2−1 美香
引け目とか罪悪感とか、そんなものに左右されるほど、私の気持ちは簡単なものじゃない。
でも全く罪悪感がないのかと言うと、やっぱりそんなに簡単なものじゃない。
道の向こうに、お兄ちゃんが立っている。後姿でもすぐに見抜ける。
「達也、何してるの?」
私はお兄ちゃんの所まで走って行くと、その服の裾をつかんだ。が、お兄ちゃんは冷たい目をして私の手を振り払った。私は信じられずに、訳がわからず只動揺することしかできない。
「あの……」
「名前で呼ぶな。何度も言ってるだろう」
お兄ちゃんの、今迄に聞いたことのないような低い声。私の心に虚しさと悲しさが湧き上がってくる。涙が出そうになった。
「……ごめんなさい」
「美香に頼みがあるんだ」
「な、何?」
お兄ちゃんはまるで汚らわしいものでも見るような、軽蔑した表情で私を見た。そして一言、言い放った。
「俺の前から……消えてくれないか」
「!」
がばっと勢いよく起き上ったそこは、私の部屋のベットの上だった。嫌な汗をかいている。
「夢……?」
呟いては見たものの、やけにリアルな冷たい表情が鮮明に脳裏に焼き付いて離れない私は、夢であったことが信じられないような感覚に陥っていた。頬を触ると、涙の跡があった。
着替えて部屋を出ると、ちょうど向かいの部屋のお兄ちゃんも出てきたところだった。
「おはよ、美香」
「あ……おはよう」
いつも通りに笑顔で挨拶してくれるお兄ちゃんの顔がまともに見れない。あれは夢だとわかっている。でももし、お兄ちゃんに私の恋心を知られてしまったとしたら、あの夢が現実になってもおかしくないのだ。そう考えると急に怖くなった。
「どうかした? 元気ないみたいだけど」
お兄ちゃんはいつものように私の髪をくしゃっと撫でてくれた。やっぱり、優しい。私は意を決して、階段を下りて行こうとしているお兄ちゃんの服の裾をつかんで引きとめた。お兄ちゃんが私を振り向く。
「お兄ちゃんは、私のこと、嫌いになったりしないよね……?」
「美香?」
突然の私の言葉に、お兄ちゃんは驚いたような顔をして私を見た。私は思わず俯いた。
「……そんなわけないだろ。嫌ったりしないよ」
見上げると、お兄ちゃんは優しく微笑んでくれていた。思いつめている私の内心を察してくれたのだろう。手を振り払われることもなかった。夢とは違うとやっと実感できて、私はお兄ちゃんに微笑み返した。
一階に行くと、料理は用意されていたけれど、いつもいるはずのお母さんの姿がなかった。疑問に思いながらも、まずはテーブルについて牛乳を飲む。牛乳は毎日の日課だ。
「そういや、美香も学校今日までだろ。夏休みの間、母さんは父さんの赴任先に行くって。今朝出てったみたいだね」
「ふえっ!?」
お兄ちゃんが正面にいるというのに、驚いたあまり牛乳を吹き出しそうになった。しかも変な声を出してしまった。最悪だ。落ち込みそうだったけれど、とりあえずなんとか飲み込んで、コップを置く。
「じゃ、じゃあ夏休みはお兄ちゃんと二人きり、なんだね……」
なんだか言葉にすると余計に意識してしまった。お兄ちゃんはもう夏休みに入っているから、バイトと講習の時以外は家にいる。お兄ちゃんと二人きり。いろいろな期待と妄想が頭を駆け巡り、お兄ちゃんが不思議そうに私を見ていることに気づいて焦ってしまった。……顔が赤くなっていなければいいけれど。
「わ、私、お料理頑張るね」
しどろもどろになって言うと、頬杖をついて私を見ていたお兄ちゃんはくすっと笑った。
「ちゃんと食べれる物作ってね」
「なによ。私だってやればできるんだからね」
「はいはい。期待してます」
そう言って笑うお兄ちゃんの笑顔が愛しかった。やっぱり私はこの人が好きだ。ご飯を食べている姿も、歯をみがいている姿も、全部が愛しい。こんなに近くにいられて幸せだと思う。お兄ちゃん以外の人には、きっとこんな感情は持てない。
――それは、きっと汚らわしいこと。この気持ちが知られたら、もうお兄ちゃんの瞳に映れなくなる。どうして、私はお兄ちゃんしか好きになれないんだろう。消せない感情に、今までずっと悩みぬいてきた。けれど抱えていくしかないのだ。私だけの「ひみつ」を。
「じゃあ行ってきます、達也」
今日も私は、大好きな人に見送られて家を出た。とりあえず今日は、かよちゃんに料理を教えてもらわなければ。