21−2 達也
目を覚ますと、すぐ隣で愛しい妹が寝息を立てていた。
こんなに穏やかな気持ちで目を覚ましたのは初めてかもしれない。眠っている美香はまだ目を覚ます気配がないので、俺は美香の寝顔を眺めていることにした。昨夜は初めての美香にかなりの無理をさせてしまった。疲れたように眠り込んでいる美香に申し訳なく思った。
妹を抱いたということの重さを、俺は受け止めていかねばならない、そんなことはわかっている。けれど今もう少しだけは、この幸せに浸っていたかった。しばらくの時間そうして美香の寝顔を見ていると、美香がふと目を開けた。きょとんとしたような顔で、美香は数回瞬きを繰り返している。この状況についていけていないのだろう。
「おはよう」
にこりと笑って言うと、美香は考えるような仕草をした後、俺と自分とを見比べて、はっとしたような顔をした。何を思っているのかはよくわからないが、その表情の変わりようが見ていて面白かった。慣れないことに戸惑っているのだろうか。それはともかく美香が心配なので、俺は目を覚ました時から気にかかっていたことを気遣わしげに口にした。
「大丈夫? ごめんな、かなり無理させた」
「い、いいよ! もう忘れて、ね!」
途端に慌てだした美香は、少し声を大きくしてそんなことを言った。照れているのだろうか。
けれど忘れる理由が見つからない。昨夜のことはずっと覚えておきたいと思っているのだ。
「なんで? 可愛かったのに?」
「そ、そ、そういうこと、言わないでよ! もう!」
やはり照れているらしかった美香は真っ赤な顔をして、照れ隠しのためか少し怒ったような声で言った。そのまま背を向けてしまった美香が愛しい。キスがしたくなった俺は、必死に散らばった服を探してかき集めている美香の長い髪を、後ろからつんつんと引いた。
「美香、こっち向いて」
愛しさを隠さずに美香を呼ぶと、美香は怒っていいのか喜んでいいのかわからなかったのか、その中間の複雑な顔をして振り向いた。意地を張りきれていない妹が可愛らしい。その気持ちのまま、俺は美香にキスをした。
バイトに向かう時も、美香は玄関まで見送ってくれた。その顔に離れたくないと書いてある。気持ちは同じだと実感するたびに、幸せを感じる。キスをして家を出ながら、こんな生活がずっと続けばいいと思った。けれどこのまますんなりと上手くいくとは思えない。一緒にいると幸せすぎて忘れそうになるが、俺と美香は兄妹なのだ。
「達也先生、何かいいことあった?」
塾で授業をしていると、個別で教えていた教え子の夏木里香が、唐突にそんなことを言った。正直、驚いた。内心浮かれている部分はあったかもしれないが、そういう気持ちの変化は今まで誰にも悟られるようなことはなかった。今日だって、夏木以外に誰もそんなことには気づいた様子はなかった。何も言わない俺に対して、夏木は少し苦笑した。
「そんなにびっくりしないでよ。先生とあたしは“同じ”だから……。わかるよ?」
「同じ……?」
「今はまだ教えてあげない。でも先生がピンチの時は、あたし協力するよ」
そんなことを言って、夏木は無邪気に微笑んだ。この生徒は、美香とのことを『ひみつの恋』だと言ったり、今日のようによくわからないことを言ったり、勘がいいのか何なのかよくわからない。けれど同じだという言葉に、心のどこかで納得する自分が居る。何か似たものを感じるのかもしれない。
休憩時間に入って、美香が何をしているのか気になった。というより、純粋に声が聞きたかったのかもしれない。今までもそういうことは何度かあったが、結局ためらった末に電話はしないことが多かった。兄妹という間柄では、用事がないのに電話するというのはかなり気が引けるものだ。けれど今は、何も理由をつける必要がない。そんなことを嬉しく思いながら、俺は美香に電話をかけた。数回鳴らしたところで、美香が出た。
