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「ひみつ」  作者: 名無し
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19−1 美香

 昨夜の、最後のキスから一晩明けて。


 今朝、私とお兄ちゃんはとてもぎくしゃくしていて、もう前のような兄妹の関係ですらなかった。そのままバイトに行ってしまったお兄ちゃん。あまりの辛さに、好きな人を忘れるにはどうしたらいいかと、私はかよちゃんに電話した。私の悩みを聞いたかよちゃんは、“新しい恋”だといった。


 かよちゃんによると、かよちゃんの彼氏の知り合いに、私のことを紹介してほしいと言っている人がいるらしかった。そうしていつものごとく強引なかよちゃんにされるがまま、無理矢理に紹介されてしまった。その人は大学生らしくて、しかもお兄ちゃんと同じ大学だと聞いてためらったけれど。お兄ちゃんを忘れるためには、逆にそっちの方がいいのかもしれないと、無理やり納得した。


 待ち合わせなんて、初めてだった。気乗りはしなかったけれど、ここまで来てしまったからには仕方ない。

 私はしかたなく紹介された人の登場を待っていた。じリつくような暑さが不快だった。


 待ち合わせ時間を五分ほど過ぎて。やがて、私の前に車が止まった。

 窓が開いて、あまり格好も良くなく、どこか雰囲気がよどんでいて好感が持てない男の人が顔を出した。


「美香ちゃん、だよね? 紹介してもらった石橋です」


 私がどうも、と適当に挨拶を返すと、石橋さんはすぐ近くの駐車場に車を停めてから戻ってきた。石橋さんは私の顔を見て、にこりと笑った。何か、嫌な笑顔だと思った。私はこの人と合わないのかもしれないと、直感が訴えている。


 そんな私の内心も知らず。石橋さんが相変わらずにこやかな表情で言った。


「少し歩かない? この近くに日が当たらなくて涼しい公園があるらしいから」

「あ、はい……」


 こういうのは初めてで、戸惑っている私の手に、石橋さんは突然触れてきた。びくりとして、咄嗟に手を引っ込めようとしたけれど、そのまま強引に掴まれて手をつながされた。指の間に指を絡めるような手のつなぎ方にぞっとした。


「いやぁ、前に見かけたことあるだけだったんだけど、近くで見ると本当に可愛いね。達也の奴に紹介しろって言っても、全然だもんなぁ。回りくどい手使って、やっと紹介してもらえた」


 歩きながら、石橋さんの口から突然お兄ちゃんの名前が出てきたので驚いた。

 同じ大学とは聞いていたけど、まさかお兄ちゃんと知り合いだなんて思っていなかったのだ。


「お兄ちゃんのこと、知ってるんですか?」

「うん、達也とは同じ大学で同じ学部。バイト先まで一緒だよ。美香ちゃん達さ、仲のいい兄妹だよね」


 少し身を乗り出して聞いた私に、石橋さんはちょっと笑いながらそんなことを言った。

 仲のいい兄妹。少し前までなら、そうだったかもしれない。でも、今ではもう兄妹という関係も表面上だけのものになりつつある。壊したのは、私だ。そう思うと、一気に気持ちが落ち込んでいく。


「私、お兄ちゃんにひどいことしちゃって。もう……妹とも思ってくれてないかも」


 俯きがちに、私はそう言った。けれど、石橋さんは一瞬の間をおいて突然笑い出した。


「あはは。美香ちゃんわかってないね。あいつは美香ちゃん中心に回ってるよ。面白いくらいに、美香ちゃんのことばっかり考えてる」


 私にとってとても深刻な問題を笑い飛ばされた上に、見当違いのことを言われてむっとした私は何も言わなかった。お兄ちゃんにとって私は只の妹にすぎないと、昨日まざまざと思い知らされたばかりなのだ。けれど石橋さんはそんな私に気づいた様子もなく、もっともらしく続ける。


「妹と思ってないって? うん。確かにそうだろうなぁ。あいつのなかで、美香ちゃんは妹よりもっと大きいんじゃないかな」

「どういう意味ですか?」


 石橋さんが言おうとしていることが全くわからなくて、私は怪訝な気持ちで聞き返した。

すると突然、それまでへらへらしていた石橋さんの表情が真顔になった。


「俺はね。女として見てると思うよ。そうとしか思えない」

「そんな……、そんなわけないじゃないですか」


 少し強い口調で、私は苛立ちをそのまま表現した。何を言い出すかと思えば。そんなはずはない。それを何よりも望んでいたけれど、結局妹の私には手が届かなかったのだ。例えこの人が冗談じゃなく本気で言っているのだとしても、許したくなかった。


「あ、信じたくないんだ? わかるよ」


 けれど石橋さんは相変わらず見当違いのことを言っている。無理だ、と思った。この人は私と根本的に考え方が違っている。

 そんなことを考えていた私の耳に、もっと許しがたい言葉が入ってきた。


「気持ち悪いよなぁ。美香ちゃんも可哀想だね、あんな兄貴持って」


 我慢の、限界だった。突然立ち止まった私を、石橋さんが不思議そうな表情をして振り返った。


「美香ちゃん?」

「謝ってください。お兄ちゃんに謝って!」


 私は声を大きくして、繋がれていた手を力いっぱい振り払った。

 それなのに、石橋さんは全く悪びれた様子も見せず、困ったように苦笑いした。この人には、人の心の痛みがわからないのだ。心無い言葉を平気で言うのだから。気持ち悪いなんて言葉を受けた人が、どんな想いをするか。私はよく知っている。石橋さんが解せないという表情で口を開いた。


