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「ひみつ」  作者: 名無し
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7−1 美香

 大好きな人のそばにいられること、それはとても幸せなことだと思う。でもそれが逆に辛いことだってある。



 台所まで来た私は、まず体温計とタオルを棚から出してきて、アイスノンを冷凍庫から取り出す。それからコップにミネラルウォーターを注いだ。あとは、できるだけ栄養を取らないといけない。


 おかゆでも作ってあげられたらいいのだけれど、情けないことに料理下手の私が作ったら時間がかかりすぎるし、上手く作れるかもわからない。何か風邪の人でも食べやすい丁度いいものはないかと探していたら、棚の上にあるリンゴが目に入った。


 リンゴをすりおろしてあげれば、お兄ちゃんも食べられるかもしれないと思い、リンゴを手に取った瞬間。

 不意に、以前の台所での記憶がよみがえる。私の怪我した指に、優しく、まるでキスするように触れた、お兄ちゃんの唇。床に落ちたリンゴ。いつもとどこか違った光を宿した、吸い込まれそうなお兄ちゃんの瞳。


 かっと顔に血が上って、どうしようもなくなった。今はお兄ちゃんが大変な時だ。そんな場合じゃないのはわかっていたけれど、気をそらそうと思えば思うほど、思考は更にその方向へ向かってしまう。


 だって夢だなんて思えなかった。お兄ちゃんの部屋で眠った時の、夢。静かに近づいてきた彼の瞳、吐息が触れ合うほどの距離感。息苦しくなるほどの鼓動と愛しさ。


 ――唇を重ねたときの、リアルに伝わってきたお兄ちゃんの温度と、忘れられないその感覚。


 鮮明に思い出してしまった私は、思わず以前のように手の中のリンゴを取り落としそうになった。邪な考えを振り切るように、リンゴを半ば乱暴に棚に戻してから、必要なものだけを持って私は台所を出た。


 お兄ちゃんの部屋まで戻ってきた私は、持ってきたものをベットに備え付けてある棚に置いて、ベット際に座った。まずはタオルでくるんだアイスノンをお兄ちゃんの額に乗せる。 

 

「お兄ちゃん、飲むもの持ってきたよ。飲める?」


 声をかけてみたけど、お兄ちゃんの反応はない。熟睡しているみたいだった。

 苦しそうに呼吸しているお兄ちゃんの額から、つとひとすじの汗が流れ落ちた。その姿に、私の「ひみつ」の感情を辛うじて抑えている理性が、どこかに行ってしまいそうになる。


 短い間隔で呼気を吐き出しているその唇に、触れたい、と思った。


 私のせいでお兄ちゃんは風邪をひいたっていうのに、熱で浮かされ眠っているお兄ちゃんを見ながら、私はなんてことを考えているんだろう。でも、風邪は人に移すと治るものだと聞いたことがある。お兄ちゃんのために、治してあげるために。


 ……違う。そんなのはただの言い訳だ。私は、確かめたいんだ。この愛しい人とのキスの感覚。あの夢は本当に夢だったのか。

 恐る恐る顔を近づけると、お兄ちゃんの熱い吐息を唇に感じて、私はこのまま心臓が速く打ちすぎて死んでしまうんじゃないだろうか、と思った。


 お兄ちゃんが愛しすぎて、胸が壊れそうでどうしようもなかった。

 心の中を支配するそんな感情を持て余しながら、ついに唇が触れ合おうとした、その瞬間。


 ――俺の前から、消えてくれないか。


 頭の中にお兄ちゃんの氷のような声が響き渡って、私ははっと目を見開いて動きを止めた。

 いつか見た夢。私が一番恐れている、夢。


 お兄ちゃんが好き。お兄ちゃんが愛しい。でも、そんな想いを持ってお兄ちゃんに触れることが怖かった。

 雷の夜、眠るお兄ちゃんの髪を撫でたときも、今も。私の心を縛り付けているのは、「血のつながり」という、どうやっても抗えない重たい鎖だった。


 少し寝苦しそうに眉根を寄せている端整なお兄ちゃんの寝顔を直視できなくて、私は近づきすぎていた顔を離した。


 何を思い上がっていたのだろう。お兄ちゃんが私にキスなんかするわけない。兄妹なのに。報われない想いなのに。

 わかっていたけれど、どうしても夢を現実にしたかった。だって私はこんなにも、この人を求めている。


 大好きな人のそばにいられることは、とても幸せなことだと思う。でも“妹”として“お兄ちゃん”のそばにいることが、どんなに辛いことなのか思い知らされた。私はこれからも、ただの妹としてそばにいることしか許されないのだ。


 私たちは兄妹だ。お兄ちゃんの心の奥にある、隠された感情の向かう先は、私じゃない。夢は、現実にならない。


 達也と名前で呼びたがっているのは、自分が妹なんだと認めたくなかったから。でもいくら足掻いてみても、結局は私が妹だという事実を変えることなんてできない。私の目からこぼれおちた涙が、眠るお兄ちゃんの頬を濡らした。


 私の想いに気づいてほしい。でも、気づかないで。


「ん……、美香?」

「お、兄ちゃん」


 眠りから解放され薄く目を開けたお兄ちゃんが、少しぼんやりとした様子で私の名前を呼んだ。

 上手く言葉を発することができなくて、返した私の声は震えていた。お兄ちゃんはその手をのばして私の頬にそっと触れ、親指で私の涙をぬぐってくれた。お兄ちゃんの瞳は、いたわるような優しい光を宿して私を包んでいる。


「泣いてるの?」

「泣いてない、泣いて、ないよ……」


 お兄ちゃんの言葉に対し必死に否定の言葉を並べながら、自分でも何を言っているんだろうと思った。そんなことを言ったって、見れば泣いていることなんて一目瞭然なのに。でも風邪で寝込んでいるお兄ちゃんに余計な心配をかけたくなかった。

 こんな背徳的な感情が流す涙は、お兄ちゃんを汚してしまうような気がして、これ以上泣いたら駄目だと自分に言い聞かせる。


「……泣くなよ。大丈夫だから」

 

 けれどあまりに優しい声でお兄ちゃんがそんなことを言うから、よけいに涙が溢れて止まらなくなった。こんな優しさをくれるのも、きっと私が妹だから。そう考えるとたまらなく悲しかった。


 嗚咽まで漏らして泣きじゃくる情けない私に呆れることもせず、お兄ちゃんは辛いはずの体を起こして、小さい子によしよしをするように私の頭をなでてくれた。風邪で不安なお兄ちゃんを私が優しく看病してあげるはずだったのに、これじゃまるで立場が逆だ。


 お兄ちゃんはその後もしばらく、ゆるく微笑んだまま私の頭をなで続けてくれていた。


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