『もしもし?』
受話器越しに聞こえる美香の声すら愛しかった。相当に重症らしい。高まる感情を抑えながら、俺は美香の名前を呼んだ。
「美香?」
『どうしたの? 電話なんて……バイトは?』
やはり今まで電話なんてろくにしたことがないから、美香は少し驚いた様子だった。
「今休憩時間。別に用事はないけど……。だめかな」
『ううん。でも家でも話せるのに?』
「何となく、声が聞きたくて。……今までもね、俺は美香と用もないのに電話したり、一緒に出かけたりしたかったよ。でもそういうのは兄貴の役目じゃなかったから」
『うん。そうだね……』
しんみりとした美香の声。美香も俺と同じものを抱えてきたのだ。先は見えなくても、今一緒にいられる時間は、少しでも美香を幸せにしてやりたい。そう思ったところで、ふと思いついた。いつか見に行った夜景を美香に見せてやれば、喜ばせることができるかもしれない。
「美香。今夜俺に時間をくれない?」
『こ、今夜……?』
「夜景見に連れてってやるよ」
俺が言うと、美香は黙り込んでしまった。何かまずいことをいったかと思ったが、何も思い当たらない。夜景はあまり好きではなかったのだろうか。けれどいつか、テレビに出た景色に美香は感動していたのだ。嫌いだとは考えにくい。
「美香?」
『う、うん! わかった! また後でね!』
不思議に思って名前を呼ぶと、美香は不自然に大きく返事をして、そのまま電話を切られてしまった。
何かよくわからず、俺は首をかしげた。
そのまま午後の授業に入った。美香との約束が待ち遠しかった俺にとって、夜に差し掛かるまで詰まっている授業は正直きついものがあった。やっとのことでバイトを終えて、疲れて家に戻ると、美香は居間で勉強道具を広げたまま眠っていた。いつもマイペースでのんきな美香に思わず苦笑する。
少し苛めてみたくなって、その頬を軽くつねってみた。けれど美香は起きる気配がなく、拍子抜けした。仕方なく体を揺すると、しばらくしてやっと美香が目を覚ました。寝起きの気の抜けたような美香の顔を内心可愛く思いながら、その額を軽く叩いた。
「こら。また寝てたの?」
「うん、ごめん……なんか最近居眠り多くて」
ついさっき芽生えて失敗したいたずら心が未だ残っていた俺は、美香をからかってやることにした。
「今日の場合、寝不足にさせたのは俺かな……」
「も、もういいってば、その話!」
すると思惑通り、美香は真っ赤になって慌てだす。あまりに想像通りの反応をするのがおかしくて、思わず少し笑った。美香はそんな俺を見て、拗ねてむくれる。そんな愛しい妹の手を取り、外に連れ出した。美香とどこかに出かけるということを、俺は自分が思うより喜んでいるようだった。美香に触れていたかった俺は、運転に支障がない程度に助手席の美香の手を握っていた。
目的地まで距離が随分あるので、たどり着くまでに少し時間がかかった。高台にある、小さな公園のような場所で、いつも人が少ない。周りの目を気にしなければならない俺と美香にとって、この場所は好都合だった。
「着いたよ。ここあんまり知られてなくて、来る人少ないけど、いいとこだよ」
車を止めて美香に言うと、美香は頷いて先に車を降りていった。今日は天気がよく、夜景はなかなかものだったので少し安心した。美香は車を降りてすぐ、感動したように手すりに駆け寄り、落ちてしまうのではないかと見ている方がひやひやするほど、身を乗り出して景色を眺めている。無邪気に喜ぶ美香が愛しい。俺が車を降りていくと、美香は振り向いて言った。
「すごい! こんなとこあったんだね……」
「喜んでくれたならよかった。前に友達と来たんだけど、美香を連れてきたいと思ってたんだ」