「何、突然どうしたの?」

「お兄ちゃんのことそんな風に言うなんて、私絶対許せません」

「は? 何ムキになってるの。子供じゃないんだからさぁ」

「……帰ります」


 これ以上話しても無駄だと思った私は、吐き捨てるように言ってから、石橋さんに背を向けて元来た道を歩きだそうとした。

 けれど背後から強い力で腕を掴まれた。


「待てよ。そうはさせないよ?」


 さっきまでとは違って、その表情がどこか狂気じみている。その雰囲気からして、身の危険を感じた。


「ここまで来たんだからさぁ、キスくらいさせてくれない?」


 石橋さんはそう言ってぐいと乱暴に私を引き寄せ、両腕で私を拘束した。大きな恐怖と嫌悪感が私を襲う。


「っやだ! 離してください」

「いいじゃん。好きだったんだよ、ずっと」


 ものすごい力だった。びくともしない。周りの人に助けを求めようにも、夏の気温の高い昼下がりは人通りが少なくて無駄だった。息がかかるくらい近づいてくる石橋さんの顔を、私は必死に拒絶しようとしていた。


「やだ、やめて……! お兄ちゃん!」


 必死に、愛しい人の名前を呼び、助けを求めながら。私は逃れるようにきつく目を閉じた。

 覚悟したその瞬間、けれど私を拘束していた石橋さんの腕は突然離れていった。


「石橋!」


 聞き覚えのある声が、怒りを表すように強く発せられた。

 目を開けると、そこにはやっぱり険しい表情をしたお兄ちゃんが居て、石橋さんの胸倉をつかんでいた。身長のあるお兄ちゃんが小柄な石橋さんを半ば持ち上げているような状態で、とても迫力があった。


 私は、お兄ちゃんの様子に驚いていた。いつも優しいお兄ちゃんが、こんなに怒りをあらわにするなんて。

 お兄ちゃんは息が上がっていた。走ってきたのだろうか。


 石橋さんもお兄ちゃんの迫力に呑まれたのか、たじろいだ様子で言った。


「た、達也……。何だよ、よくここがわかったな」

「石橋。お前、今何してた?」

「別に、ちょっと……」

「何してたかって聞いてるんだよ!」


 有無を言わせぬ様子のお兄ちゃんに更に胸倉を持ち上げられて、石橋さんが苦しそうに息をあえいでいる。

危機感を抱いた私は、思わずお兄ちゃんの元に駆け寄った。


「お兄ちゃん! お兄ちゃん。もういいから……」


 必死な私を見て、お兄ちゃんは苦々しげに顔を歪めてから、石橋さんを乱暴に突き放した。解放された石橋さんが地面に尻もちをついた。必死に息をしている石橋さんに、お兄ちゃんは容赦ない言葉を浴びせた。


「失せろ」


 それを受けて、石橋さんの方も息を整えながら悔しそうに舌打ちした。


「なんだよ、そんなにムキになって。妹相手に……どっかおかしいんじゃないのか」


 捨て台詞のようにそう吐き捨ててから、石橋さんは駐車場に向かっていった。

 けれどお兄ちゃんはもう石橋さんには全く興味がないようで、私の方を向いて気遣わしげな眼差しを向けてくれた。さっきまでとは違って、いつもの優しいお兄ちゃんだった。


「美香、大丈夫か? あいつに何された?」


 声も、優しいまま。私は首を横に振った。さっきまで張り詰めていた糸が切れたように。なんだか安心して、涙が出た。


「大丈夫。ちょっと……怖かったけど。お兄ちゃんが守ってくれたから。もう大丈夫だよ」

「……よかった。ごめんな。もっと早く来てやれれば……」


 お兄ちゃんの手が、確かめるように私の髪をなでた。それにまた安心させられた。

 お兄ちゃんは、私を守ってくれた。息を切らして走ってきてくれた。あんなに怒るほど私を心配してくれた。気持ちは手に入らなくても。もう、それだけで十分幸せだった。


「私、お兄ちゃんの妹でよかった。こうやって、守ってもらえるもん」


 私の心からの言葉を。精一杯の笑顔を向けて、私はお兄ちゃんに告げた。けれどお兄ちゃんは笑い返してはくれず、少し辛そうな表情をしている。そうして、お兄ちゃんは、何かを抑えるように、口を開きかけてはやめるのを何度か繰り返して。けれどやがて、お兄ちゃんはため息のような長い息を吐いた。


「ごめん。もう、無理だ……」

「え? きゃ……!」


 お兄ちゃんのよくわからない言葉を聞き返すと同時に、突然抱き寄せられて、私は驚いて声を上げた。

 昨夜と同じように、私はお兄ちゃんの腕の中にいた。けれど、お兄ちゃんは昨日よりもきつく私を抱きしめた。


「もう、兄貴は嫌なんだ」


 お兄ちゃんの切羽詰まったような切なげな声が、頭の上から聞こえて。私は、驚きに目を見開いた。

 ――その言葉の、意味を。


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