19−2 達也
今朝は、美香に普通に接することができなかった。
迷いが生じていた。美香を守りたいと思っていた気持ちに嘘はない。だが、それだけではなかったことに、気が付いてしまった。罪の意識――多分これが、俺の行動を決定づけていたのだろうと思う。血のつながりはなくても、美香が生まれたときから兄妹として生きてきた。だから、俺と美香は本当の兄妹の感覚に近いのだ。
けれど美香は、血がつながっていると思っていても逃げなかった。対して俺は、口先ばかりで逃げるなと美香にアドバイスしておいて、自分自身が逃げているのだからどうしようもない。俺の態度によって、美香をより傷つけた。けれど俺が美香を選んだとしても、美香は傷つくだろう。このままではいけないと思う。でも、どうすべきなのか見えてこない。
「笹原センセー」
背後から声をかけられて、振り向くと、顔は知っていても名前を思い出せない高校生の男子生徒がいた。休憩時間とはいえ今はバイト中だ。とりあえず今は、美香のことは考えないようにしようと思った。
「何?」
「次の時間さ、俺に授業してくんない? なんか変更されて、青木センにされちゃったんだよね。俺、あの人合わない」
言って、男子生徒は困ったように眉根を寄せた。確か、以前に石橋に授業を受けているのを見たような気がするのだが。
「石橋は? 担当だったろ?」
「うん、それがさー」
聞くと、男子生徒は待ってましたとばかりに苦笑しながら話し始めた。
「俺、石橋センに彼女の友達紹介しろってしつこく頼まれてたから。今日紹介してやったの。そしたら生徒よりそっち優先しやがった」
「へぇ。まぁあいつはそういう奴だから……」
呆れかえった俺はフォローしてやる気も起こらず、薄情にもそう言った。
すると、だよねー、と言ってから、男子生徒はますます苛立ちを表すように眉間にしわを寄せた。
「でもさー。自分から高校生に手を出すもん? 前から目を付けてたらしいけど。俺なんか駄目だわ、そういうの」
前から目を付けていた、という言葉を聞いて、心に引っかかるものがあった。石橋は以前から美香に執着していたのだ。しかも、高校生という話。嫌な予感がした俺は、思わず口調を強めて男子生徒に問いかけていた。
「お前、彼女の高校は? 石橋は今日どこに行くって?」
「え、なんで」
「いいから!」
たじろぐ男子生徒は、頭の上に疑問符でも浮かんでいそうな顔をしながら、それでも俺の剣幕に押されたように答えた。
「彼女はS高だけど……。石橋センはなんか公園に行くって言ってたよ」
その一言で、予感は確信に変わった。美香はS高なのだ。
「悪い。俺も見てやれない」
短く言ってから、居ても立っても居られなくなった俺は、バイトも放り出して塾を出た。
それから、ひたすらに思い当たる公園という公園を探して車を走らせた。その間のことはよく覚えていない。とにかく必死だった。石橋はあまり女癖がよくない。美香に何をしでかしてもあいつならおかしくないのだ。そうして三十分ほど回ったところで、やっと駐車場に停車している石橋の車を見つけた。公園の場所などわからなかったが、この近くであることはわかったので、車を止めてから走って周辺を探した。
すると、美香の声が聞こえた気がして、それを頼りに走っていくと、信じられない光景が目に入った。
石橋が、堂々と道の真ん中で、美香に無理やりキスをしようとしていたのだ。
「やだ、やめて……! お兄ちゃん!」
必死に抵抗をしようとしている美香の悲痛な叫び声に、かっと頭に血が上った。自分を保てなくなるくらいに石橋への怒りで心が埋め尽くされた俺は、石橋の所まで行き美香から引き剥がして、その胸倉を力の限り持ち上げた。石橋はこの状況がすぐにはわからなかったのか、俺に持ち上げられたまま数回瞬きした。
「石橋!」
「た、達也……。何だよ、よくここがわかったな」
俺の怒声にやっと我に返ったのか、石橋がたじろいだ様子で言った。
「石橋。お前、今何してた?」
「別に、ちょっと……」
「何してたかって聞いてるんだよ!」
言い逃れでもしたそうな石橋に苛立って、俺は更に石橋を締め上げた。
怒りにまかせて殴り倒してやろうかと思ったその時、美香に服を掴まれてはっとした。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん。もういいから……」
美香は必死な様子だった。そうだ、ここには美香もいるのだ。美香に殴り合いを見せるわけにはいかない。
仕方なく、俺は怒りのはけ口を探すように石橋を突き放した。
「失せろ」
そんな言葉を吐き捨ててやると、地面に尻もちをついた石橋の方も、息を整えながら苛立ったように舌打ちした。
「なんだよ、そんなにムキになって。妹相手に……どっかおかしいんじゃないのか」
俺に向かって放たれた石橋の声。けれど石橋が何を言っていようと、聞いてやる気もその余裕も今の俺にはなかった。
美香が心配で仕方がなかったのだ。
「美香、大丈夫か? あいつに何された?」
恐る恐る美香に問うと、美香は涙目になりながらも首を横に振った。
「大丈夫。ちょっと……怖かったけど。お兄ちゃんが守ってくれたから。もう大丈夫だよ」
「……よかった。ごめんな。もっと早く来てやれれば……」
確かめるように美香の髪をなでると、美香の表情が少し和らいだ。そうして、美香は涙目のまま健気な笑顔を見せた。
「私、お兄ちゃんの妹でよかった。こうやって、守ってもらえるもん」
美香のその言葉は、俺の心に大きな衝撃を与えた。
わかっていたはずだった。美香に妹であることを強要させたのは俺だ。兄であることを貫こうとしたのは俺だ。けれど今、愛しい妹が奪われていくかもしれなかった瞬間を目の当たりにして、そしてその上、俺を好きだと言っていた美香が、妹ということを受け入れ始めているのだ。
すべては、俺の望んだことのはずだった。兄妹だと言って逃げていたら楽だっただろう。けれど、例え兄妹であっても、もうこの気持ちを抑えることなどできそうにない。引き返せない所まで来ている。間違っているのか正しいのか、そんなことに構う余裕はなかった。
この気持ちを、美香に告げようとしては躊躇して、無駄な抵抗を試みたけれど、それはやはり無駄だった。
観念した俺は、長い息を吐いた。
「ごめん。もう、無理だ……」
「え? きゃ……!」
俺に突然抱き寄せられた美香は、驚いたような声を上げた。
込み上げる愛しさを抑えるすべも知らず、俺は心のままに美香を強く抱きしめた。
「もう、兄貴は嫌なんだ」
腕の中に居る愛しい妹に初めて告げた、隠し続けてきた俺の「ひみつ」の感情を。
――それは、罪であろうと何であろうと、背負っていくと決めた瞬間だった。