11−1 美香
意識が、ふわふわしている。私は夢を見ているのだろうか。
小さい頃から、お兄ちゃんが大好きだった。だからいつも、お兄ちゃんのそばを離れなかった。今思えば、なんて煩わしい妹。なのにお兄ちゃんはやっぱり昔からお兄ちゃんで、優しい笑顔でそんな私を許してくれていた。
けれど私がまだ小学生だったある日のことだ。どこかに出かけようとするお兄ちゃんにいつものごとくついていこうとしたとき。お兄ちゃんが私に向って突然苛立ったように叫んだことがあった。
「もう、ついてくんな!」
お兄ちゃんのその言葉とともに私に向けられた冷たい瞳。私は優しいはずのお兄ちゃんの突然の変化に戸惑い、肩をびくつかせた。お兄ちゃんだってあの頃はまだ思春期の中学生。考えてみれば片時も離れることなく妹に付きまとわれて限界に来ていたのだろう。けれどそんなこともわからなかった幼い私は、驚きと恐怖に立ちすくむことしかできなかった。
「ごめんなさい……」
涙ながらに何度も繰り返すと、顔を歪めたお兄ちゃんが勢いよく私に背を向け、玄関を出て行った。
失いたくなかった。私は履きかけの靴に足を押し込んで、必死にお兄ちゃんを追いかけた。けれど小学生の私の足で中学生のお兄ちゃんに追いつくはずもなく。足に引っ掛けていただけだった靴が脱げ、転んだ私は足を擦りむいた。
お兄ちゃんを怒らせてしまったしまったことが悲しくて、優しさを失ってしまうことが怖くて。どうすることもできなかった私は、地面にしゃがみ込んだまま大声をあげて泣いた。そうすることで自分を慰めようとしたのだ。擦りむいた足から血が滲んで、痛くてどうしようもなかった。
「美香!?」
すると、お兄ちゃんの声が私を呼んだ。
私の泣き声を聞きつけたのか、お兄ちゃんが慌てて私の所まで走って戻ってきてくれたのだ。
「転んだのか? ちょっと見せてみろ……」
そう言って私の傷を見ようと私の前にしゃがんだお兄ちゃんに、私は思い切り抱きついた。お兄ちゃんが驚いていることにも構わず、そのままぐずり続ける私を、お兄ちゃんは何も言わず優しく抱きとめ続けてくれていた。優しいお兄ちゃん。大好きなお兄ちゃん。
あの頃のように、何も知らないままでいられたらどんなにか楽だったろう。きっと私のお兄ちゃんへの感情は、あの頃から隠すべき「ひみつ」の想いだったのだから。
ふと気がついて辺りを見回すと、私は暗闇の中に居た。何も見えなかったけれど、私はすぐに少し離れたところに居るお兄ちゃんの背中を見つけた。幼いあの日のように、私は拙い走り方でお兄ちゃんに向かった。
「お兄ちゃん」
私の声に振り向いたお兄ちゃんは、もう幼さを捨て、一人の大人の男の人の顔をしていた。大学生の姿のお兄ちゃん。対する私だけが、幼いあの日の姿のまま。大人と子どもそのものだった。
幼いころからずっと私の心にある、お兄ちゃんへの依存心、執着心、恋慕の情。お兄ちゃんは私の幼い姿に隠されたそれらの感情を見抜いたのか、困ったような目をして半ば呆れたように笑った。
「もう、子供じゃないだろう……?」
お兄ちゃんのその言葉に我に返ると、私の手も足も幼いものではなく元の大きさに戻っていて、すでに17歳の私に戻っていた。そうして顔を上げたときには再びお兄ちゃんは遠い背中になっていた。
子供じゃないから。大人になろうとしているから、もう幼いあの頃のようにずっと一緒には居られないというのだろうか。
けれど、その意味は――……
そこでふと、目を開けた私は現実に戻ってきたことを悟った。やはり夢、だったようだ。
