18−1 美香
目を開けると、そこは私の部屋だった。
私は、また気を失ってしまったらしい。そして多分、またお兄ちゃんがここに寝せてくれたのだろう。寝不足で気だるかったはずの気分は、すっきりしていた。昨日不足した分の睡眠時間を補うように、眠り込んでいたようだった。
どれだけの時間眠っていたんだろう。うす暗い部屋の中、窓からの月明かりを頼りに、手探りでベットから出た。立ち上がると同時に、心の痛みを思い出した。
お兄ちゃんに告げてしまった恋心。思いだすだけで、心の中が不安と悲しみとでざわめき立つ。
けれど今は部屋にお兄ちゃんの姿は見当たらなくて、ほっとしたような寂しいような複雑な気持ちだった。
お兄ちゃんの、哀しそうな目がまだ脳裏にちらついていた。
精神的なものからなのか、喉がからからで、一階に降りて何か飲もうとベットから降りた。
ドアの前まで行ったその時、廊下から誰かの話し声が聞こえた。
お兄ちゃんの、声だった。
すぐには顔を合わせづらくて、私はその場にそのまま立ち尽くしてしまった。
すると、別に聞き耳を立てていたわけじゃないけれど、お兄ちゃんの会話の内容が耳に入ってくる。お兄ちゃんは、どうやら廊下にある電話で、誰かと話しているようだった。誰と話しているのか、気になってしまった。もしかしたらお兄ちゃんの、想う人かもしれない、と。
「……うん。わかってる。うん。母さんもね」
お兄ちゃんの声が、そう言って少し笑った。お兄ちゃんの電話の相手は、お母さんだった。それがわかって、少しほっとした。
お兄ちゃんはお母さんと何気なく話を続けている。とりあえず安心した私は、まだ顔は合わせづらかったけれど、いつまでもそうしているわけにはいかないので、扉を開けようとした。けれど、それはお兄ちゃんの思いがけない言葉によって制止された。
「俺が、家族の誰とも血がつながってないって……養子だって、ことだろ?」
今まで受けたことのないような衝撃だった。冗談かとも思ったけれど、さっきまでとは違うお兄ちゃんの真剣な声がそう思わせてはくれない。私は、驚きとショックとでその場に立ち尽くした。
お兄ちゃんと、血のつながりはない。そしてお兄ちゃんは、そのことを知っていた。
支えをなくした私の心が、不安定に揺れている。
どこかで、安心していた。血のつながり――生まれたときからの、他人にはない絆。兄妹だから、例え気持ちまでは手に入らなくても、無条件にいつまでもつながっていられて、そばにいられるんだと思っていたのに。
告げてしまった私の「ひみつ」。届かなかった恋心。
その上、兄妹という絆さえもなくして、私とお兄ちゃんをつなぐものは、もう何もなくなってしまった。
「うん、美香は何も知らないから。今はちょっと、いろいろあってね。話すのはまだ……。しばらく時間をくれないかな」
私が聞いていることなんて知らず、お兄ちゃんは電話口での会話を続けている。
私が自分勝手に気持ちを打ち明けたのに、それでも私のことを気遣ってくれる、優しい人。あの人を、失くしたくない。
動くこともできずただその場に立っていた私の耳に、ガチャリと受話器を置く小さな音が聞こえて、私はびくりと体をすくませた。そのまま私の部屋の方に足音が近づいてくる。聞き耳を立ててしまったことに対しての後ろめたさと、知ってしまった事実の大きさに焦った私は、思わず元のようにふとんの中に入って寝たふりをした。
私の部屋に入って来たお兄ちゃんは、ベットの横に座って私の顔を覗き込んでいるようだった。寝たふりなんてしなければよかったと思った。目を閉じていても視線を感じて、不自然になっていないかとひやひやした。
「美香……」
お兄ちゃんの優しい声が、私の名前を呼んだ。何故かいつもよりやわらかく、甘くも聞こえるような声のトーンで、どきりとした。そっと私の頬に、暖かいお兄ちゃんの手らしきものが触れたので、思わずびくりとしてしまった。寝たふりは限界だった。
「あ、ごめん。起こした?」
