9−2 達也
美香への思いが大きすぎるが故に、俺は寝ても覚めてもただ美香のことを考えている。
だからこそ、こうして痛みは増していくのだ。
最近、美香の様子がおかしい。特にここ数日は、俺といる時、必死に笑顔を「作っている」のだ。
風邪はもう治ったようで体の辛さはなくなったが、今はそのことが俺の心を苦しめていた。
数日前、背中に寄りかかってきた美香に、感情をできる限り抑えて告げたあの言葉。あれを言ってから美香はおかしくなった。
その意味など考えてみれば簡単なことだ。つまり、隠し切れていなかったのだろう。さすがに美香も俺に思われていることまでは気づいていないだろうが、俺の美香への感情が普通でないこと――“異常”であることに感づいたのかもしれない。
俺は恐怖と焦りを感じていた。美香を失うことになるかもしれないのだ。そんなことになったら俺はどうなってしまうのか、見当もつかない。こうなってしまった上は、今まで以上にあの感情を隠し、美香に見せないようにする必要がある。
美香が俺を避け、俺に取り繕うように笑うたび、心の奥底が鈍い痛みを訴えてくる。こんな思いはもうごめんだ。もし、俺の隠している感情を悟られ、美香に拒絶でもされた日には心がおかしくなりそうな気さえした。これ以上の痛みに耐える自信はない。
美香がどんなに俺を避けようと、作り笑いをしようと。美香を失うことを思えば、この状態に耐え、感情を秘めて接する方がはるかに楽なのだ。俺はただ、今までどおりに兄としての優しさを美香に与えていればいい。そうしていればきっと、美香と俺の間に出来てしまった溝も、時間が修復してくれるはずだ。
俺は美香の“兄”で、美香にとっての“男”じゃない。今日も自分にそう言い聞かせ、カーテンを開けると、朝の眩しい光に包まれた。こうしていると、邪な感情が少し和らいだような錯覚を得ることができるのだ。そうして気を良くした俺は、部屋の扉を開けた。
すると向かいの部屋から出てきたところだった美香とはち合わせた。俺を見た美香の表情が一瞬強張り、胸がきりきりと痛んだが、それでも俺は努めて優しい笑顔を作った。
「おはよう、美香」
「お、おはよ。……今日は、風邪の具合はどう?」
美香は俺と目を合わせずにそう言った。美香の正直なところはとても愛しいと思っているが、こんなときにはそれが痛い。もともと感情を隠すのは得意だから平静を装うことは難しいことではないが、辛いものは辛いのだ。そう思いながらも俺は笑顔を崩さずに言葉を返す。
「おかげで大分いいよ。色々迷惑掛けてごめんね」
「ううん。良くなってよかった……」
そう話す美香の声が弱々しかった。どうも美香の表情が、俺を避けようとしているだけではなく、辛そうに見える。美香は俺の看病に徹していたのだし、風邪をうつしてしまったのかもしれない。風邪をひいている時からそれが気がかりだったのだ。
もしかしたら美香は強がって隠しているだけで、本当は具合が悪いのだろうか。俺が避けられているなどと変に思いこみ、気づいてやれなかったが、最近おかしかったのは具合の悪さからだったのかもしれない。心配になった俺は、階段を降りようとしていた美香の腕をつかんだ。立ち止まった美香の小さな背中を気遣いながら、俺は声をかける。
「美香、どこか調子悪いの? 最近、元気ないけど」
「そ、そうかな? 別に普通だよ」
美香は俺に背を向けたままそう言って、それからおずおずと振り向いた。昔から、美香は病気をしても怪我をしても我慢して強がる癖がある。必死な笑顔で顔を逸らそうとする美香の目を、辛さを隠していないかと覗き込む。
「もしかして、俺の風邪がうつったんじゃないのか」
「別に何ともないよ。大丈夫、……何もないってば」
「そんなこと言って、また我慢してるんだろ。ほら、ちょっと熱を……」
熱があるか見るため美香の額に手を伸ばそうとすると、その瞬間、美香の目に恐怖の色が浮かんだ。
「っやめて!」
美香は怯えたように強く叫んで、俺の手を振り払った。
俯いてしまった美香の手が震えている。今起こった出来事が信じられず、俺は心に走った衝撃に言葉を失い、行き場を失くした手を仕方なく引っ込めた。
「ごめんなさい……」
呟くような美香の小さなその言葉が、心に突き刺さるようだった。何故なら美香は顔を上げようとしない。決して俺を見ようとしないのだ。やはり、ここ数日美香がおかしかったのは具合の悪さからなどではなかった。具合の悪さからだと思いたかったが、やはり俺への恐怖からだったのだ。
どうしようもないくらいの哀しみと同時に、やりきれなさにも似た凶暴な感情が湧きあがる。
俺はこんなにも美香を求めているというのに。この感情をどうしたらいいのか。
今、ここで美香を力任せに押さえつけて、泣きわめくだろうその唇を奪い、恐怖に震える躯を強引に抱いたとしたら、美香は俺のものになるだろうか。けれど浮かび上がってきたそのあまりにも自己中心的な思いをすぐに、俺は心の中で自ら打ち消した。
そんなことをしても美香の心は今以上に遠ざかり、もう二度とその純粋な瞳に俺を映すことはなくなるだろう。俺はそんなことを望んでいるのではない。ずっと昔から、俺が望むのはたったひとつ。兄としてではなく一人の男として、美香に俺だけのもので居て欲しい。笑顔を俺だけに向けていて欲しい。たったそれだけのことが、今の俺にはどんなものよりも遠い、手の届かない夢だった。
――それはやはり、俺が美香の“兄”だからなのだろうか。
「……具合悪くなったら、ちゃんと言えよ?」
少しの間を置き、俺は手を震わせながら立ち尽くす、愛しい“妹”にそう言った。“兄”としての優しさを与え続ける、さっき自分でそう決めたのだ。それがどんなに辛くても、苦しくても。“妹”としてでもいいから、繋ぎ止めたかった。そうまでしてでも、俺は美香を失いたくなかったのだ。
そのまま美香を残して階段を降りながら、それでも俺は未だ、美香に想いを馳せ続けていた。