13−2 達也
いつも、夢に見ていた。許されないと自覚していながら、それでも何度も何度も、俺は想像の中で美香を己の望むままに求め続けていた。けれどそれを現実のことにしてしまったことで、俺はもう美香の瞳に映る資格を無くしてしまったのかもしれない。
昨日の過ちを思い出し、俺は今日何度目かもわからない溜息を吐き出しながらバイトへ行く準備をしていた。
できるものなら昨日のすべてをリセットしてしまいたい。
居間には、俺一人で美香の姿はない。朝に弱い美香のことだから未だ眠っているのだろう。けれどいずれは美香と顔を合わせなければならない。そこまで考えて、俺は自分ができれば美香を避けたいと感じていることに気がつき、思わず自嘲的に笑った。
俺は、恐れているのだろうか。昨日自分勝手に美香の唇を奪っておいて、尚失いたくないなんて虫のよすぎる話だ。
もう二度と、美香の瞳に俺の姿が映し出されることはないだろう。
それでも俺は、耐えていかなければならないのだ。妹を守るのが兄の努めであるように。“兄”として美香を見守り、守っていくのが、俺のたったひとつの務めなのだから。昨日眠る美香をベットに寝かせたときから、誓いのように何度も自分に言い聞かせてきたのだ。
そんなことを考え込んでいると、二階から美香が降りてくる気配がして、振り返ると居間の入り口にいた美香と目が合った。
途端に空気が重たくなり、美香が俺から目を逸らした。
このままではいけないだろう。たとえ美香が俺を許さなかったとしても、俺は昨日美香にあんなに非道なことをしてしまったのだから謝っておく必要がある。俺はそのまま俯いてしまった美香の前まで行き、空気より重い口を開いた。
「美香、昨日は……」
「あの私、酔ってたみたいで、昨日のこと全然覚えてなくて! ……ごめんね、迷惑かけたんでしょ?」
俺が言いきらないうちに美香が目を合わせないまま少し慌てたように言ったので、俺は意表をつかれて数回瞬きを繰り返した。
覚えていないということは、昨日の出来事もすべて美香の記憶にはないということだろうか。
俺が真意を測りかねていると、顔を上げた美香と目が合った。多少の気まずさは未だ残っていたが、俺を拒絶しているようには見えない。もう失ってしまったと思っていた美香を失わずに済んで、俺は神にも感謝する思いでほっと胸を撫でおろしながら口を開いた。
「いや、別に迷惑とかはないよ。そうか、覚えてないのか……」
俺がそう言うと、何故か目の前の美香の表情が少し曇った。
どうしたのか問おうとしたが、その前に美香が焦ったように口を開いた。
「わ、私、昨日お風呂入ってないままだった。シャワー浴びてくるね」
それ以上の追及を許さない様子で、美香は曇ったままの表情でそう言って慌てて居間を出て行った。その後ろ姿が心配ではあったが、とにかく俺は再び安堵を噛みしめていた。
過ちは繰り返さないようにする必要がある。あんな喪失感や虚しい思いはもう二度と経験したくない。
そうこうしてバイトへの準備を手早く終えた俺は、家を出ようとして躊躇した。美香はシャワーを浴びている最中だったから少し気がひけたが、鍵を閉め忘れて家を出るという前科を持った美香のことだから、一言声をかけてからでないと心配だ。それに俺はいつも家を出るときは美香に声をかけて出るのだ。
仕方なく戻って脱衣所の扉をノックすると、すぐに美香の返事が返ってきた。
遠慮がちに入って、少し離れたところから俺は声をかける。
「美香、俺はバイトに行ってくるから。出かけるときは戸締りして、鍵を閉めて出ろよ」
それはいつも通りの言葉だったが、美香からいつものような返事は戻ってこない。どうしたのかと心配に思いながらも返答を待っていると、直後に想像もしていなかった出来事が起こった。突然脱衣所の扉が開いたかと思うと、バスタオル一枚だけを体に巻きつけただけの姿の美香が出てきたのだ。
「美香!? お前、何して――」
信じられない出来事に焦った俺は、半ば叫ぶようにそう言って、すぐに背を向け脱衣所を出ていこうとした。けれど何故か美香に腕を掴まれ、出ていくことは叶わなかった。気をそらそうとしても背後の美香に意識が行ってしまう。この状況は辛いものがある。美香の手を振り払うわけにもいかずその場に立ったまま困惑していたら、美香が背後から小さく問いかけてきた。
「お兄ちゃん。私のこと、……どう思ってるの?」
美香の核心をついた突然のその言葉に、俺は思わずびくりとしてしまった。けれど俺は一呼吸を置いて自分の気持ちを落ち着けることに成功した。昨日の苦い思いを思い返せば今、気持ちを殺すことなど容易かった。心の内を気取られないように、俺は慎重に口を開く。“兄”としての台詞を。
「何、言ってるんだよ。お前は、大事な妹だよ」
「……いもう……と?」
背後の美香の表情は見えないが、その声は心なしかかすれていた。美香は、何を思っているのだろう。最近様子がおかしくて、何を考えているのかわからないことが多い。けれどそれもきっと、俺が「ひみつ」の感情を隠し切れていなかった所為だろう。
俺は無意識のうちに表情を引き締めていた。気持ちを殺し、偽りの“兄”を演じて。嘘で埋め尽くされた俺を、今までどおりに信頼してほしいなどとは思わない。けれどそれで繋ぎ止められるのなら、それで美香を失わずに済むのなら、俺は何でもできる気がした。
少しずつ、修正していけばいい。ただの“兄”と“妹”に。“兄妹”というだけの二人に。
「ほら、俺はもう行くから。手を放してくれるか……?」
俺が務めて優しい声音でたしなめるように言うと、俺の腕をつかんでいる美香の手の力が少し緩んだ。
「そっか……、そうだよね。あは、ごめんね、なんか……変なこと聞いちゃって」
半ば自嘲するような美香の声に、ただならぬ苦悩のようなものを感じた。
美香の友達が悩んでいると言っていたから、多分色々と葛藤するものがあるのだろう。
「美香……」
「なんか色々あって、辛くて……疲れちゃってたの。忘れてくれる?」
何と声をかけていいか分からずにただ名前を呼んだ俺に、美香は必死に平静を装った様子の声だった。美香が忘れて欲しいと言っているのだからもうこれ以上追及しない方がいいのだろう。心配だが、俺はあくまで“兄”だ。美香から言い出さない限り、立ち入った事まで聞き出すことはできない。そんなことを思っていると、とうとう俺を引きとめていた美香の手が引っ込んだ。
「バイト、頑張ってきてね」
そう言った美香の声は先ほどよりも更に沈んでいた。落ち込んでいる様子の美香を一人にするのも忍びなく、できるなら慰めてやりたかったが、今はこの状況から一刻も早く抜け出したかった。俺が“兄”を保っていられる間に。
「ああ、行ってくるよ」
俺はそう言って脱衣所を出ると、そのまま振り返らずに家を出た。