20−1 美香
お兄ちゃんは、しばらく何も言わずに私を抱きしめていた。
抱きしめられたまま、私は混乱する頭で、お兄ちゃんに今告げられた言葉の意味を必死に模索していた。お兄ちゃんの中で私はただの妹だと、思い知ったばかりだったのに。けれど今、お兄ちゃんが私をあまりにも優しく抱きしめるから、わからなくなってしまう。
――女として見てると思うよ。そうとしか思えない――
石橋さんの言葉が頭に浮かんで、はっとした。女として、なんて。今まで何度も期待しては突き放された。だから、もうそんな希望は捨てていた。ただの妹であろうと、必死になっていた。なのに、お兄ちゃんの腕の中で湧き上がる、胸の奥の愛しい感情が、私の心をまどわせ始める。
そうして、お兄ちゃんは体を離し、私を見つめた。まっすぐなその瞳の色から、目が離せなくなる。
「お兄ちゃん……」
「……帰ろうか。美香も疲れただろ? 今日は帰って休んだ方がいい」
お兄ちゃんのその言葉に、今お兄ちゃんが言ったことも抱きしめられたことも、すべてなかったことにされてしまうのかと、私は一瞬恐怖した。けれどお兄ちゃんはそのまま歩きだすのではなく、手をつないでくれた。何も言葉がなくても、その手の優しさと温かさが、私に伝えてくれる、お兄ちゃんの気持ち。
それでも、もう何度も絶望を経験した私は、そう簡単に安心することができない。
お兄ちゃんに手をひかれ歩きながら、不安を打ち消すように思わずその手を強く握ってしまった私に、お兄ちゃんはやんわりと握り返してくれた。こんな気持ちを、どうしていいかわからなくなるくらい、私はお兄ちゃんでいっぱいになってしまう。
車に乗るとき、手を離さなくてはいけないことすら、私にはとても辛くて不安だった。
名残惜しげに手を離して、そのまま助手席に乗った。それから車を運転しだしたお兄ちゃんは何も言わなかった。後悔しているのかとか、取り消そうとしているのかとか、そういうマイナスな考えしか浮かばず、心の中が不安と焦燥感で埋め尽くされるようだった。
そんなことを思っていると、あっという間に家についていた。
私は車を降りようとして、でもエンジンも落とさずシートベルトも外そうとしないお兄ちゃんに気づき、不思議に思いながら運転席のお兄ちゃんを振り返った。すると私の言いたいことをわかってくれたお兄ちゃんは、困ったように笑った。
「ごめん。バイトに戻らないといけないんだ。途中で抜けてきてさ」
「そう、なんだ。でも……」
心の中の消せない不安を消してほしくて、私は思わずそう言った。不安だったのだ。このままお兄ちゃんが行ってしまって、そして戻ってきたときには、また兄妹だからだめだと言って拒絶されるんじゃないかと。けれどそんなことを言っていてもきりがないことくらいわかっていた。本当は引き止めたかったけれど仕方なく、私は引き下がった。
「……わかった。早く、帰ってきてね」
「美香」
車を降りようとドアを開けた時、お兄ちゃんに引きとめられて私は振り向いた。
するとお兄ちゃんは、私の前髪をかきあげ、額にとても優しいキスをくれた。
「大丈夫。俺も気持ちは同じだよ。もう、絶対泣かせたりしないから」
お兄ちゃんはとてもやさしく微笑んでくれて、なんだか泣きたくなるほど胸がいっぱいになった。私に似た色を宿した瞳は、今は私を見てくれている。今までだって、お兄ちゃんにその色を何度も見つけた。私とおなじ想いを抱えた瞳の色。
「うん。帰ってくるの、待ってるね」
そう言って、微笑みながら私はお兄ちゃんを見送った。けれど頭ではお兄ちゃんの言ってくれたことをわかっていても、どうしても心に不安が残っていた私は、家に入っても居てもたっても居られず、玄関に座ってお兄ちゃんを待っていた。
「……美香?」
