8−1 美香
「ひみつ」の感情。誰にも触れさせたことのないこの想いを、私はずっと大切に抱えてきた。
だからこそ、同じ色をした感情ならば見ぬけてしまう。――たとえそれが誰のものであっても。
あれから、丁度家にあった風邪薬をお兄ちゃんに飲ませ、お兄ちゃんの熱は少しずつ下がってきていた。
一度泣いて取り乱してしまったけれど、その後は、今はお兄ちゃんの風邪を治すのが先だと気を取り直して、お兄ちゃんのアイスノンを取り換えたり飲み物を持って行ってあげたり、熱を測ったりと、できる限りの看病はしたつもりだ。
お兄ちゃんは私が看病している間も、私にうつしてしまうことを心配し看病はしなくていいと言ったり、自分のことなんて二の次だった。気遣ってくれるのは嬉しいけれど、もっと自分の心配をしてほしい。
とにかく高熱の時お兄ちゃんは本当に辛そうにしていて見ている私まで辛かったから、良くなってきて本当によかった。とは言っても熱はまだまだ高く、起き上がるのもままならない状態で、油断はできない。
だからこそ、今私がこんなに困り果てているわけで。
お兄ちゃんはとてもお風呂に入れるような状態じゃないから、お湯の入った洗面器とタオルを持ってきたはいいけれど、背中くらい拭いてあげるべきなのかどうか私は迷っているのだ。どうでもいいことのようでも、今の私にとっては何よりも切実な問題だった。
お兄ちゃんはあんな状態だし、看病するなら必要なことだと思うけれど、それを私にできるのかが不安なのだ。背中を拭くということはお兄ちゃんは服を脱ぐということであるし、きっと死ぬほどドキドキするに決まっている。それにお兄ちゃんに世話を焼きすぎて煩わしいと思われてしまう可能性だってあるのだ。でもお兄ちゃんが辛い今、できることは何でもしてあげたい。
あれこれ考えてももう仕方がないと思った私は、一度背中を拭こうか声をかけてお兄ちゃんの反応を見てから決めようと思った。意を決して、私はお兄ちゃんの部屋の扉をノックする。
「お兄ちゃん、汗かいて気持ち悪いでしょ? タオルと着替え持ってきたよ」
「ああ、ごめん。ありがとう」
ベットの上でまだ辛そうに眉根を寄せて荒い呼吸をしていたお兄ちゃんは、それでも部屋に入ってきた私に顔を向け笑いかけてくれた。そんなお兄ちゃんの痛々しい姿に胸が痛み、何かしてあげたいと思った私は、持っているものをベットの棚に置いてから、お兄ちゃんに向かって自然に口を開いていた。
「背中、拭いてあげようか?」
私が言うと、お兄ちゃんは笑顔を消し、言葉に詰まったように沈黙してしまった。その反応を見て、やはり要らぬ世話だったかも知れないと、私の胸に後悔の念が生まれる。
「……じゃあお願いしようかな」
けれど意外にも、少しの間を置いてからお兄ちゃんの口から発されたのはそんな言葉だった。
だるそうにゆっくりと体を起こしたお兄ちゃんが上着を脱ぐと、細いけれど引き締まったたくましい体があらわになった。広い胸と肩幅、無駄のない筋肉のついた腕。お兄ちゃんは私のお兄ちゃんだけれど、その前に一人の“男の人”だということを思い知らされるようだった。
なんだか恥ずかしくて、まっすぐ見ることができない私は目のやり場に困ってしまった。対してお兄ちゃんは私に見られることなんか気にしないのか、平然とした顔で「じゃ、頼むよ」と私に背中を向けた。
兄妹なんだから、このくらいのことをいちいち意識する私がおかしいんだろう。そう思いながらも、お兄ちゃんの広い背中を見てまた意識してしまう。ベット際に膝をつき、震える手で洗面器から熱いタオルをしぼって、そっとお兄ちゃんの背中に当てた。たどたどしい動作で拭いていると、お兄ちゃんが少し困ったように口を開いた。
「もっと強く拭いていいよ。ちょっと……くすぐったい」
「あ、ごめんね……!」
慌ててタオルを持つ手に力を入れたら、震えて上手く動かなかった腕がすべって、前のめりになった私は思わず小さく叫んだ。タオルが落ちるのと同時に私はお兄ちゃんの背中に顔から倒れこみ、私の頬とお兄ちゃんの背中が直に触れた。
まるで後ろから抱きついたような格好だ。
お兄ちゃんの背中は熱があるせいかとても熱かった。お兄ちゃんの体温を直接感じてしまった私の心の中は、瞬く間にお兄ちゃんでいっぱいになった。愛しい人の背中に寄りかかり、トクン、トクンと満たされたように私の心臓が鼓動していた。
「美香? ……どうした?」
すぐに離れようとしない私を不思議に思ったのか、少し戸惑ったようなお兄ちゃんの声色。
お兄ちゃんが好き。お兄ちゃんが、好き。だからこそ、知りたいことがある。
この愛しい人は本当に誰かを想っているのか。それを知るのは怖かったけど、それでもどうしても知りたかった。
思い過ごしだと思いたかったのだ。お兄ちゃんが誰かを想う、そんなことは今まで考えもしなかった。今までお兄ちゃんに女の人の影が見えたことはあっても、お兄ちゃんはどこか冷めているようで、想っているといった様子はなかったから。
「お兄ちゃんは、好きな人とか、いるの……?」
ともすれば消え入りそうな声で、私はお兄ちゃんの背中に小さく問いかけた。
お兄ちゃんが身じろぎしたのを、背中から直接感じた。
「……いるよ。どうしようもなく、好きな奴が」
一呼吸を置いて返ってきたのは、押し殺したようなお兄ちゃんの切ない声。
「へ、へぇ。そうなんだ!」
私は必死に平静を装った声で、お兄ちゃんの背中にそれだけ言った。そうしてお兄ちゃんの背中から体を離す。近くに感じていたお兄ちゃんの温度が遠のいて、夏なのに冷たい空気にさらされた気持ちになった。
今、顔を見られなくて本当に良かった。私はひどくショックを受け、動揺していたのだ。だってお兄ちゃんの感情は決して私に向けられてはいなかった。お兄ちゃんはその心から溢れ出しそうな強い想いを抱えていながら、“妹”である私に対してはその欠片だって見せようとしない。
それは、お兄ちゃんが私を、あくまでただの“妹”としてその瞳に映しているだけだからなのだろう。
そんなことずっと昔からわかっていたことだった。報われないことなんて百も承知だった。
それなのに、こんなにも辛い。苦しくて苦しくて、助けてほしかった。こんな哀しみから私を救いだせるのはお兄ちゃんだけなのに。
お兄ちゃんは私だけのお兄ちゃんじゃない。お兄ちゃんは、お兄ちゃんの心は誰かのもの。そんな当り前なことを今さら思い知って、悲しくてどうしようもなかった。お兄ちゃんの想いを一身に受ける、見知らぬその誰かが羨ましくて、自分が惨めで仕方ない。
お兄ちゃんの心の中に秘められている感情は、私の「ひみつ」に似ている。
似ているからこそ、わかる。それがどんなに深くて強力な想いなのか。
ひどく泣きたくなってしまったけれど、今だけは決して涙を見せるわけにはいかなかった。その涙の理由は、絶対に知られてはいけない、私の隠すべきあの感情につながっているから。
私はその後のお兄ちゃんとのやり取りをすべて作り笑いで凌いでから、手早く看病を済ませ逃げだすようにお兄ちゃんの部屋を出た。――ひとり、密やかに涙を流すために。