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「ひみつ」  作者: 名無し
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14−1 美香

 いっそこのしがらみをすべて脱ぎ棄てて、表面だけを飾ったような偽りの“妹”から抜け出してしまいたい。失うことはなくても、決して近づけはしない、近いようで何よりも遠いこの関係を。

 私の「ひみつ」の感情は、消えるどころかこんなにも重みを増しているのだから。



 今まで眠れない夜には、いつもお兄ちゃんのことを考え、お兄ちゃんを想い眠りについていた。

 けれど今は、お兄ちゃんのことを思えば思うほど、切なさに胸が痛んで余計に眠れなくなる。


 あれから、バイトから返ってきたお兄ちゃんと、比較的以前のように自然に接することができた。けれど心に刺さった傷が痛み続けて、眠ろうと布団に入っても色々と考えてしまいやけに目が冴えた。


 時計はすでに真夜中の時刻を指していた。眠れない私はベットを抜け出し、居間に続くベランダに出て夜をやり過ごそうとしている。曇った空の下、ゆるい夜風は、熱気を含んでいてあまり気持ちのいいものではない。

 真夜中だというのに、空気は未だ熱を失わない。息苦しくなるほどの、熱帯夜。


「……眠れないの?」


 ふと部屋の方から声を聞き、一人で物思いにふけっていた私は、少し緩慢な動作で視線を部屋に移した。開いた扉の向こう側に、寝起きなのか少しだけ眠たそうな顔をしたお兄ちゃんが立っていた。


「うん……。お兄ちゃんは?」

「俺はちょっと目が覚めて、のどが渇いたから」


 お兄ちゃんはそう言って台所に入っていった。その後ろ姿を見送ってから、再び視線を戻してぼんやりしていると、戻ってきたお兄ちゃんがベランダに出てきて、私の横に来た。眠そうだったのに、気を使って一緒に起きていてくれるつもりなのだろうか。そう思った私はお兄ちゃんを向いて口を開いた。


「先に寝てていいよ。私はもう少しこうしてるから」

「……いや、俺も付き合うよ」


 けれどお兄ちゃんは優しい眼差しでそう言った。思わず見つめてしまいそうになった私は、不自然にならないように慎重にお兄ちゃんから視線を外した。けれど私の全神経はお兄ちゃんに向かっている。お兄ちゃんの視線が私から外れたのを気配で感じ取ったので、私はもう一度見つからないようにお兄ちゃんに視線を向けた。


 熱を帯びた夜風が、かすかにお兄ちゃんの髪を揺らしている。密やかに、あの髪に触れた夜を思い出す。

 嘘を、つき続けることができるのだろうか。だってこんなに愛しいのに。


「それ、酒じゃないよな?」


 唐突にそう言ったお兄ちゃんが私の方を急に向いたので、私はどきりとしてしまった。けれどお兄ちゃんは私が見つめていたことには気づいていない様子で、私の手にある水の入ったグラスを見ていた。

 

「そんなわけないでしょ。ただの水だってば」


 私が少し冗談めかした声で言うと、お兄ちゃんも少し笑った。


「お前は、酒には弱いみたいだから」


 お兄ちゃんの言葉に私はまたどきりとした。お兄ちゃんはあの日、私が酔っていた日のことを言っているのだ。あの日のことは、私が忘れたと言ったからお兄ちゃんも忘れてくれたと何の根拠もなく思いこんでいた。けれどあれは現実に起きたことだ。お兄ちゃんの記憶からは、まだ消えていない。消したくともあの日の私の行き過ぎた行動は消えないのだ。


 私は何も言えず、少し緊張しながらお兄ちゃんの次の言葉を待っていた。


「……ああ、美香は覚えてないんだったね」


 けれどお兄ちゃんのその言葉で、思ったよりもあっさりとその話は終わらせれてしまった。構えていた私はほっとしたような拍子抜けしたような複雑な心境に陥る。確かに、お兄ちゃんを失うのは怖い。でもあの日の、思い出すだけで心が震えるようなキスを、私は本当になかったことにしたいのだろうか。逃げて逃げて、“妹”という絆にすらすがって。失って傷つくことを恐れ、私は自分を守ってばかりだ。


 そのまま流れた沈黙は、重苦しい感じではなかった。ただそばにいるんじゃなくて、そばに居てくれている、そんな感覚だったからかもしれない。私は再度お兄ちゃんをちらと見た。手が届きそうで届かない、この距離感が切ない。

 隣に居るだけでこんなに苦しくなるほど、私はお兄ちゃんに焦がれている。


 あの日のキスを、本当は忘れてなんかいない。忘れるはずがない。

 ――今、お兄ちゃんにすべて覚えている、と言ったら、どうなるのだろう。


「美香、何か悩みがあるんだろ? 一人で抱え込まないで、話してみろ」


 しばしの沈黙を破り、お兄ちゃんが静かに言った。その瞳を見ると、やわらかな光が浮かんでいて、包み込まれているような感覚に陥った。“お兄ちゃん”の優しさというのがあるなら、まさにこんな感じだろうと思った。


「……例えばね、どうしても欲しいものがあるとするでしょ。何でもいいの。あの雲の向こうにあるはずの星とか」


 ためらいがちに、私は話を始めた。少し無理のある私の例えを笑い飛ばしもせず、お兄ちゃんは真剣に私の話を聞こうとしてくれている。その優しい視線に後押しされるように、私は続ける。


「どんなにがんばったって、手は届かないってわかってるでしょ? だったらもうあきらめるしかないのかな、って……」


 言い終わってお兄ちゃんを見ると、何か難しそうな顔をしていた。

 その内心を測りかねてどうしたのか尋ねようとしたら、その前にお兄ちゃんが口を開いた。


「……でも、おまえが欲しいのは星じゃなくて人間だろ? 逃げないでまっすぐ向き合えば、きっと伝わるよ」


 それは、私が一番欲しかった言葉なのかもしれなかった。

 更なる答えを求めるように、私はお兄ちゃんの“お兄ちゃん”らしい光を宿した瞳を強く見つめた。


「本当に? 本当に、そう思う?」

「大丈夫だよ。……お前に好かれて喜ばない男なんていないさ」


 お兄ちゃんはそう言って微笑み、久しぶりに私の頭をくしゃっと撫でてくれた。胸がきしむ。私の思う相手がお兄ちゃん自身だと知っても、お兄ちゃんは私にその言葉をくれるだろうか。

 

「じゃあ、俺はもう寝るから。あんまり夜更かしするなよ」


 お兄ちゃんはその言葉を残し、居間に戻って行った。一人残されて、こんなにも真夏の熱気に包まれていても、心の奥が氷のように冷たくなっていく。お兄ちゃんの言葉が頭から離れず、その夜、私の心は揺れていた。


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