17−2 達也
ようやく、時間をかけてこの現実を呑みこんだ俺は、それでも未だ玄関に立ち尽くしていた。
美香が、俺を好きだと言った。
ついさっき美香が見せた表情、声が脳裏から離れない。胸がきしむほどの感情があふれ出してくるようで、切なくなる。
泣かせておきながら、美香の気持ちが自分に向いていたことを喜ぶ浅はかな自分が居る。
このまま美香の所へ行き、美香を抱きしめ、気持ちを打ち明けてしまいたい。
だがその選択は間違いだ。“美香を失うことへの恐怖”の他に、もう一つ俺の衝動を歯止めしている、過去の記憶。
久々に思いだしてしまった俺は、苦々しく唇をかんだ。
昔、中学のとき。まだ自分の気持ちを自覚したばかりで、必死にそれを抑えようとしていた頃。俺は美香への気持ちを紛らわそうとして、何人かの女と付き合った。勿論、気持ちがあったわけじゃない。ただ、美香のことを忘れるための道具にすぎなかった。
そんな最低なことをしていた俺に、報いはすぐにやってきた。告白されて、六人目に付き合ったナツミというクラスメートの女は、付き合っているうちに俺の心の奥底にある美香への気持ちに感づいていった。
ある日、両親がいなくて、ナツミが俺の家に来ていた時。
少し家を出て玄関まで戻ってきたときに、家の中から美香のぐずるような泣き声が聞こえた。
慌てて家に入ると、居間にナツミと美香が居て、美香は赤くなった頬を抑えていた。ナツミが美香の頬を平手打ちしたようだった。かっとなった俺は、思わず口調を強めた。
「ナツミ! 何して……」
「美香ちゃんが、私のケータイ壊そうとしてたの。だから……」
ナツミはばつの悪そうにそう言って目をそらした。だが美香のことが心配でそれどころじゃなかった俺は、真っ先に美香のもとに向かった。今思えば、あれがナツミにとっては腹立たしかったんだろう。
美香は潤んだ瞳で俺を見上げた。その頬が痛々しく腫れている。よっぽど強く打たれたようだった。
俺は手の甲で涙をぬぐってやった。
「美香、大丈夫か? 冷やさなくていいか?」
「うん、大丈夫……」
「あっちに行ってろ」
そう言うと、美香は少し悲しげな顔をしたが、大人しく二階に上がって行った。
「達也、やっぱり……」
居間を出ていく美香の後ろ姿を見送っていた俺は、背後からのナツミのいつもよりトーンの低い声に振りかえった。ナツミは、苦々しく顔を歪めていた。その瞳に涙が浮かんでいるのを見て、僅かながら心が痛んだ。
「私のことなんて、どうでもいいんだね。いつもいつも、達也の中には美香ちゃんしかいない。付き合ってても……達也の一番にはなれない」
「ナツミ、違う。そんなことない」
「違わないでしょ。でもなんで美香ちゃんなの? 近親相姦じゃない……! おかしいよ。妹のこと、そんな目で見るなんて!」
ナツミの責め立てるような声が、俺の心に重たくのしかかった。
“近親相姦”――そんな言葉、聞きたくなかった。図星をさされて、傷ついた自分の心を庇うように。幼かった俺は、感情を抑えるすべを知らず爆発させた。
「いい加減にしろよ! もうお前とは付き合ってられない」
冷たい声でそう吐き捨てた後、言い過ぎたと思った。ほぼ、八つ当たりだった。行き場をなくした自分の気持ちを、怒鳴ることで発散させようとしたのだ。それに気持ちはなくてもナツミは一応彼女だ。傷付けるつもりはなかった。
俯いたナツミの体がわずかに震えている。
「私だって……。私だって、もう達也となんか……!」
「ナツミ」
謝ろうと差し伸べた俺の手を、ナツミは強く振り払った。ナツミのその瞳に浮かんでいるのは――嫌悪の色だった。
「触らないで! 汚い。気持ち悪いよ。達也も、美香ちゃんも……!」