私が目を開けると、そう言ったお兄ちゃんの手はすぐに引っ込んでいった。もっと、触れていてほしかったのに。私のその気持ちが伝わったのか、お兄ちゃんの大きな手が私の前髪をかきあげ、額に触れた。
「具合は? もう大丈夫?」
「うん。もう平気みたい。ごめんね。私、最近こんなのばっかだね」
「いいよ。でもちゃんと休んでなかったんじゃないのか? 全然起きないから、かなり心配したよ」
お兄ちゃんは額の手を私の耳の上あたりに移動させて、ゆっくりと髪をなでながら、そう言って微笑んでくれる。胸がしめつけられるような切ない気持ちがして、私はやはりこの人が好きだと思った。
心の中が、混乱していた。今目の前にいる愛しい人は、私のお兄ちゃんで、でも本当のお兄ちゃんじゃなくて。この気持ちは、許されない想いじゃないのかもしれない。抑える必要は、ないのかもしれない。
思わず、私をなでるお兄ちゃんの手に、自分の手を重ねた。お兄ちゃんが少し驚いたように私を見る。
「お兄ちゃん。私……」
涙と一緒に込み上げる想いを、抑えられなかった。私の表情から言いたいことをわかってくれたのか。
お兄ちゃんは、少し切なげに眼を細めた。
「ごめん美香。ごめん……」
気を失う前と同じに。お兄ちゃんは苦しそうな声をもらした。
ああ、と思った。私は何をしているんだろう。苦しめるだけだと、わかっていたはずだった。例え兄妹じゃなくても、この気持ちがお兄ちゃんの重荷にしかならないなら、この気持ちはもう消さなくてはいけない。重ねたお兄ちゃんの手を、強く握った。想いを、抑えるように。私は少しだけ微笑んで、首を横に振った。
「謝るのは私の方だよ。ごめんね、またそんな顔させて。もう……、ちゃんと妹に戻るから」
「美香……」
「だから、お願い。最後に、……抱きしめてくれないかな」
気遣わしげなお兄ちゃんの眼差しに、また哀しい光を見つけた。困らせたのかもしれない。それでもせめて、この願いだけは聞いて欲しかった。行き場をなくしたこの気持ちを。せめて、あたたかかったお兄ちゃんの腕の中で、自分を悲しませてあげたかった。
私の目から、こらえ切れない涙がこぼれおちた。最近、私は泣いてばかりだ。これでは優しいお兄ちゃんを追いつめてしまう。涙をこらえようとしながらも、私はお兄ちゃんに抱きしめてもらえるのを待っていた。けれどお兄ちゃんは私を抱きしめるのではなく、私の頭にあった手で、少しだけ私の顔を引き寄せた。
――それは、一瞬だった。触れたか触れないかわからないほどの、ちいさな口づけ。
「お兄ちゃん……?」
唇に止まって、すぐ離れていったお兄ちゃん。驚いた私を、お兄ちゃんは優しく抱きしめてくれた。お兄ちゃんの腕の中は、心が満たさせるようで、とても安心した。しばらくそうした後、体を離して、お兄ちゃんはもう一度、私の髪をなでてくれた。やわらかなその眼差しが、私を包んでいた。
カーテンの引かれていない窓から、淡い月の光が差し込んで、端正なお兄ちゃんの横顔を射している。
なんてきれいで……手の届かない儚さだろう。
「ごめんな。俺は兄貴だから……。美香の「我儘」を聞いてやれるのは、これが最後なんだ」
お兄ちゃんはそう言って少し辛そうに笑った。我儘――キスして、と言ったこと。でもどうしてこんなときに、こんなタイミングで。こんな風に優しくキスをされたら、どうしようもない気持ちになる。
「おやすみ」
そう言って、お兄ちゃんの手は私から離れていった。向けられたその背中を、引き止めたかった。でも、それはできないのだ。やがてお兄ちゃんの姿が扉の向こうに消え、扉は閉められた。
――もう、求めない。私は、妹としてお兄ちゃんのそばにいることを選んだのだから。
涙でかすんで、視界がぼやけていく。
「……ひっ、…くっ」
向かいの部屋に居るはずのお兄ちゃんに悟られないように。私は、必死に声を殺して泣いた。
あの人の一番そばにいたい、なんて、届くはずのない祈りを。こんな想いを捨てられない私を、神様は許してくれるだろうか。
いくら涙を流しても、お兄ちゃんを好きな気持ちは消えてくれそうになくて。
私はどうすることもできず、ただ次から次へと流れ落ちる涙を、許していた。