第二話〈冒険、はじめてのおつかい〉-2-
どうでもいいことで時間を食ってしまった。
美貴理が彼女を呼んだ理由を忘れてはいけない。
「とにかく行こうか」
「ちょっと待て。なあ、成佳さん。出かける前に美貴理の格好はなんとかするべきだと思わないか」
タクは――自分には危害がないだろうと判断したのか――成佳に気軽に話しかけた。
「え? ミキってば、これで外出するつもりだったんですか?」
「むしろいつもこんな感じだけど。なにか問題ある?」
腕を広げて自分の服装を示す美貴理。成佳は驚きの表情を見せ、そして頭を抱えた。
「……タクさん。ちょっとミキをお借りしてよろしいでしょうか?」
そう訊く成佳の腕は、しっかりと美貴理の肩を捕えていた。
「おっと。待ってくれ。その前に――」
「ん?」
タクが彼女を手で制した。美貴理は首を傾げる。
彼は美貴理の肩を引き寄せ、小声で耳打ちしてきた。
「――なあ、なんで彼女は、あんなに早くこの家に着いたんだ?」
「なんだ、そんなことか」
美貴理は拍子抜けしたように言った。
「今はもう平気だけど、セーカのやつ、怒ってたからさ」
「はぁ?」
まるで説明になっていない。しかし、もう美貴理からの追伸はないようだ。
「あいつがとんでもないやつってことだよ」
実際には、質問の答えは美貴理にもわからない。ただ、成佳ならものすごい勢いで走ってきたのだとしても不思議ではない。
成佳はそういう人種である。つまりはそういうことだ。
「諦めろ。今のアンタにはわからん」
ぽん、と軽く彼の背中を叩く。返事はなかった。
そして、今度は成佳に捕まった美貴理だが――
美貴理の部屋にて。
「セーカまで、いったいどうしたの?」
「どうしたもこうしたもあるか! お前、いつもそんな服であの人と同棲してやがるのか⁉」
「――げふぉっ!」
美貴理は激しくむせた。
耳まで顔を真っ赤に染めて叫ぶ。
「どおぉお……同棲って言うな!」
「そんなことはどうでもいいんだよ! いつもそのジャージで生活してるのかって訊いてんだ!」
美貴理の身体を指差して怒鳴る成佳。タクとの初対面で身に着けていた、高校時代のジャージだ。全身が濃紺。
「そんなわけないだろ!」
意外にも、美貴理はそれに、心外だという風に声を荒らげた。拳を固く握り締める。
「中学のジャージもよく着てるよ!」
「変わらねえ!」
しかし結局、そんなくだらない屁理屈だった。
成佳は溜息ひとつ、美貴理に顔を近づけてゆっくりと言った。まるで子どもに常識を諭すように。
「いいか? お洒落っていうのは大事なことなんだ。自分を取り巻く世界が変わるといっても過言ではない。そう、お洒落にして損をするなんてことは、なにひとつないんだからな」
話を聞き流しながら、美貴理は成佳の服装を眺めた。近距離なので目を眇めている。
白いブラウスに、膝丈のベージュのスカート。飾り気がないが、それが彼女の清楚な外面をよく強調している。我が儘ボディな胸元のラインにもうまく合わさった服装だった。
しかし美貴理の感想は、
「……動きにくそうだな」
頭をはたかれた。
「そういう話じゃねえから! ていうかそんなイモ臭いジャージと比べられても困るわ!」
「なんだとう⁉ ジャージを馬鹿にすんな! そんな他人を騙すような格好しやがって!」
