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「ひみつ」  作者: 名無し
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15−1 美香

 結局、昨夜は眠れなかった。けれど気だるい夜の中、ひとつ心に決めたことがあった。

 未だ迷いはある。けれどもう、このままでは居られない。そんな風に心を決めて迎えた朝は、思ったよりもずっと気分がよかった。


 寝不足で眠たい目をこじ開けて、一階に降りる。冷たい水で顔を洗ってから居間に入ると、早起きのお兄ちゃんはすでに支度をしているところだった。多分今日もバイトがあるのだろう。私はいつものように笑顔でその背中に声をかける。


「おはよう、お兄ちゃん」

「おはよう。……ふっきれた? 昨日より表情が明るい」


 振り向いたお兄ちゃんは私の顔を見て、微笑みながらそう言ってくれた。

 確かに、昨日と比べたら心境は変化している。迷っていた昨日までが今よりはるかに辛かった。

 けれどそんなにわかりやすい顔をしていただろうか。


「うん、そうかも……」


 言って私も微笑むと、お兄ちゃんはやはり優しい声で、よかったね、と言ってから塾の教材やら何やらの準備を再開した。

 私もにこりと笑って、お兄ちゃんの顔を覗き込んで口を開く。


「お兄ちゃんのおかげ! ねぇ、お兄ちゃんはどうなの?」

「ああ、俺のことはいいって。それよりお前に幸せになって欲しいよ」

「なんで? お兄ちゃんだって幸せにならなきゃ駄目だよ」


 私がそう言うと、お兄ちゃんは手を止めて私にもう一度微笑んでくれた。

 その微笑みがとても切なそうに見えたのは、私がお兄ちゃんへの想いに苦しんでいるから、そう見えただけだろうか。


「兄貴は、妹の幸せを見守ってやるもんだろ?」


 そう言ったお兄ちゃんの笑顔は、いつも通りに優しかったけれど、私はなぜか突き放されたように感じた。

 あくまで兄妹の境界線の向こう側から、私を見守っているだけ。それがきっと普通で幸せな、家族としての兄妹の在るべき姿なのだろう。けれど私の幸せなんて、お兄ちゃんなくしてあり得ないのだ。


 そばに居るほどに募る思いが悲鳴を上げる。“妹”なんてもう嫌だと。

 苦しいのだ。お兄ちゃんの口からもう、“妹”なんていう言葉は聞きたくない。

 私は今までずっと、逃げ続けてきた。お兄ちゃんを失うことを恐れて、傷つくのが怖くて。けれど逃げてばかりではきっと、お兄ちゃんは永遠に遠いままだ。それではいけない。私は何よりも、お兄ちゃんが欲しいのだから。


 何より、私は信じたかったのだ。逃げずに向き合えばきっと伝わるという、お兄ちゃんの言葉を。


「美香? 具合でも悪いのか?」


 落ち込んで多分暗い顔になっていた私を、お兄ちゃんは心配そうに見ている。

 いつも優しいお兄ちゃん。いつも私のことを考えてくれるお兄ちゃん。けれどそれは妹だから貰える優しさなのだろう。

 私は無理やり笑顔を作った。


「あ、ううん……」

「そうか? 昨日もあんまり寝てなかったみたいだし、無理はするなよ。俺はそろそろ行ってくるから」


 すでに支度を終えていたお兄ちゃんは、そう言って私の頭にポンと手を置いてから、そのまま玄関に向かっていく。

 今、行かせてはいけない気がした。昨夜のお兄ちゃんの言葉、私の決心。それを今伝えなければいったいいつ言うというのか。

 怖かった。拒絶されることを想うと膝まで震えるようだ。けれど私はもう、逃げないと決めたのだ。


 私の心の中にある、大切に守ってきた「ひみつ」を。お兄ちゃんに知って欲しいと願うのは“いけないこと”なのかもしれない。

 けれど私はもう、私の気持ちに逆らえそうになかった。


「お兄ちゃん!」


 言って、私が慌てて玄関まで追いかけていくと、靴を履いていたお兄ちゃんが振り返る。

 昨夜あれほどの思いをして決心したのに、いざその時となると緊張が走った。

 そのまま言葉が出ずに、お兄ちゃんを見詰めたまま黙ってしまった私に、お兄ちゃんはちょっと笑いながら首をかしげて口を開いた。


「何だよ、どうした?」


 少しも煩わしそうな顔をせず、私の言葉を待ってくれているお兄ちゃんの優しい瞳が、どうしようもなく愛しい。

 あの日とおなじように、玄関に私とお兄ちゃん二人きり。忘れられない、切なく愛しいキスを思い出す。


 あの記憶を、なかったことになんてしたくない。だから今、私は兄妹というしがらみから抜け出そうとしている。それは自分勝手で、傲慢な願いなのかもしれない。お兄ちゃんは“お兄ちゃん”で在ろうとしていて、私は“妹”で、私の願いは届かないのかもしれない。

 けれどそうだとしてももう、構わない。


「あの時、ここで……」


 ためらいがちに発された私の小さな言葉を、お兄ちゃんは聞き逃さなかった。

 少しだけ表情を引き締めたお兄ちゃんが、ゆっくりと言った。


「……あの時?」

「お兄ちゃんに、聞きたかったの。……どうして……キスしたの、って」


 一言ひとこと慎重に紡ぎだした私の言葉を聞いて、お兄ちゃんの顔から笑みがすべて消えた。

 その瞳に驚きの色が浮かんでいくのを、私は静かに見つめる。

 お兄ちゃんの心が知りたい。私の心を見せたい。兄妹だなんて、この気持ちにそんなことは関係していない。

 私はお兄ちゃんを、こんなにも愛しく想っているのだから。

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