ふと、お兄ちゃんの声を聞いて、目を開けた。どのくらいの時間がたったのだろう。気づけば周りが薄暗くなっていた。眠ってしまっていたようだった。そうして目の前には今帰ってきたばかりの様子のお兄ちゃんが立っていた。
「何してるんだよ。ずっとここにいたのか?」
「待ってたの」
寝起きのせいか、私の口から少し掠れた声が出た。お兄ちゃんは靴を脱いであがってくると、荷物を置きながら言った。
「なんでこんなとこで……待っててくれるのは嬉しいけど、夏だからってこんなとこで寝たら、風邪ひくだろ」
「だって……、だって怖かった。怖かったんだよ、お兄ちゃん……」
切羽詰まっていた私は急いで立ち上がると、私の前に立っているお兄ちゃんに抱きついた。
お兄ちゃんは少し驚いたような気配をさせながらも、私を受け入れてくれて、それがなんだか安心して涙が出た。まるで小さい子をあやすように、しゃくりあげる私の頭を、お兄ちゃんの大きな手がなでてくれる。
「泣くなよ……。美香に泣かれると、どうしようもない気持ちになる」
お兄ちゃんの優しい声がそう言ってくれても、涙を止めることができなかった。私は本当にこの人が好きなんだと思った。やっと手にした幸せなのに、もう失うことを恐れているなんて。
辛かったのだ。ずっと苦しかった。ずっと昔から、こんなにも想いは大きく、私の胸には入りきれないほどなのに、私は妹だった。お兄ちゃんはお兄ちゃんで、私たちは兄妹で。想いは、ずっと届かないと思っていた。それでも想いは捨てられなかった。ただ好きになってしまったのが“お兄ちゃん”だというだけで、いけないことだと自分を責めてきた。
けれど今、やっと気持ちを受け入れてもらえた。私の、たった一人の大切な人に。それを思うと、涙が止まらないのだ。
「美香」
昨日と同じように甘い声のトーンでお兄ちゃんに名前を呼ばれて、涙にぬれたままの顔を上げた。するとお兄ちゃんは私にキスをした。今度は額ではなく、唇に。いつかのように激しいわけでもなく、昨夜のように一瞬触れるだけでもなく。お兄ちゃんは私の唇を吸うようにしながら、何度も重ねてくる。ひたすらに優しいキスだと思った。触れるだけで、気持ちが伝わってくるようで、とても幸せだった。
それから私は、できる限りずっとお兄ちゃんのそばにいた。今まですれ違い続けた時間を埋めるように、些細なことで笑い合った。とても満たされた時間で、お兄ちゃんは何度も私にキスをしてくれた。泣きたくなるほど幸せで、一緒の時間が永遠に続けばいいとすら思った。
けれど大切だと思えば思うほど、時間が過ぎるのは早すぎて。気づけば、もう寝る時間になっていた。
一人の部屋に戻りたくなかった。一人で寝るのは怖い。お兄ちゃんを信じていないわけではない。けれど手にした幸せはあまりにも大きすぎて。明日の朝になって、もし今日のことが夢だったら、それかやっぱり妹に戻れと言われたらと、不安で仕方ないのだ。
お兄ちゃんもなんとなくそんな私の内心をわかってくれていたのか、私の部屋の前まで見送ってくれて、「おやすみ」と言ってくれた。お兄ちゃんの笑顔を見て心の中の葛藤に負けた私は、部屋には入らず、またお兄ちゃんに抱きついた。
「美香、どうした? 今日はやけに甘えんぼだね」
くすりと笑ったお兄ちゃんは、聞き分けのない子供のような私に呆れることもせず、また私の頭をなでてくれる。その声も態度も、まるで私のことを甘やかしてくれているみたいで、胸がきゅうとなった。好きで、好きすぎて、やっと捕まえた大切な人。きっと私の、一生に一度の恋。だから今、一瞬でも離れていたくない。お兄ちゃんの一番近くにいきたい。そんな思いでいっぱいだった。
「ほら、もう寝ないと。明日がきついよ」
けれどお兄ちゃんがそんなことを言うので、仕方なく私は頷いた。そしてお兄ちゃんに見送られて、部屋に入った。だけどどうしてもお兄ちゃんといたかった私は、五分もしないうちに、気持ちに突き動かされるまま部屋を出た。