成佳は自分の胸に拳を置き、美貴理は両方の指先で肩をつまんで怒鳴り合った。おおよそ男の口喧嘩のように、口汚く罵る。
結局その喧嘩は、異変に気づいた別室のタクが駆けつけるまで続いた。
★
「というわけで、ミキをコーディネイトしてみました」
タクを今一度追い出した成佳は、美貴理の服を着せ替えた。反抗していた美貴理だったが、世間で自分の存在が浮くことのデメリットをこと細かに説明されると、震え上がって着替えを承諾した。どうやらあることないこと言われたようだ。半年を超える屋内での生活は、彼女の真偽の判断を鈍らせた。
成佳がじゃーん、と口で言いながら美貴理の部屋の扉を開ける。
そこから現れたのは――
「見るなあぁ!」
ワインレッドのワンピースドレスに身を包んだ美貴理だった。
「は……?」
思わず呆けるタク。そこから感情は読み取れないが、少なくとも美貴理の“ファッション”に瞳が釘づけである。
「だから見るな馬鹿!」
その視線は美貴理の羞恥心をさらに煽った。顔色をドレスの保護色へと変化させていく。両腕を挺してなだらかな肢体を隠す。
まるで派手好きな貴婦人のドレスであった。家の中なので裸足ではあるが。
しかし着目するべきはその露出度。
鎖骨を強調するように肩口は大きく開かれている。腰から下の丈は信じられないほど短く、そよ風のイタズラでほっそりした太ももの奥が易々とチェケラッチョしてしまいそうなほどだ。
「ちょっとコンビニ行ってくるわ」の服装では断じてない。どちらかといえばパーティの来賓といった風情だ。
ついに美貴理はへたりこんでしまう。自然と涙目の、上目遣いになる。
「……えーっと」
意図せず顔をそむけたのは成佳だった。
彼女自身、ここまで狙ったようないじらしい演出になるとは思っていなかったのだろう。当然、真面目にコーディネイトしたとも思えないが。
しかし興味が勝ってちらりと視線を向けてしまう。こんな美貴理の姿は、そうそうお目にかかれないのだ。
「見るなよぅ……」
恥ずかしげに身をくねらせる美貴理。
さすがに朴念仁のタクも頬が上気した。
「成佳さん、これはちょっと――」
言おうとして、停止。
成佳が心底楽しそうな、愉しそうな表情をしていた。まさに悪女。
「ミキ、それで出かけろ」
「ちょっ! それは待……」
「出かけろ」
大気が凍りつくような冷たい声音。
背筋に怖気を感じたのは美貴理だけでなく、タクも同様だった。
★
「外怖い……外怖い……」
というわけで。コンビニへの旅路についた一行だが。
状況は、羞恥と恐怖ですっかり萎縮してしまった美貴理を、残るふたりが半ば無理やり歩かせるという風になっていた。
首を振っていやいやをする美貴理は小さな子どものようだ。そのエロティックな服装を除いて。
「やー! 家にかーえーる!」
「我慢しなさい! もう大人でしょうが!」
彼らが知り合い(……親子?)らしい会話をしていなければ、とっくに通報されていたところだ。
それでも好奇の視線が向けられることに変わりはない。タクは居心地の悪さを感じていた。
初秋の肌寒い風が吹く。美貴理のドレスの裾がはためく。見えそうで見えない。一層強まる周囲の視線に、しかし彼女は気づかない。
季節感を無視して手足を思いきり露出しているので、そこも含めて滑稽な情景なのだが、彼女に自覚はないようだ。
そのとき、
「狂犬!」
美貴理の絶叫が、団地の閑散とした空気を切り裂いた!
