7−2 達也
いつからだっただろう。美香を、妹だなんて思えなくなったのは。
あれは、まだ俺が中学生になったばかりで、美香もまだ小学生だった時だ。
偶然親の話を聞いてしまい、美香と血のつながりがないと知ったことで、美香に上手く接することができなくなってしまった時期があった。
美香は小さいころから俺によく懐いていて、いつも俺の後をついてきていた。
先に生まれた“兄”として。俺は美香に何でも教えてやった。いつも美香に優しくあろうとした。美香が可愛くて仕方なかった俺は、それまで一度も美香を怒ったり怒鳴ったりしたことなんてなかった。
けれどあの時は、美香と本当の兄妹ではないという事実を前に、ショックと、またそれとは別のよくわからない感情への戸惑いがあり、俺はどうしていいのかわからなくなっていた。あの時きっとすでに俺は、自分の中の、美香へ向いた不可解で信じたくない感情に気づき始めていたんだろう。
美香に対して冷静な気持ちを持つことも、優しくすることもできなかった。
それなのに、あれは美香の俺への信頼だったのか。何も知らない美香は、冷たくされても変わらず、俺に無垢な笑顔を向けていた。しかしそれが当時の俺にとっては、余計に腹立たしいものだったのだ。
事実を知って数カ月、とうとう感情を抑え平静を装うことの限界に来た俺は、いつものように俺の後をついてこようとする美香に、あらゆる感情を一気にぶつけた。
「やめろよ! もう、ついてくんな!」
美香に対して放たれたその言葉には、苛立ち、焦燥感、自己嫌悪――そんな醜い感情が込められていた。
そうして、俺は心に巣食うように溜まっていたもやを吐き出して、すっきりしたはずだった。しかし俺の心に走ったのは、胸を裂かれたような鋭い痛みだった。びくりと肩を震わせた美香は、涙を流しながら、か細く消えてしまいそうな声でごめんなさいを繰り返したのだ。
何の罪もない美香に、自分のことばかりを考えて八つ当たりしたのは俺だった。そんな最低な兄の言葉にも健気に傷ついて涙を流す、まっさらな美香を前に、俺は心の中の不可解な気持ちの正体を、その時初めて認識したのだ。
こんな顔をさせたくない、泣かせたくない、と。それは美香への自分の想いを自覚すると同時に、兄として接し、兄として妹の笑顔を守らなければならないということを思い知らされた瞬間だった。
許されない想い、そんなことはわかっていた。それでももう、一度自覚してしまったら、この感情を消すことなどできるはずもなく。俺は、それを密やかに守っていくことを決めたのだ。
そう――……
「――ひみつの恋、だね」
ふと背後からの声を聞いて、暗闇の中、俺は後ろを振り返った。
その言葉を含みのある言い方でそう言って、笑みを浮かべたのは、教え子の夏木のはずだった。
だが今俺の前で微笑んでいるのは、愛しい女でもあり、妹でもある美香だった。
これは夢だと、そこでやっとわかった。どうしてだろう、最近、美香の夢を見てばかりだ。否、これは夢と言えるのか。場面は飛び飛びで、順序も秩序もないよくわからない世界だ。熱に浮かされている所為だと、自分でもそれだけはわかった。
ふとその時、頬に暖かい水滴を感じて、俺はゆるゆると目を開けた。――いや、おかしい。今までも目を開けていたはずだ。まぶしい光に目がくらんで、その後俺の視界に入ってきたのは、今しがた俺に微笑みかけていた美香の姿だった。
「ん……、美香?」
名前を呼んだのは、先程とは違い美香の目から大粒の涙が流れていたからだ。
ぼんやりとした頭では、夢と現実の区別がつかない。それでも、例えこれが夢だとしても。今、目の前に居る愛しい妹の涙を止めてやらねばならないと、俺はまどろむ意識下でただ強くそれだけを思っていた。
それは、“兄”としての思いなのか。それとも、ひとりの“男”としての“想い”なのか。
自分にもどちらかわからなかったが、泣かせたくないと思うのと同時に、その泣き顔があまりにも愛しくて、出来るならば強く抱き締めてしまいたいと思っている自分が居るのは確かだった。
「お、兄ちゃん」
美香の震える声と共に、幾筋も流れおちる雫。俺は手をのばして美香の頬にあて、親指で涙を何度もぬぐってやった。
大切な宝物に触れるように。俺の邪な感情で美香を求め、壊してしまわないように。
泣いている美香を前に、心の中の美香への愛しさという感情を思い出せば、自分を抑えることなど簡単なことだった。
妹を守る、兄という立場での愛情も、俺は忘れ去ってはいないのだから。
「泣いてるの?」
「泣いてない、泣いて、ないよ……」
俺の言葉を、美香は必死になって涙をこらえながら健気に否定している。昔から何一つ変わっていない、まっさらな美香。
いつか、俺の色に染めてしまいたいと思うのは、傲慢な願いだろうか。
それでも今はただ、俺の持っているすべてで美香を守ってやりたいと思った。俺の美香への感情は一通りではなく、だが俺のすべての感情は美香一人に向けられている。ずっと昔から、そして今も。どうして美香でなければならないのか、自分にもよくわからなかった。
「……泣くなよ。大丈夫だから」
俺は体を起こし、子供のように泣き出した美香の頭をよしよしと撫でてやった。
そうしながらも、美香が小さな頃もこんな風に撫でてやっていたことを思い出し、俺の心に満ち足りた優しさのような感情が湧き出していた。