に眠った。心を埋め合うように、お兄ちゃんは私をただ抱きしめていた。お互い、それだけで十分だった。言葉はなくても心が通じ合っていると、確かに感じられた。周りに何と言われようと、一緒にいたい。先の不安がぬぐえないのはお兄ちゃんも同じようで、不安が伝わる。けれどこの一週間だけは確実な二人の時間なのだ。とりあえず今は、笑顔で過ごしたい。


 お兄ちゃんの部屋のベットの上で、二人で迎えた朝。お兄ちゃんは私を腕に抱いたまま、また私の髪を弄っていた。穏やかで静かな、満たされていくような朝の景色。小さな静寂を破り、私はお兄ちゃんに話しかける。


「ねぇ、お兄ちゃん」

「ん?」

「小さい頃の夢見ちゃった」

「どんな?」


 お兄ちゃんは相変わらず私の髪をすくいあげながら、私の目を見て訊いた。

 夢に見たそれはとても大切な思い出だったので、私は小さく笑みをこぼしながら話し出す。


「コータくんにね、いじめられてる時の夢」

「ああ、あいつね……」


 私の口から出たその懐かしい名前を聞いて、お兄ちゃんは少し複雑な顔をした。昔、まだ幼かったころ、お兄ちゃんとコータくんは折り合いが良くなかった。つまり、喧嘩ばかりしていたのだ。そしていじめっ子だったコータくんはよく私をいじめてきて、私はいつも泣いていた。微笑む私を、お兄ちゃんが少し不思議そうに見る。


「じゃあ嫌な夢だろ。なんでそんなに嬉しそうにしてるの?」

「続きがあるの。いじめられてる私をお兄ちゃんが助けに来てくれて。いつも、お兄ちゃんは私が泣いてると飛んできてくれたでしょ」

「そうだっけ……」


 そう言って、記憶を探るように、お兄ちゃんが少しだけ首をかしげる。私はますます笑みを深めた。


「うん。でも結局コータくんとお兄ちゃん二人の喧嘩になっちゃって、私は困って、余計に泣いてた」


 夢の中で大泣きしていた自分を思い出し、少し笑いながら私が言うと、お兄ちゃんも同じように笑った。

 そうして何気なく私の頬にキスを落としてから、お兄ちゃんが私に問いかける。


「結局嫌な夢だった?」

「ううん。嬉しかった」


 このタイミングで嬉しいなんて言う支離滅裂な私の言葉を受けて、またお兄ちゃんが不思議そうな顔をする。


「嬉しい?」

「うん。嬉しい……私の思い出の中に、お兄ちゃんはいつもいるんだって」


 そう言うと、お兄ちゃんも微笑みを浮かべた。私たちの思い出全部が、私達の証しだ。ずっと同じ時間を共有してきた。ずっとそばにいた。同じものを見て、同じことを感じ、そしてお互いを好きになった。それはきっと、偶然じゃなく必然だと思うのだ。お兄ちゃんがいなかったら今の私はいないし、私がいなかったら、きっと今のお兄ちゃんもいなかった。


 今日は、お兄ちゃんのバイトも休みだったので、一日中ずっと二人でいた。私たちにとっては、ほんの少しの時間でも大切だった。そばにいるのがもう、当たり前のようになりつつあるのに、お兄ちゃんが出て行ってしまったらどうなるのだろう。そんなマイナスなことを考えている自分に気づき、私は慌てて首を横に振った。とにかく今を、大切にしたい。


 夕方、そんなことを思いながらお皿を洗っていると、居間でテレビを見ていたお兄ちゃんが台所に来た。


「美香、今日花火があるって。ちょっと遠いけど、行く?」

「うん、行く!」


 思ってもみない誘いに、私は胸を躍らせ答えた。花火なんて、いつ以来だろう。しかもお兄ちゃんと二人で行けるのだ。浮かれるなという方が無理だ。そうして準備を始めた私は、たんすの奥から浴衣を引っ張り出して身につけた。お母さんに浴衣の着付けを習っておいてよかった。そんなことを思ってすぐ、お母さんのことを思い出してしまって胸が痛んだ。


