15−2 達也
想いは、そう簡単には消えてくれない。だから今までと同じに隠していくしか、俺に許される道はない。
美香の笑顔が絶えないように。俺は只、守っていけばいい。
いつものようにそんな想いを抱え、目が覚めた。正直、今日は寝覚めがあまり良くない。
美香が誰かを思っている。それをまざまざと思い知らされた昨日、やはり俺は自分で思っていた以上にショックを受けているようだった。気持ちを切り替え、一階に降りてバイトの準備をしていると、しばらくして美香が降りてきた。
「おはよう、お兄ちゃん」
後ろから、美香の声。振り向くと、美香の表情は心なしか昨日よりも明るかった。
昨日は一晩中悩んでいたようだが、それで少しは楽になったということだろう。何にせよ、美香の悩みが少しでも軽くなったのならよかった。
「おはよう。……ふっきれた? 昨日より表情が明るい」
「うん、そうかも……」
美香はそう言って微笑む。俺はよかったね、と言ってから教材の準備を再開した。
今日は朝一の授業は入っていないが、何教科か教えなくてはならないのできつい。そんなことを考えながらやれやれと手を動かしていると、何を思ったのか美香がにこりと笑って、俺の顔を覗き込んできた。
「お兄ちゃんのおかげ! ねぇ、お兄ちゃんはどうなの?」
美香は上機嫌でそんなことを言った。大方、俺の心配をしているのだろう。だが、それに意味はない。俺の想っているのは、今目の前に居る美香なのだから。想いが叶うこともなければ、叶えるつもりもないのだ。
「ああ、俺のことはいいって。それよりお前に幸せになって欲しいよ」
「なんで? お兄ちゃんだって幸せにならなきゃ駄目だよ」
美香は少し不満な様子でそう言った。俺は手を止めて、美香に微笑む。
俺が幸せになること、それは美香を手に入れることだ。けれど美香の気持ちは俺に向くことはない。もし無理矢理に俺のものにしたとしても、美香は悲しむだけだ。美香が悲しんでいるならば、俺の幸せはそこにない。つまり、あり得ないのだ。
「兄貴は、妹の幸せを見守ってやるもんだろ?」
俺のその言葉を聞いた美香は、そのまま黙り込んでしまった。
先程までと打って変わって、表情が暗くなっている。俺は何かまずいことを言っただろうか。一瞬そう思ったが、いくら思い返して見ても、俺の言葉はどこをどうとっても“兄”で、美香を傷付けたとは思えない。
「美香? 具合でも悪いのか?」
「あ、ううん……」
心配になって声をかけると、美香は無理やりだと明らかにわかる笑顔を作ってみせた。
その表情がやはり心配だったが、昨日話をしたばかりだし、あまり干渉しすぎるのも良くないだろう。そう思って、俺は努めて優しく口を開く。
「そうか? 昨日もあんまり寝てなかったみたいだし、無理はするなよ。俺はそろそろ行ってくるから」
そう言って美香の頭にポンと手を置いてから、そのまま玄関に向かった。靴を履いていると、部屋の中から「お兄ちゃん」、と美香の俺を呼ぶ声がした。
振り向くと、美香が慌てたように玄関まで走って出てきた。
何か言い忘れたことでもあったのか、それとも、昨日の悩みの続きか。わからなかったがとにかく、俺は美香の言葉を待った。けれど美香は俺を見詰めたまま黙ってしまった。俺は少し笑いながら首をかしげて口を開く。
「何だよ、どうした?」
俺がそう問いかけても、美香は少しも笑おうとしない。そうして美香の口から出てきた言葉に、俺は耳を疑った。
「あの時、ここで……」
美香のその冷静な声に、心臓が強くどきりとした。あの時、ここで。そう言われて、すぐに思い当たることがある。だが、あれはすでに美香の記憶から消えていたはずだ。そう思いながらも、俺の中に動揺が走っていた。少しだけ表情を引き締め、俺は美香に問いかける。
「……あの時?」
「お兄ちゃんに、聞きたかったの。……どうして……キスしたの、って」
俺の中に浮かんだ不安を伴う疑惑は、美香のその一言で確実なものとなった。
俺は驚きに目を見開いた。美香は覚えていたのだ。あの日の、俺の過ちを。静かに見つめてくる美香の瞳を、俺は只、呆然と見ていることしかできなかった。