14−2 達也
真夜中に、目が覚めた。暑く重苦しい夜の空気は、俺の心を更に憂鬱にさせるようだった。
のどがからからで、何か飲もうとベットから出て一階に降りると、ベランダに美香が居るのが目に入った。
「……眠れないの?」
部屋の中から美香に声をかけると、ゆっくりと振り向いた美香が口を開いた。
「うん……。お兄ちゃんは?」
「俺はちょっと目が覚めて、のどが渇いたから」
そう言って台所で冷蔵庫のミネラルウォーターを飲んでから、再び居間に戻ると、ぼんやりと視線をどこかに投げている美香が目に入った。それがとても儚げに見えて、心配になった俺は少し眠たかったがベランダに出た。
美香の手には、透明な飲み物の入ったグラスが握られていた。まさか酒では、と俺は少し眉をひそめる。美香は酔ったら何をしでかすかわからないのだ。あの日のようなことになったら、俺はまた自分を抑えられなくなってしまうだろう。それは避けたかった。
そんな俺の考えなど知らず、美香が気遣わしげに口を開いた。
「先に寝てていいよ。私はもう少しこうしてるから」
「……いや、俺も付き合うよ」
そう言って微笑むと、やがて美香の視線は俺から外れてまたどこかに流れていった。
しばらく美香の横顔を見てから、俺も美香から視線を外した。熱を帯びた夜風は、あまり気持ちの良いものではない。
しばらくの沈黙の後、美香のグラスの中身が気になっていた俺は、美香の手の中に再び視線を向けて口を開いた。
「それ、酒じゃないよな?」
「……そんなわけないでしょ。ただの水だってば」
美香が少し苦笑いして冗談ぽく言うので、俺も小さく笑った。
「お前は、酒には弱いみたいだから」
そう言うと、美香は黙ってしまった。覚えていない、と美香は言った。あの日のことは、美香の記憶から消えてしまっているのだ。
それで美香を繋ぎ止められたのだからよかったのだ。けれど、心のどこかが満たされないような感覚がした。
美香との二度のキス。けれど二度とも俺しか知らない、気持ちのない俺だけの一方的な口づけだ。美香が想いを返してくれるわけではないと、正にそれを証明づけられているようだ。
「……ああ、美香は覚えてないんだったね」
俺は少し複雑な気持ちで、それだけ言った。
そのまま再び沈黙が流れる。美香の表情はやはりどこか陰りがあって、何か抱え込んでいるのではないかと心配だった。悩みというのはよほど深刻なのだろう。それが誰か他の男を想ってのことだと思うと、胸に鉛が溜まったような鈍い痛みが走る。
けれど自分本位になっては駄目だ。あくまで美香の気持ちを大切にする、そう決めているのだ。
しばらく何も言わずにそばにいたが、話すきっかけを作ってやった方がいいのかもしれない、そう思って俺は口を開いた。
「美香、何か悩みがあるんだろ? 一人で抱え込まないで、話してみろ」
「……例えばね、どうしても欲しいものがあるとするでしょ。何でもいいの。あの雲の向こうにあるはずの星とか」
ためらいがちに、美香は話し始めた。突然例え話が始まったので少し面食らったが、俺は美香の次の言葉を待った。
すると美香は俺の反応に安心したように少し表情を柔らかくして続ける。
「どんなにがんばったって、手は届かないってわかってるでしょ? だったらもうあきらめるしかないのかな、って……」
美香のその例えは、正に俺が抱えている痛みだった。
けれど美香と俺とでは状況が違っているはずだ。“兄妹”でなかったら、俺もきっととうの昔に美香に想いを打ち明けているのだ。
美香の好きな男が誰かは知らないが、きっと同じ学校のクラスメートなどだろう。美香の想いは、俺と違って許されない想いなどではない。他の男に美香を奪われるのは辛いが、美香にだけは想う相手と気持ちを通じ合わせて、幸せになって欲しいのだ。
「……でも、おまえが欲しいのは星じゃなくて人間だろ? 逃げないでまっすぐ向き合えば、きっと伝わるよ」
そう言ってやると、美香は俺の返答に何か求めていた答えを見いだしでもしたのか、身を乗り出して強く俺を見つめてきた。
「本当に? 本当に、そう思う?」
「大丈夫だよ。……お前に好かれて喜ばない男なんていないさ」
複雑な気持ちのまま俺はそう言って微笑み、美香の頭をくしゃっと撫でた。
本心を言うと、美香に他の男のものになんてなって欲しくなかった。けれど、“兄”として背中を押してやるしかなかったのだ。
これから、美香はだんだん遠くなっていくだろう。美香に付き合う相手ができたとしたら、美香の心はだんだんその誰かで占められていき、やがて“兄”である俺の存在など消えていくのだろうか。
「じゃあ、俺はもう寝るから。あんまり夜更かしするなよ」
今夜はもう一人になりたくて、俺は美香を残してベランダを出た。苦い想いを抱えて。