 昨日のことを忘れたわけじゃない。けれど今は、考えないようにするしかない。考えても、どうしていいのかわからないのだ。かといってお母さんのいいなりにお兄ちゃんと別れることは、絶対にしたくなかった。


 目を、そらしているのだろうか。私も、お兄ちゃんも。

 髪を整えようと鏡の前に立つと、そこには幸せと切なさの中間にいる、不安定な状態の私が映っていた。


 気を取り直して居間に戻ると、お兄ちゃんが私を見て少し目を細めた。ほめてくれるかと期待して言葉を待っていたけれど、お兄ちゃんは固まったように私を見つめたまま何も言わないので、実は似合っていなかったのかと不安になった。内心少し落ち込みながら、私は苦笑いした。


「へ、変かな」


 私が恐る恐る聞くと、はっとしたようなお兄ちゃんは、やがて優しく笑った。


「……いや。きれいだよ、すごく。思わず見とれるくらい」


 少しだけ、照れたようにお兄ちゃんは言った。そして、感激して言葉が出ない私の手を取った。


「行こうか。そろそろ行かないと花火に間に合わない」


 幸せをかみしめながら私も頷いて、手をひかれるまま、お兄ちゃんの車に乗った。


 随分と、遠くまで向かっているようだった。車に乗っている時間がかなり長い。お兄ちゃんと一緒ならば全く苦痛ではないけれど、私はその意味にうすうす感づいてしまった。私たちが兄妹ということだ。だからお兄ちゃんは人目につかないように、私を連れ出すときは、わざわざ遠くまで出かけようとする。夜景を見に行った時に、あんなに遠いところを選んだのもそれだ。


 どこまで行ってもついてくる、兄妹という重たい形式。


「着いたよ」


 お兄ちゃんの声に、ふと我に帰った。車を降りると、すでに花火は始まっていた。私はきらきらと光る夜空を仰いだ。車に鍵をかけたお兄ちゃんは、そんな私の手を握ってくれた。込み上げるような、この切なさを。私を見つめるその瞳に、花火のかけらのような、きれいな光を見た。


 花火がよく見える場所まで近づいて、私もお兄ちゃんも手をつないだまま無言で花火を見ていた。

 つないだ手から伝わる温かさに、涙が出そうになる。


 二人で見上げる夜空に、夏だけの花が咲く。夏が過ぎたら枯れる、今だけの命を、散らせながら。その、ほのかな光が、私を照らす。お兄ちゃんを、照らす。私達は、あんなに儚くなんてない。一瞬の美しさより、ずっと続く安らぎが欲しい。お兄ちゃんのそばで、穏やかに笑っていたい。つないだ手の温かさは、私の想いがきっと消えないと思わせてくれた。


 一緒に、いたい。


「時間が、止められたらいいのに」


 お兄ちゃんが、ぽつりと言った。私は夜空からお兄ちゃんに視線を移した。夜空を見上げるお兄ちゃんの横顔は、あまりにもきれいだった。時間を止めて、今がずっと続いて欲しいと、お兄ちゃんは言っている。今一緒にいられる時間を、永遠にしたいと。これから先が不安なのは私も同じだ。けれど、絶対に離れない。お兄ちゃんのいない未来なんて、私には見えないのだ。


「そんなこと、言わないで? 時間なんて止めなくても、私ずっとそばにいるから……」


 言って、私はつないだお兄ちゃんの手を強く握った。この気持ちを、捨てたくない。認めてもらえないかもしれない。つらい思いもするかもしれない。それに立ち向かうには、もしかしたら半端じゃなく強い心が必要なのかもしれない。それでも私は、お兄ちゃんとの未来を信じたい。


「別れたくない……」


 やっと私を向いたお兄ちゃんは、苦しそうにそんなことを言った。まるで想いを吐き出してしまったような声。お兄ちゃんがこんなに感情的に物を言うのをはじめて見た。その瞳が今にも泣き出しそうに見えるほど、不安定に揺れている。


 ――それは、お兄ちゃんが初めて私に見せた、弱さだった。


 私まで泣き出したくなる。愛しいこの人を守りたい。幸せにしてあげたい。心の中は、お兄ちゃんへの感情でいっぱいだった。どちらともなく、つないだ手に力がこもる。つないでいるのは手だけじゃない。きっと二つの心まで、つながっていた。



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