16−1 美香
「美香、お前覚えて……」
驚いた表情のままやがて口を開いたお兄ちゃんが、私に静かに問いかけた。私は肯定するように、お兄ちゃんの眼をじっと見つめる。けれどお兄ちゃんは、そんな私から視線を逸らしてしまった。
「……本当に、悪かったと思ってる。けどもう、二度とお前に嫌な思いはさせないから。頼む、忘れて欲しいんだ」
苦々しい表情で、お兄ちゃんがぽつりとこぼす。やはり、悔いているのだろうか。あの日のキスは只の過ちだと。なかったことにして消し去ってしまいたいと。“兄妹”というだけの関係に戻りたいと。お兄ちゃんはそう思っているのだ。
絶対に嫌だった。ただの過ちで片づけて欲しくなかった。あの日必死にお兄ちゃんを求めていた“女”としての私を、覚えていてほしかった。
「いやだよ、なんで? 私、絶対忘れたりしないよ」
少し強い口調で放たれた私の声に反応して、再び私に向いたお兄ちゃんの瞳。そこに戸惑いの色が見え隠れしている。
それでも絶対に引かないと決心していた私は、お兄ちゃんを只、まっすぐに見つめていた。するとその時、お兄ちゃんの鞄の中で携帯電話のバイブレーションが鳴った。メールのようだった。取り出して文面をチェックしたお兄ちゃんは、携帯電話を鞄に戻して小さくため息を吐くと、私を見た。
「美香、バイト先から連絡が入った。少し早めに行かないといけないから、また後で話そう」
「やだ……」
縋るような思いで聞きわけなく私が何度も首を横に振ると、お兄ちゃんが少し厳しい顔をした。
「美香。バイトでも仕事なんだ。後でちゃんと話すから」
「やだ! 行かないで」
私は癇癪を起した子供のように叫ぶと、思い切りお兄ちゃんに抱きついた。
こんな行動、今まで一度もとったことはなかった。お兄ちゃんの言うことに逆らうなんて。
けれど、今だけはお兄ちゃんを行かせたくなかった。このままこの話がうやむやになるのが嫌だったのだ。
感情が、いつになく高まっている。お兄ちゃんが好きだ。だから絶対にお兄ちゃんを離したくない。このまま、私だけのお兄ちゃんになって欲しい。こんな激情が自分の中にあったなんて、知らなかった。
否、隠していたのだ。お兄ちゃんへの「ひみつ」の感情。隠していただけだったから、こうして簡単に姿を見せる。あの日、お兄ちゃんを押し倒した私も、今こうしてお兄ちゃんを抱きしめる私も。私の、お兄ちゃんへの想いそのものだ。
「美香、とりあえず今は、放してくれるか?」
お兄ちゃんは少し困ったようにそう言ったけれど、やはり私を振り払おうとはしなかった。
私が放すのを待つつもりだろう。私が傷付くことは決してしない、お兄ちゃんの優しさ。けれど今はそれが痛いのだ。拒絶するならいっそ、冷たく突き放してほしい。そうでないからこんなにも、私はお兄ちゃんを求めてしまう。
「お兄ちゃんが私の我儘、聞いてくれるなら放してあげる」
お兄ちゃんの胸に顔を埋めて、私は私らしくない、脅迫めいた言葉を放った。許されない願いでも構わない。私は、お兄ちゃんが欲しい。そのためなら、何だってできるのだ。
お兄ちゃんは私に抱きつかれたまま、黙って私の言葉を待っていた。仕方ないから聞いてやろうと思っているのかもしれない。
けれど私が今から言おうとしている「我儘」は、きっとお兄ちゃんは想像もしたことがないだろう。それを聞いて、お兄ちゃんはどんな顔をするのか。怖いという気持ちもないわけではない。けれど私はお兄ちゃんをより強く抱きしめて、今私が一番望んでいる言葉を、お兄ちゃんに告げた。
「もう一度、キスして」
