第三話〈暴露、昔々のことじゃった〉-1-
第三話〈暴露、昔々のことじゃった〉
最近タクの様子がおかしい。
思えばそれは、美貴理たちとコンビニでおつかいをしてからだった。
美貴理の社会復帰への指導こそ普段通りにおこなっているが、そのときと就寝時を除けば、彼はほとんど佐無柄家には帰っていない――どこかに外出しているのだ。
もちろん今日も例外ではない。現在、この家にいるのは美貴理だけだ。
タクがどこで、なにをしているのか。それはわからない。
彼になにがあったのか?
美貴理は部屋に籠り、じっと考え込んでいた。
「あいつ……どうしちゃったんだよ」
彼女はひとりぼっちの自室、ベッドの上でぽつりと呟く。
面長な輪郭の内側で、眠たげな瞳が印象的だ。まぶたと平行に垂れ下がった眉がそれをさらに強調している。
鼻筋もスラリと伸びていて、肌は大和撫子の色。
充分美形と呼べる容姿だが、首から下がいけない。上下揃って、中学の校章が刺繍された、臙脂色のジャージ。そして裸足。
いわゆる“ダサい”服装が、彼女の外見的長所をすっかり隠していた。まさに残念至極である。
タクが不審な行動を始めてから三日間が経過した。
可能な限り彼を観察して、動機の推理もした。尾行は外出が面倒なのでできなかった。
それでも、確信に至る答えは未だ現れない。
手がかりはただひとつ。
「ウサミミ」
そう。コンビニへの道中で美貴理の目に止まり、タクを誘ったあのウサギの耳。
あれこそがタクを惑わす元凶だと美貴理は推理していた。それが真実である根拠などなにもないが、怪しい線は他にない。
しかし関係性は見えない……
迷宮入りの泥沼に片足が浸ったとき、美貴理はあることに思い至った。
――あたしはなにをしている?
それは自身の思考への疑問だった。
美貴理がタクのことで頭を痛める必要はあるのか? タクの行動理由について真実を知ってどうするというのだ?
……すべて忘れよう。
諦めの境地へと美貴理が到達した直後、鼓膜が振動を感じ取った。
軋んだ玄関扉の開く音。
大粒の雨音。
彼女が思考を中断した途端に、世界に音が満ちた。いや、聴覚を思い出した、という方が的確か。
それにしても、と美貴理は時計を視界の隅に入れた。
机の上のデジタル時計が示すのは午前六時十五分。こんな悪天候の早朝に、誰が訪ねてきたというのか。
いや、違う。
来客なんかじゃない。
この家の鍵を持つ人間は佐無柄家の者と、あとひとり。
「タク⁉」
美貴理は部屋を飛び出した。
階段を三段飛ばしで駆け降りたその先には――
ずぶ濡れになって孤独に佇むマントの男がいた。
恐らく急な豪雨に見舞われたのだろう。走って帰ってきたのか、荒々しく肩で呼吸をしていた。
端正な顔立ちの青年だ。しかし、その表情には憂いが読み取れた。
トレードマークである燃え盛る炎を連想させるマントも、雨に濡れて肩に張りつき、その迫力が鎮火している。
なにより今の彼には、全身を覆っていた覇気がない。
どこか弱々しい、儚げな視線は美貴理を捉えていなかった。まるで違う世界を見ているかのような、そんな遠い視線をしていた。
彼が虚ろな瞳のままで囁くように言った。
「悪いがタオルをもらえるか」
「あ、うん」
洗面所の棚からバスタオルを取り出して投げ渡す。
タクは頭から念入りに身体中を拭く。しかし、靴を脱いで廊下に上がる気配はない。
「濡れててもいいから、とにかく入りなよ。風邪ひくぞ」
忠告とともに手招くが、
「いや、傘を借りたらまたすぐに出かけるから」
我が身を顧みることなど頭にないのか、まるで取りつく島もない返事がよこされた。
そして彼は、靴箱の横に並置されたビニール傘を一本手に取って、美貴理に背を向けた――
「待て!」
その動きを中断させたのは美貴理だった。
タクの腕を掴んで強引に宅内まで引き揚げる。彼はすっかり脱力していたので、さして苦労はしなかった。
「なんだ?」
タクがまったく理解できない、といった顔で美貴理を見上げる。
今の彼は盲目だ。
一点だけを見つめるあまり、周囲の状況なんて露ほども見えていない。まるでひたすらゴールを目指す長距離走の選手のように。
しかし正直に言って、美貴理も似たようなものだ。彼を呼び止めてどう説得するかなんて考えていなかった。
だからそれは咄嗟の判断だった。なんの捻りもない適当な台詞。
「話があるから、来い」
念入りに水気を払ってからタクを美貴理の部屋に招き入れる。