喜ばせてやれたことに満足しながら、俺も手すりの前の美香の横まで行った。すると珍しくも美香が甘えるように寄りかかってきた。そんなことをされては、抱きしめたい衝動に駆られてしまう。そんな俺の内心を知るはずもない美香が、少し遠慮がちな声で聞いてくる。
「……それって、女の人?」
「気になる?」
小さな加虐心はまだ残っていたらしい。焦らすように聞いたら、美香は意地を張っているのか、別に、と言った。俺の方もふーんとだけ言って、そのまま沈黙してやると、すぐに美香は根を上げた。
「嘘。気になる……」
正直なその言葉が、愛しくもあり嬉しくもあった。くすりと笑って、俺は隣に寄り添う美香に答えてやる。
「残念ながら、男ばっかで来た。あいつらはナンパするってはりきってたけど、誰もいなくて拍子抜けしてたよ」
「お兄ちゃんもナンパしようとしたの?」
すると予想していなかったことを聞かれて、少し苦笑した。そんなことをするはずがない。昔から、俺は美香以外の女に興味を持てたことがない。それは異常なことなのだろうか。もしも血がつながっていたとしても、俺はやはり美香を好きだっただろう。偶然、なのだ。血がつながっていなかったことは。だから俺の罪が軽くなるとは思えない。
「俺は、美香以外の女に興味無かったから」
俺の言葉を受けて、美香は少し切なげに眼を細めた。そのまま何も言わず、二人で夜空を眺めていた。ちらと横の美香を見ると、その横顔がとてもきれいに見えた。ほんのこの間まで少女だった美香は、だんだんと女に変わりつつある。これからもっときれいになっていくだろう。俺のそばで、俺のために変わっていってほしいと、願う俺の心に“兄”としての自分はもう見つけられない。
誰が許してくれるだろう。誰が許さないと言うだろう。こうして美香と居られるのに、まだ苦しいのは、本当にこれでよかったのかわからないからだ。美香を幸せにしたい。けれど、俺にそれができるのか。今美香の横にいられる幸せと同時に、俺に襲いかかる重圧は、想像以上に重かった。
「夏休み……もうすぐ終わっちゃうね」
美香がどこか淋しそうにぽつりと言った。再び星空から美香に視線を移す。二人きりの星空の下、感じるこの愛しさを。罪など知らずに、周りの目など気にせず、ただ美香と愛し合っていたかった。どうして兄妹で一緒にいてはいけないのだろう。
血のつながりはない。俺たちを邪魔するのは、ただ兄妹という形式と周りの非難の目だけだ。けれどその二つがどれほど重たく辛いものか、俺はすでに思い知ってしまっている。美香には純粋なまま、罪など思い知らせてしまいたくない。この幸せを誰にも邪魔されたくはないのに。俺は美香の頬に手を伸ばした。
「このまま、お前をどっか連れて行きたい。誰も俺たちを知らないどこか。遠いどこか」
言って、俺は想いのまま美香を見つめた。誰も俺たちを知らなければ、誰も兄妹だと思わない。誰も俺たちを傷つけない。美香を、傷つけないで済むのだ。美香は俺の手に自分の手を重ねてきた。
「……連れて行ってよ」
美香の素直な声が、心に響いた。夢のような話だ。けれど現実を見て冷静に考えれば、それがどれほど非現実的な話かわかる。自分の信念を貫き、無謀な道に走れるほど子供じゃない。
「お兄ちゃん?」
美香は俺の内心に感づいたのか、少し不安げな様子だった。美香が愛しいという気持ちは、常に膨らんでいくばかりで、どうしようもない。美香にキスをしようとすると、美香は何も言わなくてもわかってくれたようで、自然に目を閉じた。
その瞬間確かに美香と心が通じ合ったと感じた。
例えこれが過ちだとしても。このまま美香と居ることを許してほしい。
世界に二人だけしかいないと錯覚してしまいそうな、広い星空の下、美香とキスを交わす。それは、かけがえのない瞬間だった。