ナツミは吐き捨てるようにそう叫んだ後、家を出ていった。俺はその後ろ姿を見送ったまま、ただその場に立ち尽くした。
どうしようもないほどの痛みだった。自分が何と罵られようと、耐えられた。
だが美香のことまで侮辱されたのがショックで、哀しかったのだ。
俺が美香を想うこと。そのせいで、美香までが傷つけられてしまう。俺が想っていると、美香を守れないのだ。
事実がどうであれ、他人は俺と美香を兄妹とみなす。そうして心無い言葉を投げつけてくるだろう。
美香にだけは、こんな思いをさせたくないのだ。
だから、俺は兄として。この気持ちを封印し、「ひみつ」として隠していくことで、美香の笑顔を守っていかなければならない。
あの時、そう固く誓ったのだ。
「……はい。すいません。よろしくお願いします」
通話終了ボタンを押し、携帯電話をパチンと閉じた。
初めて、バイトを休んだ。むこうは渋っていたが仕方ない。俺がずっと抱えていた不安や恐怖を、美香も抱えていた。その気持ちは痛いほどにわかるのだ。このまま放ってはおけない。荷物を置き、二階に上がった俺は、美香の部屋の扉をノックした。
「美香?」
声をかけたが、返事がない。
しばらく待っていたが、やがて必死に息をしている美香の苦しげな声が扉の向こう側から聞こえてきた。
「美香? 入るぞ」
危機感を覚えた俺は、美香の部屋の扉のドアノブに手をかけた。部屋に入ると、美香はその瞳に恐怖の色を浮かべて、必死に息をしながらも逃げるように座ったまま後ずさった。過呼吸のようだった。
「いや、来ないで、こな、いで……」
とにかく落ち着かせないといけない。そう思った俺は、かがんで美香と目線を合わせて、背中をさすってやった。
「美香、呼吸が速すぎる。落ち着いて、ゆっくり息をしろ」
「おに、いちゃん」
「落ち着け。大丈夫だから」
安心させるように努めて優しく言ってやると、美香が泣きだした。
俺の腕にすがりつきながら、美香はせわしない呼吸の中、苦しそうに何度もしゃくりあげていた。
「お、兄ちゃん、お兄、ちゃん……好き、なの。すごく、好きな、んだよ……」
必死にそんなことを言う美香を抱きしめたかった。
どうして、美香は妹なんだろう。こんなにも想いは大きいのに、抑えるしかないなんて酷な話だった。
「……うん、わかった。わかったから」
美香の背中をさすりながら、俺はそんな言葉をかけることしかできなかった。
辛かった。気持ちは通じているというのに。兄妹だというだけで、許されないのだろうか。今の俺には、美香を泣かせることしかできない。美香の涙が止まることなく流れ落ちていくのを、ただ慰めることしかできないのだ。
「そ、んな目、しないで……。お兄、ちゃん。私、お兄ちゃんを、苦し、めて、るね……」
美香が切なげに言った。刹那に高ぶる感情に、思わず、美香を抱き寄せた。美香の涙で俺の服がぬれていく。
美香のせいじゃない。誰のせいでもない。ただ、俺と美香は兄妹だから、俺も美香もこうして苦しんでいるのだ。俺が兄である限り、気持ちを打ち明けることは許されない。俺には美香を苦しめることしかできない。
「……違う。お前のせいじゃないんだ。お前のせいじゃなくて……」
「ごめ、んね。好きなの。お、兄ちゃん……お願い、嫌いに、なら、ないで……」
美香に抱きしめられて、打ち明けられない想いの代わりに、美香を強く抱きしめ返した。
美香と居るほど強くなっていくこの感情を、抑えることがどんなに難しいか、美香に教えてやりたかった。
「ごめんね。おにい、ちゃん。こんなに、好きで……、ごめん、……ね……」
やがて美香は俺の腕の中で意識を失ったようだった。いつかと同じように。俺は腕の中の愛しい妹を、抱きしめていた。
「……好きだよ」
伝えられない俺の言葉は、そのまましんとした空気の中に、消えていった。