頭は未だくらくらとしていて、顔の火照りは全く収まっていない。窓の外を流れていく景色は、車の中のようだった。助手席に座っている私。そして何度か乗ったことのあるこの車は、お兄ちゃんの車だ。そう思って顔を横に向けると、運転席で車を運転しているのはやはりお兄ちゃんだった。
私は記憶を探った。さっきまで確かにかよちゃんの家に居たはずだ。かよちゃんからお兄ちゃんの話を聞いて、どうしようもなくショックを受けて……、そうして、お酒をやけになって飲んで、眠気に襲われた。そこまでは確かに覚えている。でもその後の記憶がない。
「美香、起きた?」
運転をしているというのに気配で私が起きたことに気付いたのか、前を見たままお兄ちゃんが言った。どうしてお兄ちゃんの車に乗っているのか分からず、私は瞬きを繰り返す。
「私……?」
「ああ、美香の友達に連絡もらったんだよ。酔いつぶれてるから、迎えに来て欲しいって」
私の困惑を察して、お兄ちゃんがそう教えてくれた。どうも私はあのまま眠ってしまっていたようだから、誰かがここまで運んでくれたのだろう。かよちゃんにできるはずはないし、やはりお兄ちゃんが運んでくれたのだろうか。
そんなことを考え申し訳なく思っていると、車を信号停車させたお兄ちゃんが私の方を向いて、また口を開いた。
「どうしてそんなになるまで……酒なんて、飲んだことなかっただろう?」
「……忘れたかったの」
私が俯き加減にそう言うと、お兄ちゃんは何も言わなかった。流れる、沈黙。それでもそんな沈黙の気まずさも感じないほど、私の意識は朦朧としていた。頬が熱く、動悸がする。そして眠気に襲われている時のように目が上手く開かなかった。これが「酔っている」ということなのだろうか。
「着いたよ。ほら、歩けるか……?」
お兄ちゃんの声を左に聞いてふと気付くと、すでに車は家の駐車場に停車してエンジンも切られており、いつの間にか車から降りていたらしいお兄ちゃんは、私の居る助手席のドアを外から開けてくれていた。
差しのべられた、お兄ちゃんの手。恐る恐る手を差し出すと、思いのほかお兄ちゃんは私の手をしっかりと握ってくれた。今朝振り払ったばかりだというのに、お兄ちゃんの手はいつもどおりに優しかった。
それを感じた瞬間、高まる愛しさ。体中の火照りが、お兄ちゃんと繋がれた指先に集中したようだった。もっと触れていたくなる。手をつなぐだけでなく、強く抱きしめたい。もっともっとお兄ちゃんの近くに行って、お兄ちゃんを知りたいと。
私の心の奥底に押し込めた「ひみつ」の感情が目を覚ます。
ふわふわとした不思議な世界と、恍惚とした意識、早鐘のように打つ心臓の鼓動の中、私は私でなくなりつつあるのかもしれなかった。お兄ちゃんが欲しいと、私のすべてが切望しているのだ。それは半ば本能的な想いだった。
お兄ちゃんの手、お兄ちゃんの瞳、お兄ちゃんの、心。全部私のものであってほしい。誰かのものになんかさせない。
私はお兄ちゃんの手を強く握り返して、その手にすがりつくようにして車から出た。
おぼつかない足取りで玄関を入ったところで、私はとうとう想いに突き動かされるように、衝動的に体を動かしていた。玄関で靴を脱ごうとしているお兄ちゃんの手を引き、振り向いたお兄ちゃんに、思い切り体を預けるようにして抱きついたのだ。
まさか私に抱きつかれるなんて思ってもいなかった様子のお兄ちゃんは、私を受け止めきれずに、そのまま私とともに玄関に倒れこむ。押し倒されたような状態で、目を見開きながら私を見上げるお兄ちゃん。その瞳を見つめながら、私はお兄ちゃんを組み敷いた。
「美、香……?」
お兄ちゃんがためらいがちに私を呼んだ。もっと名前を呼んでほしい。その困惑した瞳すらも、愛おしいから。