11−2 達也
嫉妬や独占欲。そんな低次元の感情など持って生まれてこなければよかったとすら思う。
今、俺が“兄”として美香のそばに居るためには、それらを殺してなかったことにするしかないのだ。
電話口で告げられた住所へと車を走らせながら、俺はどうしたものかと溜息をついた。
美香の携帯電話からの着信は、美香からのものではなかった。
美香の友達のものらしい電話口からの慌てた声は、美香が酔いつぶれているということを伝えてきた。帰れる状態ではないから迎えに来て欲しい、と。
それを聞いた時、はじめは信じられなかった。美香が酒を飲んだということすら驚きだったのに、その上酔いつぶれているというのだ。根がまじめな美香がそこまでするということは、何かよほどいやなことがあったのだろう。
そう思うと、考えたくない予感が頭をよぎる。最近、美香はおかしかった。そして、今朝振り払われた手。もしかしたらそのいやなことというのは俺と一緒に居る事なのではないだろうか。
しかしそこまで考えて、俺はそれを否定するに至った。俺の中では美香の存在はとても大きなものかもしれないが、美香の中での俺はただの“兄”だ。それほど存在が大きいとは考えにくい。俺は最終的にそう結論付けて、不安をやり過ごすことにした。
そんな風にあれこれ考えていると、もう目的地に着いていた。道の隅に車を停めて降りる。
玄関の前に立ってチャイムを押そうとすると、その前に勢いよく扉が開いた。見たことのある顔だ。美香の写真によく一緒に写っているし、美香の話にもよく名前は出てくるのだが、思い出せない。
その美香の友達は俺を見てこんにちは、と言った。そして申し訳なさそうに口を開いてきた。
「ごめんなさい、わざわざ迎えに来てもらって。あたしが、お酒なんて勧めちゃったから……」
「いや、気にしないで。こっちこそ、美香が迷惑掛けてごめんね」
そう言うと、ほっとしたように少しだけ表情を明るくした美香の友達が、こっちです、と俺を中に促してくれる。後を付いていくと、ソファーの上で気持ちよさそうにすやすや眠っている赤い顔をした美香が居た。そばに行って声をかけてみたが起きる気配はない。美香の友達も横に来て、そして困ったように苦笑いして言った。
「起きないんですよ、さっきから何度も声をかけてるんですけど」
「そうみたいだね。仕方ない、抱えて連れてくよ」
「……すいません、ほんとに。お願いします」
「気にしなくていいって。迷惑掛けたのは美香なんだから」
申し訳なさそうに小さくなっている美香の友達に微笑みながらそう言ってから、俺は美香を抱え上げた。酔いのせいか、美香の体温はいつもより高かった。いつか眠る美香を抱え上げた時の記憶、あの夜の秘め事が蘇りそうになったが、俺は持てる理性の限りを総動員して“兄”であった。
そうして美香の友達に誘導されながら玄関へと戻って行く。靴を履こうとしているところで、美香の友達が思い切ったように「あの、」と声をかけてきた。美香を抱えたまま目を合わせると、美香の友達はためらいがちに口を開いた。
「あの……、美香の話、聞いてあげてもらえませんか? 美香、悩んでるみたいなんです。好きな人が居るからって」
それを聞いた時の俺の心の衝撃を、何と表現すればいいだろう。いつかは美香は他の男のものになっていく。そんなことはわかっていたはずだった。それなのに耐えがたいほどの負の感情に押しつぶされそうになった。
俺の秘められた想いを知るはずもない美香の友達は、俺とは対照的に純粋に美香のことを心配し、そして続ける。
「あたしじゃ上手く慰めてあげられなくて。美香、お兄さんのことはすごく信頼してるから、お兄さんに聞いてもらったら少しは楽になるかもしれないから」