なにごとかと振り向くとそこには。
柵の向こうでキャンキャン吠える子犬と、それに相対して尻餅をついている美貴理の姿。そしてスカートの中身が――
「うおおぉぉぉぉ!」
真っ先に動いたのはタクだった。
彼は猛スピードで美貴理の腕を掴んで立ち上がらせた。そして前後左右を確認する。隣では成佳が目からビームを発しそうな眼光で周囲を威嚇していた。
幸い、有象無象からは、ふたりの陰に隠れて美貴理の醜態(そしてパンツ!)は捕捉することができなかったようだ。すべてタクの超反応の功績である。
しかし、その反応速度も相まって、美貴理の下着はタクの海馬に鮮明に刻み込まれた。
「お助けー!」
彼らの防衛戦などそっちのけで子犬に怯え錯乱している美貴理。
助けを求めた彼女は、無我夢中でタクを抱き締めた。
「「おぉ!」」
観衆と、そして成佳までもがどよめく。
「……や、やめないか」
微妙に視線を逸らしながら、彼女を引き剥がす。
そこで、ようやく美貴理は我に返った。これまでの行動を次々に思い出していく。顔中を朱に染めていく。
「うあー!」
「がっ」
そしてタクを殴る。
彼女の拳はタクの頬にクリーンヒット。タクは背中からコンクリートにダイブした。
スローモーションで考察したいほど、綺麗なパンチだった。
美貴理の息は荒い。
タクは起き上がれない。
そそくさと逃げていく野次馬たち。
そんな惨状で、ただひとり。
清井成佳だけが、現状を心根から楽しむようにニヤついていた。
タクは記憶を失っていた。
美貴理が転んでから、自身が殴られるまで。
検討の末、美貴理と成佳はそれについて触れないことに決めた。
厳密に言えば、成佳は白状するべきだと熱弁を振るったが、美貴理が自殺しかねないほど後悔していたため、さすがに諦めたのだ。
なんにせよ、美貴理としては結果オーライである。
「ところでさ」
三人で並んで歩く道すがら、成佳がふと口を開いた。
なんとか平静を取り戻した美貴理が、それに耳を傾ける。
「あたしを家に呼んだでしょ?」
「それが?」
「そのときにコーヒー頼めばよかったじゃない」
「…………」
「…………」
一瞬。
時間が止まった。
そして、
「一生許さない」
美貴理は恐ろしい剣幕で成佳を睨みつけた。
「なんでだよ! 自分のうっかりじゃねえか!」
「酷いよ! 酷いよセーカ! 最初から言えよクソメガネが!」
「八つ当たりか!」
歩道のど真ん中で言い争う。迷惑極まりない行為だ。
「ちょっとタクもなんとか言えよ! この馬鹿のせいで――」
加勢を求めて美貴理が振り向くと、
「ん?」
タクは菩薩のように穏やかな表情でそちらを見た。
ただひたすらに爽快な笑顔。
――こいつ、初めっから気づいていやがった!
瞬時に美貴理はそのことを理解した。
そもそも美貴理が外に出ることを望んだのはタクだ。きっと彼は、成佳を呼ぶという美貴理の間抜けな言動を、心の内で嘲っていたに違いない。
「ちくしょう!」
やり場のない悔しさに、美貴理は地面を蹴る。
「……お?」
そのとき、美貴理の視界の端に、妙な物体が映った。
……ウサミミ?
すぐ先の十字路の右側に、塀の上からウサギの耳がぴょこぴょこと跳ねていたのだ。
本物か、作り物か。この距離からでは判別がつかない。
しかし、塀よりも背の高いウサギなんて存在するだろうか。いや、いるはずがない。
では、あれはなにか。
彼女が疑問に感じたとき。
「……っておい!」
既にタクは走り出していた。
正面に視線を戻すと、タクの姿はない。
――きっとあのウサギの耳を追いかけたんだ。
美貴理は推測し、右に曲がって疾走。
状況が呑み込めないまでも、成佳もそれに倣って美貴理の後について走った。
あとはまっすぐに、ただ駆ける。
当初の目的地とは異なるコンビニを通り過ぎ、ようやくタクを見つけたのは、数分間も走ってからだった。
我武者羅だったので、美貴理は距離など覚えていない。
目の前には、空を見上げて立ちすくむタクの背中。
彼は肩で息をしていた。全力で走り続けていたのなら当然だろう。そこは美貴理たちも同じだ。
しかし今の彼には、もうひとつ違和感があった。
たったひとりで寂しく佇むその姿が、どこか親に置いて行かれた子どものように映ったのだ。
彼ではなく、その光景全体が放つ哀愁。
見ていた美貴理までもが、酷く悲しい気分になった。
「き、急にどうしたの……?」
不思議と息苦しく感じて、彼の背中に尋ねる美貴理。
ふたりの間には。
どうしようもなく深い溝が、あるいは高い壁があって。
「なんでもないよ」
振り向いたタクの笑顔に、なぜか美貴理は涙が出そうになった。