パソコン、机、テレビ、ベッド。本棚にうず高く積まれた漫画には埃除けの白いカバーが被さっている。
生活感の薄い、色彩に乏しい部屋だ。
お互いに口を開かない。少なくとも美貴理はなにを話すべきか思いつかないのだ。
「どうした? 俺も忙しいんだ。特に用がないなら行くぞ」
現状に意味を見出せなかったのだろう。言ってタクは腰を上げる。
「ちょ、ちょっと待てよ」
それを美貴理が慌てて引き止める。
考えあぐねても最良の結果など訪れない。そんな気がしたので、とにかく彼女は素直かつ単刀直入に尋ねようと決めた。
「アンタはなにをしているの?」
質問の意図を計りかねたのか、タクは黙って小首を傾げた。
「えっと、つまり……。毎日どこかに出かけて、なにをしてるのかなー……と」
しどろもどろで説明をする美貴理。
自分でも、それを聞いてどうするのか、という疑問が芽生えてしまったのだ。
「お前には関係ないだろう」
案の定、タクはぶっきらぼうに答えた。確かに、彼がそれを教えてくれる義理も道理もない。
しかし……
美貴理も単なる知的好奇心からで尋ねてなどいない。
なんとなく、タクが苦痛に耐えているように見えたのだ。
自分で自分を追い詰めて、それでも歩みを決して止めない。たとえ、既にその身体が満身創痍であろうとも。
だから美貴理はタクを救いたい。それが彼女のエゴであると、わかっていても気持ちは変わらない。
それに、
「関係あるよ」
彼らは他人ではない。むしろそれなりに仲良く共生していると、美貴理は断言できた。
今さら無関係を主張されるなんてご免だと、本心から思っている。
「関係ない」
しかしタクも強情だ。頑として口を割ろうとしない。
彼の反応には、覚えがあった。
ふたりが初めて出会った日。美貴理がタクにハロワマンになった理由を尋ねたときだ。
あのときも彼は深くを語ろうとはしなかった。
ただ「約束」とだけ。
同じ理由から彼が話すことを渋るなら、それはつまり――
「アンタの過去になにかあったの?」
明らかに、タクの表情が変化した。
目を見開いて、口をさらに引き結ぶ。冷や汗が顎まで伝う。
図星を突かれた顔だ。
「知らない!」
焦燥で声を荒らげるタク。それこそまさしく虚言の決定的な証拠だというのに。
ここまでわかれば充分だ。
美貴理は目立たないように舌舐めずりした。
実を言えば、美貴理には秘策があった。というか、彼女もたった今思いついたようだ。
天秤が美貴理に傾いたこの瞬間だからこそ意味を成す切り札。
あとは乾坤一擲、一か八かの大博打だ。
「タク、あたしと勝負しろ」
「……なに?」
「あたしが勝ったら、アンタの過去を残らず暴露してもらう。それはもう、重要な話題からまったく関係ない恥ずかしいエピソードまで、全部だ。その代わり、あたしが負けたらこの話は終わり。一生蒸し返さないって約束する。どうよ?」
途中で反論を与える間もなく言い切った。
美貴理の自信の源泉は、過去の記憶にあった。
以前は彼から勝負を持ちかけてきた。そのときはレースゲームで美貴理が玉砕された。
その際のタクの態度。まっすぐな眼差し。鮮明に覚えている。
「あのとき言ったよな。相容れないなら戦うしかないって」
そして聞いたタクの熱弁。
彼が勝負に対して、いかに並々ならぬ熱意と信仰を捧げていたか。
だからこそ、彼は決して勝負から逃げない。
それが美貴理の切り札だ。
そこまで言って、無意識のうちに至近距離で挑発していたことに気づいた。美貴理は慌てて身を引く。
「さあ、どうする?」
唇の端を吊り上げてタクを見下す。高慢かつ、傲慢。
「受けて立つ」
即答だった。
議論するまでもなく、勝負の方法は以前と同じレースゲームに決定した。それを提案したのは美貴理だった。
以前は罵倒し合いながらも、思い起こせば和気藹々と楽しんでいたように感じる。
それがゲーム本来の遊び方だ。
しかし、格調が違うと形容するべきか、今の彼らは真剣そのものだった。鬼気迫るふたりの面持ちは、どこか病的でもある。
相容れない、と美貴理は言った。
言いながらも美貴理はタクの、タクは美貴理の行動理念を理解していない。いや、恐らく理解できるとも思っていないだろう。それほどまでに彼らの信念は強く固かった。
つまりこれは、エゴとエゴの衝突だ。
美貴理は最初からそれに気づいていた。
こんなことをしても、タクの迷惑になるだけ。
――わかってるよ!
