10−1 美香
どうして、世の中には好きになっていい人と、そうじゃない人がいるのだろう。
どうして彼は“お兄ちゃん”なんだろう。私は、兄妹としてではなく男と女として、彼と出会いたかったのに。
今朝お兄ちゃんの手を振り払ってしまってから、私もお兄ちゃんもぎこちないまま、お兄ちゃんはすぐにバイトへ行ってしまった。とうとう自分の傷を一人で抱え込むことができなくなってしまった私は、かよちゃんに泣きついた。
そうして今、午後になって、私はかよちゃんの家までやってきている。メールで「話を聞いてほしい」と送ると、かよちゃんは何も聞かずに「今日あたしん家においで」と返事をくれたのだ。きっと真剣に話を聞いてくれるつもりなのだろう。
玄関のチャイムを鳴らすと、すぐに空いた扉からかよちゃんが顔を出した。かよちゃんは私の顔を見るなり表情を引き締めた。
「美香、とりあえず入りな」
かよちゃんはそう言って、部屋の中に私を入れてくれた。促されるままにソファーに座ると、横に座ったかよちゃんが私の頭に手を置いて撫でてくれた。刹那に蘇る、お兄ちゃんが私の髪を撫でてくれるときの優しい手。胸を痛みが駆け抜けた。
「あんた、ひどい顔してるよ。張り詰めて、今にも切れそう……。どうしてそんなになるまで我慢したの。辛いなら吐き出しちゃいなよ、全部聞いてあげるから」
かよちゃんが柄にもなくそんなことを優しい声で言うから、押さえつけていた感情が心の奥の方からあふれ出しそうになった。それは決して見せることのできない「ひみつ」の感情でも。今、この哀しみと辛さだけは、打ち明けることを許してほしい。
込み上げてくる涙を必死に抑えながら、私はかよちゃんに向かって口を開いた。
「すごく、すごく好きなんだけど、私じゃ、好きだって言うこともできないんだよ。だから……、っだから」
だから、お兄ちゃんが誰かのものになるのを、“妹”として見守ることしかできないのだ。それは私にとってどんなことよりも辛い拷問のようなものだった。そのまま涙を堪え切れずに嗚咽混じりに泣き出してしまった私の肩を、かよちゃんが優しくさすってくれる。
「美香、その人に正直に好きだって打ち明けてみな? 気持ちを伝えることもしちゃいけないなんて、誰もそんな残酷なこと言わないよ……」
かよちゃんの言葉に、私は涙ながらに何度か首を横に振った。それは、彼が“お兄ちゃん”でなく、彼と私が他人だった時、初めて言えることだ。私と彼は“兄妹”なのだ。打ち明けられるはずがない。こんな想いを抱え続けることだって許されないのに、ましてそれを伝えることなんてできるはずがないのだ。
忘れたい、と思った。こんな気持ち、苦しいだけだった。お兄ちゃんの暖かい手を、見ていると吸い込まれそうな深い色をした愛しい瞳を、他の誰かが占領するなんて耐えられない。それなのに私以外の誰かに、お兄ちゃんの笑顔は向けられている。
しゃくりあげながら涙を流し続ける私を困ったように見ていたかよちゃんが、急に何かを思いついたように立ち上がり部屋を出て行ったかと思うと、手に何か缶ジュースのようなものを何本か持って戻ってきた。そうしてソファーの前のテーブルに置かれたそれらをよく見ると、ジュースではなくお酒のようだった。
「飲も! ほら、やっぱりやなこと忘れるためにはお酒しかないでしょ。今日ちょうど親いないしさぁ」
「え、だって一応、未成年……。しかもこんなお昼から……」
「関係ないわよ。悪いこともしないといい大人になれないよ。ほら」
かよちゃんはそう言って、お酒の中から桃の絵の描かれた一本を私に差し出した。やっぱり、この発想がかよちゃんだ。まともな慰めは期待できない。それでも、今はかよちゃんのそんなところに元気づけられた。いつの間にか涙も止まっていた。