美香の友達はそう言って俺に微笑みを向けた。誰もが俺に対し、美香の“兄”であることを要求している。美香の友達も、そしてきっと両親も、おそらく――美香自身すらも。家族として、よき理解者としての“兄”であってほしいと。俺だけがそれに背き、許されない感情に囚われている。“男”として美香を見つめ、美香の信頼を裏切り続けているのだ。
無意識のうちに、俺は美香を抱きかかえる腕に力を込めていた。
そうこうして、美香の友達の家を出た俺は、美香をそっと車の助手席に乗せた。眠り込んでいる美香の顔を見やると、その目が少し赤く腫れていることに気がついた。刹那に胸を痛みが駆け抜ける。美香の友達が悩んでいる、と言ったくらいだから多分泣いたのだろうが、他の男のために涙を流す美香が痛々しく、嫉妬にも似た感情が湧きあがってきた。
俺なら、絶対に泣かせたりしない。大切に大切に愛してやる自信があるのに。
けれど今、傷ついて涙を流す美香に俺の気持ちを悟られたとしたら、より苦しめることになるだろう。それだけは避けたかった。美香が大切であるからこそ、美香には幸せでいてほしい。今俺にできることは、“兄”として美香を悲しみから守ってやることだ。俺にも、優しさで包んでやるくらいのことはできる。
そんなことを思いながら車を走らせていると、距離の中程まで行ったところで、助手席からわずかに身じろぎしたような気配がした。美香が目を覚ましたのだろう。運転をしているので顔は前を向けたまま、俺は美香に声をかけた。
「美香、起きた?」
「私……?」
「ああ、美香の友達に連絡もらったんだよ。酔いつぶれてるから、迎えに来て欲しいって」
まだ状況がよくわかっていないらしく困惑したような美香の声に、俺はそう教えてやった。美香の好きな男の話を聞くのは少し辛いが、それでも美香が落ち込んでいるなら励ましてやらなければ。そう思い、信号停車したところで俺は美香を向いて口を開いた。
「どうしてそんなになるまで……酒なんて、飲んだことなかっただろう?」
「……忘れたかったの」
俯き加減に美香がそう言った。話を聞いてやろうと思ったが、美香も今は話したくないのかもしれない。俺はそれ以上何も聞かず美香が自ら話し出したら聞いてやろうと思った。しかしそのまま車が家に着くまで美香は何も言葉を発しなかった。信号停車の時に何度かちらりと美香を見たが、美香はずっと、ぼんやりと視線をどこかに投げていた。
俺は車を駐車場に停止させ、エンジンを切り車から出る。しかし美香は全く気づいていない様子でそのまま助手席にぼんやりと座っていた。まだ酔っているのかもしれない。俺が助手席のドアを外から開けてやると、美香がはっとしたように俺を見た。
「着いたよ。ほら、歩けるか……?」
そう声をかけ、俺は美香に手を差しのべた。今朝のように振り払われても、何度でも俺は美香に手を差し出し続けると決めた。それがきっと“兄”であるということだ。しかし美香は今朝のように振り払うのではなく、恐る恐る手を出してきた。俺は小さなその手をしっかりと握ってやる。
美香は少し驚いたような顔をして俺を見てから、意外なことに手を強く握り返してきた。俺の腕にすがりつくようにして車から出る美香が愛おしい。おぼつかない足取りの美香はやはり相当に酔っているようだった。
そしてそれが、予想だにしない出来事を引き起こすことになるなんて、その時の俺は思いもしていなかった。けれど自分を必死に制しようとしている俺に、容赦なくそれは訪れた。
玄関に入って靴を脱ごうとしていた時だ。背後の美香に急に手を引かれ、振り向くのと同時に美香が体を預けるようにして抱きついてきたのだ。驚いた俺は美香を受け止めきれずに、そのまま美香と玄関に倒れこむ。
まるで押し倒されたといえるような状態で、俺は目を見開きながら美香を見上げた。見つめ返してくる美香の顔が、重なる。いつか夢で見た美香の顔と。
――“女”の顔をした美香が、そこに居た。
「美、香……?」
俺は動揺を隠しきれないまま美香を呼んだ。一体、何が起こっているのだろう。俺はまた夢を見ているのだろうか。――それとも。