それでも美貴理は、助けたいと思った。
彼の意志こそが彼を押し潰そうとするならば、それを否定するまでだ。救うことは美貴理のエゴ、そこに相手の都合は介入しない。
自分も変わってしまったな。美貴理は自嘲する。
他人のために行動しようなど、ニートになってからは一度として思ったことはない。そもそも他人との関わりなんてなかった。
それを捻じ曲げたものはなにかと問われれば、間違いなくタクだ。
だからこそ美貴理は、声に出さずに叫ぶ。
――余計なお世話だ、ちくしょう‼
要約すると、お互いさまだということだ。
そして、勝敗は決した。
無言のまま時間が過ぎていく。
誰も、なにも言わない。
ゲームはすでに電源が抜かれ、役目を終えていた。
雨音だけがBGMとなり、敗者の背中に哀愁を醸す。
いずこからか溜め息が漏れた。それは静寂の中で居場所をなくし、すぐに霧散した。
どれだけの間、ときが流れたのか。
ついに物語は進行を再開した。
「ざまあみろ」
勝者が――美貴理が立ち上がった。
タクは俯いたまま動かない。
美貴理は急かすように彼の背中へと――回し蹴り!
「ぐおう!」
バンザイの格好でうつ伏せに倒れるタク。
すぐさま起き上がり美貴理の顔を見上げる。文句を浴びせようとするが、ぱくぱくと口が上下するだけで声が出ない。あまりの急展開に落ち着きがブロークンしていたのだ。
「な、な、な……」
その続きが出てこない。
声が出ないタクを美貴理は律儀に待つ。
「なにをしやがる!」
「おー、ちゃんと言えた。パチパチパチ」
美貴理は口で拍手した。なんと挑発的、なんと腹立たしい笑顔。
「晴れてあたしが快勝したことだし、シリアスな雰囲気は終了! やっぱりああいうの駄目だわ。息苦しくて保たないよ」
「な……」
その台詞を聞き届けて、タクは苦笑した。
「まったく……敵わないな」
彼の瞳の憂いは、消え去ったとは言えないまでも、だいぶ薄れていた。代わりに宿していたのは、爽快の色。
美貴理はタクに手を差し伸べた。
タクはその手を握って立ち上がる。
「見たか、あたしの実力」
「拝見いたしましたよ」
なんでもない軽口。
それがずいぶん久しぶりのような気がして、美貴理はたまらなく嬉しくなった。きっとタクも同じことを考えているに違いない。
「でもなんで俺は負けた? このゲームでおまえが勝つなんて初めてじゃないか?」
心底不思議そうに尋ねるタク。
明確な質問の答えなど持ち合わせていなかったが、美貴理は自分が勝つことを確信していた。
なぜならば、
「さっきまでのアンタには、負ける気がしなかったんだ」
そういうことだ。
心のどこかでタクは誰かの救いを求めていたのだろう。
美貴理は直感でそれを悟っていた。
「教えてくれ。アンタの過去について」
救済なんて立派なことができるとは思っていない。
しかし彼が美貴理を求めたのならば、それに応えよう。そのことこそが、彼女の意志なのだから。
美貴理の微笑みには神々しさなんてまったくなく。
ただかわいらしい笑顔だった。