宙にぽっかりと浮かんだような私の声。一瞬の間をおいて、お兄ちゃんが私の顔を見ようとする気配がした。けれど私は頑なにお兄ちゃんの胸にしがみ付いて、顔を見せようとしなかった。やがて私の顔を見るのを諦めた様子のお兄ちゃんの声が、頭の上から降ってきた。
「美香? お前、最近少しおかしいぞ。何……」
「おかしい? 私がおかしいって言うなら、それはみんなお兄ちゃんのせいだよ」
「……そう、だな。ごめん……」
お兄ちゃんは苦しそうにそんな言葉を漏らした。違う、そんな言葉が欲しいのではない。お兄ちゃんに謝って欲しいのではない。
お兄ちゃんが私に謝る、それは私を妹として認識したいお兄ちゃんが、あの日の出来事を過ちとして、“お兄ちゃん”としての言葉を私に向けることで兄妹に戻ろうとしている、そんな残酷な意味しか持たない。もう聞きたくない。見たくないのだ。“お兄ちゃん”の顔をしたお兄ちゃんなんて。
「謝らないで! そんなの聞きたくない。お願い、もう一度キスしてよ……」
語尾が震えて、小さく消えた私の縋るような願い。お兄ちゃんに回した腕も、お兄ちゃんの背中で服をつかむ指先まで震えた。
すると突然、お兄ちゃんが強く私を抱きしめ返してきた。息苦しくなるほど、強く。
混乱する間もなく、お兄ちゃんは私の両肩を掴んで、抱きついていた私を離した。一瞬、拒絶されたのかと思ったが、すぐにお兄ちゃんの指が私の頬に触れた。お兄ちゃんは、私を見ていた。その瞳に私と同じ色を見た。私とおなじ、切なさにも似た激情を。
いつかの夢とおなじ、限りなく優しい指先が、私の唇をなぞる。目を閉じると同時に、お兄ちゃんの吐息を唇に感じた。やっと愛しいこの人の近くに行ける、そう思うと胸がうち震えた。
心までは手に入らないことはわかっていた。まやかしでもいい。ただ、触れていたかった。
けれどそれは中途半端なまま終わってしまった。お兄ちゃんが私を突きはなしたのだ。わけがわからず呆然として、私はお兄ちゃんを見た。
「お兄ちゃん……?」
「言っただろう? お前は俺の妹で、俺はお前の兄貴だ。俺たちは、兄妹だよ」
そう言ったお兄ちゃんは、哀しそうに笑っていた。
あくまでも、それを貫き通そうとするのか。“兄妹”という戒めに背いてまでお兄ちゃんを愛そうとする私を、お兄ちゃんは許してはくれないのだろうか。ひどく、泣きたかった。ならばあの日のキスは、今日、お兄ちゃんが私を見つめた瞳は、あの優しい手は、いったいなんだったというのか。
「なら、どうして私にあんなキスしたの? ただの妹なんだったら、私にあんな触れ方しないで!」
お兄ちゃんに向って、私は俯き加減に強く言葉を吐いた。やり切れなさと、行き場をなくした私の想い。
お兄ちゃんの手も唇も、まるで愛されていると錯覚してしまいそうだった。いずれ残酷な現実を見せるくらいなら、一瞬だって、夢を見させないでほしかった。涙が、私の頬を伝った。引き裂かれたように心が悲鳴をあげている。届かないのなら、いっそ吐き出してしまえと。
「好きなのに……」
「え?」
小さく発された私の言葉。お兄ちゃんはうまく飲み込めなかったのか、怪訝な顔をした。
私はお兄ちゃんを強く見据えた。逃げない、そう決めたのだ。だから、わたしは今お兄ちゃんに伝えなくてはいけない。大切に守ってきた「ひみつ」を。
「兄妹だって、血がつながってたって。そんなこと構わないくらい、私はお兄ちゃんが好きなのに!」
涙ながらに告げられた私の告白。お兄ちゃんは、呆然として私を見ていた。その次に出てくる言葉が怖くて、私はお兄ちゃんに背を向け、階段を駆け上がった。バンと乱暴に部屋のドアを閉めてから、私はその場に崩れ落ちるように座り込む。
私の「ひみつ」が「ひみつ」でなくなるとき。このときを望んでいた。けれど同時に、とても――恐れていた。