13−1 美香
夢を見て、あの人を求めて。そうして現実を知らずにずっと夢を見続けられたならば、どんなにか幸せだろうと思う。
夢が覚めればただ、虚しい現実に直面するだけと知っていたのに。
目を開けるとそこは、いつも通りに私の部屋のベットだった。私は状況が把握できずに、数回瞬きを繰り返す。
そうして刹那に蘇る、お兄ちゃんとの口づけ。あれは夢だったのだろうかと一瞬思ったけれど、私はその考えをすぐに打ち消した。
酔ってはいたけれど、鮮やかに思い出せる確かな感覚は私にあれが現実であったことを私に訴えている。
そうして、途中で途切れた記憶。意識がひどく朦朧としていたから、おそらく私は眠ってしまったのだろう。お兄ちゃんがここまで運んできてくれたことも容易に想像がつく。
「私、なんてこと……」
そうして私は呟きながら自分のとった行動を思い返し、大きな後悔に飲まれていく。
酔っていたとはいえ、お兄ちゃんに対してあんなことをするなんて、“妹”の域を超えている。お兄ちゃんは優しいから私を拒めなかったんだろうけれど、心の中では軽蔑したかもしれない。あんなことをしてしまった私を。
昨日、お兄ちゃんの心は全く見えないままだった。だからこそ不安は募る。何故、夢の中でのキスと昨日交わしたキスが重なっていたのか、それをお兄ちゃんに問いたかった。けれど、それは同時にとても怖くもあった。
どうして一瞬でも忘れていられたのだろう。“妹”じゃなくなった瞬間、お兄ちゃんを失うかもしれないということへの恐怖を。
できるならばお兄ちゃんをしばらく避けていたかったけれど、一緒に住んでいるのだからそうはいかない。
重い足取りで部屋を出て一階まで行くと、居間の入り口まで来たところですでにそこにいたお兄ちゃんと目が合った。
気まずい空気に、私は思わず目を逸らす。そのまま俯いてしまうと、お兄ちゃんが私の前まで歩いてきて、口を開いた。
「美香、昨日は……」
「あの私、酔ってたみたいで、昨日のこと全然覚えてなくて! ……ごめんね、迷惑かけたんでしょ?」
咄嗟に、私は目を合わせないまま叫ぶように言っていた。軽蔑されたくなくて、なかったことにしたかった。だからいっそ、酔いのせいにして忘れたふりをしてしまえばお兄ちゃんに軽蔑されずに済むと思ったのだ。
「いや、別に迷惑とかはないよ。そうか、覚えてないのか……」
そう言ったお兄ちゃんの表情がほっとしているように見えて、私の胸にちくりと小さくて深い針が刺さった。昨日の情事は、やはりただの過ちだというのだろうか。それとも、涙を流す私を憐れんでのことだったのだろうか。どちらにせよ、お兄ちゃんが私へ“妹”以上の特別な感情を持っているとは考えにくい。
「わ、私、昨日お風呂入ってないままだった。シャワー浴びてくるね」
思わず泣きだしたくなってしまった私は急いでそう言って、慌てて逃げるようにお兄ちゃんのいる居間を後にした。
けれど、もう一つの疑問は未だ私の胸にある。夢だと思っていたお兄ちゃんとの口づけが、現実のことかもしれないということだ。
シャワーを浴びていると、脱衣所の扉がノックされて、返事を返すとお兄ちゃんが遠慮がちに入ってきたようだった。扉の向こうの少し離れたところから、お兄ちゃんが声をかけてくる。
「美香、俺はバイトに行ってくるから。出かけるときは戸締りして、鍵を閉めて出ろよ」
いつも通りの、お兄ちゃんの言葉。けれど私はいつも通りに返事を返さなかった。
昨日気づいた一つの疑問が私の心をかき乱す。在るはずのない希望に、すがりつきたくなるのだ。そう――私の気持ちは、もしかしたら一方通行ではないのかもしれない、と。
どうしても、確かめたかった。お兄ちゃんは私のことを、“妹”ではなく“女”として見てくれるのか。私は意を決して、バスタオル一枚だけを体に巻きつけた状態で、お兄ちゃんの居る脱衣所への扉を開けた。
「美香!? お前、何して――」
お兄ちゃんは私の突然の行動とその姿を見て驚いたのか、いつになく慌てた様子でそう言って、すぐに脱衣所を出ていこうとした。けれど私はその腕を掴み、それを阻む。仕方なく立ち止まったお兄ちゃんの背中から、昨日と同じように困惑が伝わってくる。私は勇気を振り絞り、その背中に問いかけた。
「お兄ちゃん。私のこと、……どう思ってるの?」
ぴくり、と私の掴んでいるお兄ちゃんの腕が動く。私は神にもすがる思いでその返答を待っていた。けれど一呼吸を置いてその背中から帰ってきたのは、あくまでも冷静な声色だった。
「何、言ってるんだよ。お前は、大事な妹だよ」
「……いもう……と?」
お兄ちゃんから返ってきた信じたくない言葉がうまく飲み込めなくて、私はかすれた声で呟くように問うた。けれどお兄ちゃんの口が“妹”というその言葉を否定することはなかった。
「ほら、俺はもう行くから。手を放してくれるか……?」
お兄ちゃんのその言葉も態度も、あくまで“お兄ちゃん”だった。この状況においても、お兄ちゃんは決して私を求めてはくれない。お兄ちゃんが求めるのは私じゃなくて、他の誰かだとわかっていたはずだったのに。
馬鹿みたいに、夢を見ていた。私の思いは一方通行ではなくお兄ちゃんに通じて、お兄ちゃんの心が手に入るのだと。けれど夢はあくまで夢のまま。やはり現実は私に“妹”という残酷な言葉しか与えてはくれなかった。私は一人ごちるように呟きを返す。
「そっか……、そうだよね。あは、ごめんね、なんか……変なこと聞いちゃって」
「美香……」
お兄ちゃんが気遣うように私の名前を呼ぶ。その大きな背中が何故、こんなに愛おしいのだろう。抱きしめたくて、でもできなくて、苦しくなる。
「なんか色々あって、辛くて……疲れちゃってたの。忘れてくれる?」
私は動揺を悟られまいと声だけは平静を装ってそう言った。
昨日の口づけは、そして、あの夢だと思っていたキスは、お兄ちゃんの気まぐれだったのだろうか。それでもよかった。そんな形でも構わないくらい、私はお兄ちゃんが欲しいのだ。でもこれ以上を求めてしまったら、お兄ちゃんを失うかもしれない。それがどうしても怖かった。
だから私は、逃げ続けるのだ。いつもいつも、“妹”が嫌だと言いながら、“妹”という安全な絆を逃げ道にしている。
私はそんな自分に自己嫌悪しながらも、お兄ちゃんの背中に向かって口を開く。
「バイト、頑張ってきてね」
「ああ、行ってくるよ」
私がやっとお兄ちゃんの腕を解放すると、お兄ちゃんはそう言ってするりと脱衣所を出て行ってしまった。
程無くして、玄関の扉が閉まる音が聞こえてくる。けれど私は、一人きりになった脱衣所で、しばらくそのまま立ち尽くしていた。