9−1 美香
血のつながりという重たい鎖が、私は重荷だと思っていた。
けれど血のつながりがなかったら、“妹”でなかったならば、私は今のようにあの人のそばに居ることができただろうか。重荷だと思っていた鎖にすら縋り、そばに居たいと願うことは愚かだろうか。
あれから数日、看病を頑張った甲斐あって、お兄ちゃんの風邪はある程度治ったようだった。
その数日間、できる限り普通にお兄ちゃんに接したつもりだけれど、傷ついた心を隠すためには作り笑いで凌ぐしかなく。きっとお兄ちゃんにも、どこかおかしいと気付かれてしまっただろう。けれどどうすることもできなかったのだ。お兄ちゃんの風邪は治っても、お兄ちゃんの誰かへの想いを知ってしまった私の心の痛みは、治ることはなかった。
憂鬱な気持ちを奮い立たせて、私は今日もベットから出る。
カーテンを開けると、朝の光がさっと差し込んできて、ますます切ない気分になった。
今日もまた、一日が始まる――お兄ちゃんと過ごす一日が。一緒に住んでいるし、今は夏休みなのだから、自ずと一緒の時間は長くなり、いくら辛くても避けることすらできないのだ。
自分を叱咤して部屋から出ると、いつかのように、向かいの部屋からちょうど出てきたところだったお兄ちゃんとはち合わせてしまった。お兄ちゃんは私を見ると、いつものように優しい笑顔で挨拶してくれる。今はもう、誰かのものになってしまった大好きな笑顔。
「おはよう、美香」
「お、おはよ。……今日は、風邪の具合はどう?」
「おかげで大分いいよ。色々迷惑掛けてごめんね」
「ううん。良くなってよかった……」
お兄ちゃんの具合が良くなったことにほっとしながらも、私は力なくそう言った。やはり一緒に居ることが辛い私は、そのままお兄ちゃんに背を向け、階段を降りようとした。けれど、お兄ちゃんに腕をつかまれ阻まれてしまう。心の内で動揺する私に、お兄ちゃんが気遣うように口を開く。
「美香、どこか調子悪いの? 最近、元気ないけど」
「そ、そうかな? 別に普通だよ」
私は振り向かずにそれだけ言った。今の私には、目を合わせることも辛かったのだ。けれどお兄ちゃんは心配してくれているのだし、いつまでもそうしているわけにもいかないので、私は仕方なくお兄ちゃんを振り向いた。必死に笑顔を貼り付けて、お兄ちゃんから顔を逸らす。けれどお兄ちゃんは逃げる私の顔をわざわざ覗き込んできた。
「もしかして、俺の風邪がうつったんじゃないのか」
「別に何ともないよ。大丈夫、……何もないってば」
「そんなこと言って、また我慢してるんだろ。ほら、ちょっと熱を……」
お兄ちゃんの手が、私の額に当てようと伸ばされた。その瞬間、頭が真っ白になって、私は咄嗟に叫んでいた。
「っやめて!」
お兄ちゃんの手を、私は思い切り振り払った。
直後にはっとして、自分のしてしまったことへのショックに手が震えた。どうすることもできない私は、思わず俯く。お兄ちゃんの手が力なく引っ込められるのが目の端に見えたけれど、私は俯いたままお兄ちゃんの顔を見ることができなかった。
「ごめんなさい……」
呟くように小さく言った私のその言葉に、何の効果があるだろうか。
傷つけてしまった。お兄ちゃんはただ、心配してくれただけなのに。触れられたくなかった。触れられることで、お兄ちゃんの手を、温度を感じることで、お兄ちゃんへの気持ちをこれ以上自覚したくなかったのだ。これ以上は、私の心がもう耐えられない。
だから、私は自分を守ったのだ。お兄ちゃんの優しさを傷つけてまで、私は自分のことしか考えられなかった。なんて自己中心的で、愚かな妹。きっと血のつながりがなかったら、私はお兄ちゃんの近くに居ることすら許されないだろう。
あの時、お兄ちゃんの「ひみつ」に感づいてしまってから、顔は愛想笑いしていたけれど、心は哀しいと悲鳴を上げていた。ずっと一番そばにいたかった。お兄ちゃんは私だけのお兄ちゃんで居てほしかった。ただ、それだけだったのに。お兄ちゃんは誰かを想い、“妹”である私の願いは届かないのだ。
顔を上げることができないまま、私は込み上げてくる涙を堪えていた。今、自分勝手にお兄ちゃんを傷つけておいて、泣くことなんてできるはずがない。
「……具合悪くなったら、ちゃんと言えよ?」
少しの間を置いてお兄ちゃんから降ってきたのは、それでも優しい言葉だった。こんな私に、優しくなんてしなくていいのに。お兄ちゃんは何も言えない私を責めようともせず、先に階段を降りて行った。
その後ろ姿さえ愛おしすぎて、その場に立ち尽くすしかない私。――心が、壊れそうだった。