18−2 達也
意識を手放した美香は、そのまま眠り込んでしまった。ベットに運んでやったままの姿勢で、小さく寝息を立てている。
もう外は暗く、完全に夜になっていた。
美香が目覚めないのは、昨夜寝不足だったからだろうと予想はついても、やはり心配だった。美香は眠っているので電気はつけられない。薄暗い部屋の中、俺は飽きもせず月明かりに照らされた美香の寝顔を眺めていた。
幼いあの日と同じように、美香は俺に傷付けられ、震えるように泣いていた。
俺を好きだと言って涙を流す美香は、切なくなるほど愛しかった。想いが何倍にも膨れ上がったのだ。けれど今も、あの日の幼い俺自身が俺に歯止めをかけている。兄として妹の笑顔を守ってやらねばならないと。
今、俺が美香を自分の欲望のまま愛してしまったら、きっと美香を壊してしまうだろう。義理とはいえども兄に傷つけられる美香はあまりに哀れだ。そうして、周りからの非難の目も降りかかってくる。
俺が守らないといけない。美香を、兄である俺自身から。美香の気持ちを利用するな。
そうして必死に自分に言い聞かせ、俺は自分を抑えていた。
けれど以前よりも大きくなった想いを抑えるというのはやはりとても難しいことで。思わず、俺は美香の髪に触れようとした。その時、突然廊下の電話が鳴り響いてびくりとした。まるで俺を止めるようなタイミングに、少し苦笑した。そっと立ち上がり、美香を起こさないように部屋を出た。
「もしもし?」
『あ、達也?』
電話に出ると、聞き慣れた声が受話器から聞こえた。母さんの声だった。母さんは心配で電話をかけてきたようだった。食事のことや生活のことで、いろいろと話した。ある程度の話が済んで、母さんはふぅと息を吐いた。
『ちゃんとやれてるみたいね。よかった。……それでね、達也。今日電話したのはね。もう一つ話があったからなの』
すぐに、ピンときた。先程までとは打って変わった母さんの深刻な声は、それが真面目な話だということを物語っていたのだ。
『もちろん、電話で話すようなことじゃなくてね。お父さんとも話し合ったんだけど。ちゃんと、家に戻ってから……』
「知ってたよ。俺が、家族の誰とも血がつながってないって……養子だって、ことだろ?」
母さんの話の途中で、俺は思い当たったことを言った。受話器の向こうで、息を呑む気配がした。
『知ってたって……どうして』
「偶然、聞いたんだ。ごめん。今まで黙ってて……」
『……そう。知ってたのね。美香は、このこと……?』
「うん、美香は何も知らないから。今はちょっと、いろいろあってね。話すのはまだ……。しばらく時間をくれないかな」
俺がそう言うと、母さんは受話器の向こう側でしばらく沈黙した。今はまだ、このことを知らせるのは早い。特に今は、美香は俺のせいで傷ついている。これ以上、余計なことを背負わせたくない。短い沈黙の後、母さんは慎重に声を発した。
『……わかったわ。でも夏休みが終わる頃には、話をさせてちょうだいね。夏休みの終わりには、私もそっちに戻るから』
「うん。わかった」
そこで会話を終えて、受話器を置いた。美香は、俺と血がつながっていないことを知ったらどう思うだろう。俺と同じに、より想いを強くするだろうか。これ以上、苦しめたくはないのに。
美香の部屋に戻ると、美香はまだ眠っているようだった。ベットの横に座ってその顔を覗き込む。
そのあどけない寝顔が、どうしようもなく愛しかった。
「美香……」
込み上げる想いを抑えながら呼んだ名前に、返事はない。
そっとその頬に手の甲で触れると、美香がびくりと体を震わせた。起こしてしまったようだ。
「あ、ごめん。起こした?」
美香が目を開けたので、慌てて美香に触れていた手を離した。寝起きの悪いはずの美香は、今は珍しくとても寝覚めがいいようだった。美香は別に熱を出していたわけではないが、まだ美香に触れていたかった俺は、熱を見るように振舞い建前を作ることで、美香の額に触れた。
「具合は? もう大丈夫?」
「うん。もう平気みたい。ごめんね。私、最近こんなのばっかだね」
「いいよ。でもちゃんと休んでなかったんじゃないのか? 全然起きないから、かなり心配したよ」
美香は大丈夫だと言ったのに手を離したくなかった俺は、額の手を私の耳の上あたりに移動させて、美香の髪をなでながら微笑んだ。すると美香は俺の手に、自分の手を重ねてきた。少し、驚いた。
「お兄ちゃん。私……」
今にも泣きだしそうな潤んだ瞳で、美香は切羽詰まったようにそれだけ言った。美香の思っていることはすぐにわかった。俺は、どうして今まで気づいてやれなかったんだろう。その瞳に浮かぶ光は、俺と全く同じ色をして、俺とおなじ苦しみを訴えているのに。
「ごめん美香。ごめん……」
美香の気持ちはわかっても、その気持ちに応えることができない自分が辛かった。
すると美香は俺の手を強く握ってきた。俺よりももっとつらいはずだろうに、美香は微笑みすら浮かべて、首を横に振った。
「謝るのは私の方だよ。ごめんね、またそんな顔させて。もう……、ちゃんと妹に戻るから」
「美香……」
「だから、お願い。最後に、……抱きしめてくれないかな」
美香はそんなことを言って、微笑ったまま涙を落とした。今まで感じた衝動とは少し違う。美香への想いが抑えきれないものとなり、心の中に広がる切なさ。俺が満たされたいわけではない。できないとわかっていても、美香を幸せにしてやりたかった。
俺は思わず美香の顔を引き寄せ、その唇に軽く口づけた。
「お兄ちゃん……?」
美香が驚いたように俺を呼んだ。俺はそれには答えず、できる限りに優しく美香を抱きしめた。
しばらくそうした後、体を離して、俺はまた美香の髪をなでた。
「ごめんな。俺は兄貴だから……。美香の「我儘」を聞いてやれるのは、これが最後なんだ」
そんな言葉は、ただの言い訳に過ぎなかった。触れたかったのは俺の方だ。キスをしたかったのは俺の方だ。
俺はこれから、気持ちを抑えていくことができるだろうか。美香の気持ちを知ったことで、その苦しみがわかってしまうのだ。俺は間違っているのか、正しいのか。もう、わからなくなりそうだった。
「おやすみ」
言って、俺は美香の部屋を出た。扉を閉めた後、美香の部屋の扉の前で、俺は未練がましく立ち止まった。
すると、部屋の中から押し殺した泣き声が小さく聞こえてきて、ひどく胸が痛んだ。
俺は、今俺のしていることは、美香を苦しめるだけなのだろうか。美香を守るためと言って、俺は本当は逃げているだけなのではないだろうか。兄妹という、重たい鎖から。どうしたらいいのかわからず、俺は自分の行く道に迷っていた。