16−2 達也
まさかと思っていたことが、現実になった。これを何よりも恐れていたのだ。
「美香、お前覚えて……」
俺はひどく、動揺していた。この現状に対応できず上手く働かない頭を必死に働かせて、やっと美香に問いかける。
美香は否定をせずに、そんな俺をじっと見つめてきた。肯定、という意味だろうか。後ろめたさから居心地が悪くて、責められているようで。俺は思わず美香から視線を逸らしてしまった。
「……本当に、悪かったと思ってる。けどもう、二度とお前に嫌な思いはさせないから。頼む、忘れて欲しいんだ」
苦し紛れのような俺の言葉。こんな言葉で許されると思った訳ではない。ただ美香をつなぎ止めようと、必死に取り繕おうとする自分がいた。しかし美香から感じられる強い意思は、和らぐ気配がなかった。
「いやだよ、なんで? 私、絶対忘れたりしないよ」
責めるような美香の口調。いつまでも目をそらし続けるわけにもいかず、俺は戸惑いを隠せないまま再び美香を向いた。
まっすぐに見つめてくる美香は、何を思っているのか。怒りとも、呆れとも、嫌悪とも違う気がした。
只、その心の内が読み取れない。
どうしたものかと困惑していると、俺の鞄の中で携帯電話のバイブレーションが鳴った。
取り出して見てみると、バイト先の先輩からのメールだった。行けなくなったから朝一の授業を変わって欲しい、と。携帯電話の時刻を見ると、今から急いで向かってもやっと間に合うくらいの時間だった。
バイトのこともある。とにかく今は美香も感情がいつになく高ぶっているようだから、いったん時間を置いた方がいいだろう。
俺自身も今は動揺していて、上手く話をできる状態ではない。とにかく、時間が欲しかった。
携帯電話を鞄に戻して小さくため息を吐くと、俺は美香を見た。美香の表情が、心なしか少し引きしまる。
「美香、バイト先から連絡が入った。少し早めに行かないといけないから、また後で話そう」
「やだ……」
いつもの彼女らしくなく、美香は必死な顔をして何度も首を横に振った。言い聞かせるように、俺は口を開く。
「美香。バイトでも仕事なんだ。後でちゃんと話すから」
「やだ! 行かないで」
けれど美香はやはり感情が高ぶっているようで、そんなことを叫んで突然俺に抱きついてきた。
どきりとすると同時に、驚いた。今まで、美香がこんなに聞きわけなく駄々をこねたことなんてなかったのだ。
必死に俺にすがりついてくる美香は愛しすぎて、思わず理性をかなぐり捨てて抱きしめ返したくなる。
だが払いのけると傷付けるだろうし、第一美香に対してそんなことをできるわけがない。どうすることもできず、俺は困り果てながらも口を開く。
「美香、とりあえず今は、放してくれるか?」
「お兄ちゃんが私の我儘、聞いてくれるなら放してあげる」
俺の胸に顔を埋めた美香が、美香らしくない脅迫のような台詞を言った。
今の美香は美香であって美香でないのかもしれない、と思った。否、それともこれが美香の本心だったのか。兄に無理矢理唇を奪われたことに憤り、報復してやりたい、と?
いや違う。美香はそんなことを思うような人間ではないはずだ。
報復するなどと考える前に、傷つき涙を流す。美香はそういうタイプだ。
いくら考えてみても、美香の真意が読めない。仕方なく、俺は美香の「我儘」を待つことにした。
一呼吸おいて、俺を抱きしめてくる美香の腕に力が入ったのを感じると同時に、美香の口から思いもよらない言葉が出てきた。
「もう一度、キスして」
自らの耳を疑った俺は、一瞬すべての動作を停止してしまった。
その真意を探ろうと美香の顔を見ようとしても、美香は俺の胸に顔を伏せ、見せようとしない。頑なな美香に対してやがて諦めた俺は、美香の頭に問いかけた。
「美香? お前、最近少しおかしいぞ。何……」
「おかしい? 私がおかしいって言うなら、それはみんなお兄ちゃんのせいだよ」
相変わらずの、美香の責めるような口調。
そうか。こうして美香の様子がおかしくなったのも、俺が美香に口づけ、“兄妹”の間柄を壊してしまおうとしたからだ。兄に無理やりキスをされて、平然としていられる妹がいるはずがない。
「……そう、だな。ごめん……」
「謝らないで! そんなの聞きたくない。お願い、もう一度キスしてよ……」
小さく発した俺の謝罪の言葉と対照的に、美香が強い口調で発した。けれどそれは語尾になるにつれ弱くなり、最後の部分は震えるような声だった。背中に回された美香の腕と手からも、震えが伝わってくる。
俺はその時、もう何度も経験した衝動を覚えた。俺にすがりつき、俺の口づけを求め、震える妹がどうしようもなく愛おしい。
わかっていた。今は美香も正常ではなく、そこに付け込むような真似をするべきではないと。
わかっていても――すでに、理性の糸は脆くも崩れ去りつつあった。
俺は力の加減も忘れ、美香を強く抱きしめ返した。そして急く自分に従うまま、美香の両肩を掴んで引き剥がした。
一瞬、美香の瞳に恐怖の色が浮かんだのが見えたが、そんなことには構わず、俺は美香の頬に触れた。
美香の瞳に、今迄見たことのない光が浮かんでいる。俺と似た光。だがその正体を考える余裕はなかった。
美香の唇をなぞると、美香はゆっくりと目を閉じた。まやかしかもしれないというのに、受け入れられたことに対しての歓喜が俺を満たしていく。けれど、その時。
――“汚い”
記憶の片隅から俺を静止する声が響いて、俺ははっとして動きを止めた。昔、まだ幼い頃、罪など知らずにいた俺が受けた言葉。それは欲望に流されようとしていた俺を、簡単に静止した。呪詛のように、記憶の中の声が俺に纏わりついてくる。
――“汚い。気持ち悪いよ。達也も……、美香ちゃんも……!”
思わず、俺は美香を突きはなしていた。美香を巻き込むわけにはいかないのだ。俺の身勝手な感情に。
突然突き放された美香が、呆然とした様子で俺を見た。
「お兄ちゃん……?」
「言っただろう? お前は俺の妹で、俺はお前の兄貴だ。俺たちは、兄妹だよ」
俺は貼り付けたような笑顔で、貼り付けたような言葉を言った。
俺の言葉を受けて、美香の表情が切なげに歪んでいく。
「なら、どうして私にあんなキスしたの? ただの妹なんだったら、私にあんな触れ方しないで!」
俯き加減になった美香が、強い口調で言った。どう償っていいのかわからない。
何も言葉を返すことができず、黙っているしかない俺の耳に、また美香の有り得ない言葉が入ってきた。
「好きなのに……」
「え?」
美香の小さな言葉がよく理解できずに、俺は眉根を寄せて思わず首をひねる。
だが美香は怯むことなく、そんな俺を強く見据えてきた。その瞳に、今にもあふれ出しそうな涙をためて。
「兄妹だって、血がつながってたって。そんなこと構わないくらい、私はお兄ちゃんが好きなのに!」
今美香に言われたことが信じられず、俺はあまりの驚きに目を見開き、只呆然としていた。
美香は勢いよく背を向け、そのまま階段を駆け上がっていく。乱暴に部屋のドアが閉められる音を、俺はまるで別次元のことのように聞いていた。