お兄ちゃんの部屋の扉をノックすると、すぐに返事が返ってきた。遠慮がちに扉を開けると、お兄ちゃんはベットの頭にある小さなランプだけをつけて、ベットに座っていた。私は部屋に戻る意思がないことを示すように、後ろ手に扉を閉めた。お兄ちゃんの澄んだ瞳がそんな私を映している。
しんと静まり返った夜の静寂を壊すように。私は静かに声を発した。
「お兄ちゃん、一緒に寝てもいい?」
私の言葉を受けたお兄ちゃんは、私の言うことを予想していたのか、驚いた様子は見せず、困ったような目になった。
「美香。俺はもう、今まで通り兄貴でいられる自信がない。簡単に一緒に寝るなんて言ったらだめだよ」
「わかってるよ。私だってそんなに子供じゃない。でも、どうしても今夜は一人でいたくないの。お願い……」
縋るような私の声。お兄ちゃんの瞳が少しだけ揺らいだのを私は見逃さなかった。
けれど一呼吸の間をおいて、お兄ちゃんは諭すような声で言った。
「俺もお前と一緒にいたいと思ってるよ。ただ、やっぱり俺たちは普通の恋人同士とは違う。だから――」
「知ってるんだよ? 本当の兄妹じゃないって。それでも、だめだって言うの?」
お兄ちゃんの言葉を遮って、私はついに切り札を出した。
流石にこれには驚いたのか、お兄ちゃんは目を丸くした。そんなお兄ちゃんには構わず、私は必死に言葉を続ける。
「私ずっと思ってた。妹なんていやだって。お兄ちゃんもそうなんでしょ? そう言ったじゃない……」
言い終わって、私は俯いた。確かめたかったのかもしれない。ずっと私の胸にあった思い。妹としてじゃなく、女として見て欲しい。今、お兄ちゃんの中で私は女に変わっていっているのかもしれない。だからこそ、もう妹には戻れない。お兄ちゃんの中にいる妹としての私を、壊してしまいたかった。それに、お兄ちゃん触れていたいという自分も居て、今自分を止める理由が見つからないのだ。
短い、沈黙の後。
「おいで」
お兄ちゃんの優しい声がそんなことを言ったので、私ははっとして顔を上げた。恐る恐る近づくと、お兄ちゃんは今日何度目かもわからないキスをくれた。ついばむようなキスを何度かした後、顔を離すと、お兄ちゃんは少し切なげに目を細めた。
「ずっと好きだった。……兄貴失格かもな。お前のこと、女にしか見えないんだ」
「そんなの……私だって同じだよ」
込み上げる想いを抑えられないままに、私はお兄ちゃんを抱きしめた。お兄ちゃんはもう一度私にキスをした。徐々に深くなっていく、酔いしれてしまうほどの甘いキスだった。キスをしたまま、お兄ちゃんの手がやさしく私に触れて、思わずびくりとしてしまった。するとお兄ちゃんの手はすぐに引っ込んでいった。
「無理しなくていいよ。美香の気持ちだけで、十分だから」
唇を離して、お兄ちゃんは相変わらずの優しい声でそんなことを言ってくれた。
どんな時も私を大切にしようとしてくれるお兄ちゃん。胸にどうしようもない愛しさが込み上げた。
「大丈夫。大丈夫だから……約束してくれる? 私のこと、もう絶対離さないでね。ずっとそばにいてね」
「うん……」
お兄ちゃんは、しっかりと頷いてくれた。
この人を、離したくない。
間違っているとか、道徳観念がどうとか、他人がどんな目で見るとか。
そういうのを全部犠牲にしても、ただ、今の私たちには、お互いを求めて、一緒にいたいという気持ちだけがそこにあって。
他には何もいらない。
こんなに胸を焦がすほどに、愛しい気持ちがあるなんて知らなかった。与えられた甘さも痛みも、全部がお兄ちゃんで、全部が愛おしいと思った。幸せで流す涙が本当にあるなんて、初めて知った。大好きな大好きな、泣きたくなるほど大切な、私の宝物みたいな人。この幸せを守りたい。例え私たちは兄妹でも、きっとこの気持ちは本物だから。