お酒なんて飲んだことがないから手に持ったまま飲もうとしない私に反して、かよちゃんはまるでジュースでも飲むみたいに簡単に口に入れている。そうして結構な量を飲んでも平然とした顔のかよちゃんが、ふと思い出したように口を開いた。
「あ、そう言えば今日の朝にね、駅前のコンビニで美香のお兄さん見たよ。お兄さん、あのコンビニの横にある塾でバイトしてるんだっけ?」
「……あ、うん。そうだよ」
お兄ちゃんの話が突然出て、私は内心で少し焦った。今は、思い出してしまうからお兄ちゃんの話はあまりしたくない。けれどそんなことを知るはずもないかよちゃんは、何気ない様子で続ける。
「なんかね、女の人と腕組んでたからまじまじと見ちゃったよ。多分大学生かなぁ、あの人。彼女なんだろうね」
その言葉を聞いた瞬間、耐えられないような絶望的なショックが、私の心に大きな亀裂を入れた。すぐにピンときたのだ。お兄ちゃんの感情の向く先に居る人だと。この現実が夢だと思いたかった。
「相変わらず芸能人みたいに格好良かったよ。やっぱり、兄妹だね。美香も負けずに可愛いもん。だからね、美香の好きな人もきっと振り向いてくれるよ」
そう言って笑う、かよちゃんの笑顔すら痛かった。かよちゃんは私を慰めてくれているだけなのに。その言葉が、まるで凶器みたいに私の心の傷を大きくしていくのだ。兄妹だから、私の気持ちは絶対に報われないのだと。思い知らされたのは、もう何度目だろう。
かよちゃんにすら言えない、私の「ひみつ」。こんなに哀しくて辛くて、それでも想いを捨てられないなんて。
「あ、そうだ。この前遊びに行った時の写真できたんだよ。美香も見るよね? 持ってくるから」
「うん……」
かよちゃんの言葉に空返事をし、再び部屋を出ていくかよちゃんの背中を見つめながら、私はもう自分の心をどう慰めていいのかわからなくなっていた。何も考えたくなくて、何もかも忘れたかった。
そうして私がたどり着いた結論は、手の中にあるモノに頼ることだった。私はかよちゃんに渡された桃の絵のついたお酒のプルタブを思い切って開けてから、そのまま一気に何口か飲んだ。美味しくは、ない。ジュースのようだけれど、何か苦い味が混ざっている。私は慣れない味に顔をしかめながらも、それでも一気にそれを飲み干した。
そうして二本目に手をかけたとき、かっと体が熱くなって、くらくらするような慣れない感覚に襲われた。なんだか怖くなってしまったけれど、ペースを落としてしまいながらも私は飲み続けていた。
「美香!? ちょっと、いつの間にこんな……。顔真っ赤じゃない!」
驚きの込められたその声に我に返ると、かよちゃんが私の前に居た。
いつの間に戻ってきたのだろう。全く気がつかなかった。顔が異様に火照ってきて、頭がぼんやりとかすんでいる。私は何も言えないまま、座っているのもつらくなり、思わずソファーに倒れこんだ。やわらかなソファーに沈み込んでいくと、優しく包まれているような幸せな感覚に陥った。
深い、深い意識の底に飲み込まれていくようで、周りの音が、かよちゃんの声が遮断されていく。
「……んな状態じゃ、帰れな……、ど……すれば……、の、お兄さん……迎え……」
途切れ途切れに聞こえるかよちゃんの声。意識が薄れていっていたけれど、かよちゃんの言葉の中の“お兄さん”というところだけは、やけにはっきりと聞き取れた。
「おにいちゃん……?」
呟くと、追憶の中で大好きなお兄ちゃんの笑顔が私に向けられた。大切で何よりも愛しい、私だけのお兄ちゃんの笑顔。満たされた偽りの幸せの中、私は遂に意識を手放した。