1−2 達也
誰でも一つくらいは心に秘めた思いを抱えているのだろうか。時々わからなくなる。俺の心の奥に、得体の知れない感情が住んでいる。
「ねぇ、達也ってば」
「あ、ごめん。何?」
名前を呼ばれて我に帰った俺は、前の席に座ってこっちを振り向いている女の顔を見た。今は大学の講義室にいるんだった。そしてこの人は確か鈴木さんだ。たまに講義が一緒になるけれど、付き合いは浅い。
笹原達也、20歳、大学生。たいした特技もなく、趣味もなく、平凡な毎日を送っている。……はずだったのだが、俺には一つだけ、平凡だと言いきれない要素があることを最近自覚しつつある。
「まぁた考え込んでる」
「……ごめん」
「いいけどさぁ、達也ってなんか謎だよねぇ」
「謎?」
「なんか一見爽やかだけど、でも心の奥に誰にも言えない秘密を抱えてそうっていうか、あたしらには理解できない深ーい何かを心に秘めてそう」
鈴木さんのその言葉に、俺の心臓が大きく鳴って反応した。面白いくらいに動揺している証拠だ。
「別にそんなことないけどね」
しかし内心とは裏腹に俺は淡々と言ってのけた。こんな時、自分の感情を隠すのが得意でよかったと思う。
「隠してもあたしにはわかるよ。ねぇ、……あたしじゃ達也の心の中、入っていけないかな?」
「は?」
「あたしさぁ、達也が――」
「こら、講義始まるぞ。俺ここ座ってい?」
教室に入ってきた男が、鈴木さんに皆まで言わせず、勝手に俺の横に座って話に割り込んできた。石橋――俺の知り合いで、三枚目と言った感じの男だ。鈴木さんが石橋に非難するような眼差しを向けた。
「ちょっと石橋くん。邪魔しないでよ。あたしの勇気が台無し」
「いいじゃん別に。こんな奴やめとけって。シスコンだぞ」
石橋のシスコンと言う言葉にむっとした。俺には美香という妹がいる。三つ下で高校生だ。だが今の俺にとってシスコンなんていうのは言われたくない言葉の一位にランクインしている。
「帰るよ、レポートあるし」
不機嫌になった俺はそう言って立ち上がった。
「あ、達也。美香ちゃんはいつ紹介してくれんの?」
「お前みたいなのに紹介するわけないだろ」
「なんだよ、やっぱりシスコンじゃないか」
更にむっとした俺は石橋を無視して講義室を出た。もうすぐ始まりのチャイムが鳴りそうだ。
足早に大学を出ながら、俺はまた石橋に苛立ってきた。美香は俺がずっと可愛がってきた大事な妹だ。あんな奴に紹介してやるはずがない。というより、誰にも紹介なんてしたくない。
……やっぱり俺はおかしいのかもしれない。
美香とは血がつながっていない。親が話しているのを偶然聞いてしまったという典型的なパターンだ。だから親も美香も俺が知っていることを知らない。美香に至っては俺を本当の兄貴だと思っている。
家に帰った俺はパソコンの前に座ってレポートを始めた。時々時計にちらちらと目をやりながら。もうすぐ帰ってくる時間だ。
「ただいま、達也」
ほどなくして、あいつの声と同時に玄関の扉が開いた。いつものように俺のことを呼び捨てにしたがる。
「……美香。そう呼ぶのはやめろって」
「いいでしょ。達也って呼びたいんだから」
振り向いて美香を見ると、拗ねたような可愛い顔をしている。
「あのなー。お兄ちゃん、だろ」
そう言って、俺は立ち上がって美香の前まで行くと、髪をくしゃっと撫でてやった。
こうしてやった時の美香の嬉しそうな表情が好きだ。
美香。例え血がつながっていなくても、俺の大切な――妹。