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第二話〈冒険、はじめてのおつかい〉-1-


「ふぁ……ああぁ」

 美貴理は大口を開けてあくびをした。

 肩口で切り揃えた髪は寝癖で四方八方に先端を向けている。彼女の瞳はいつも眠そうに垂れているが、それも今は格別だ。今日も高校のジャージが全身を覆っていた。

 まぶたを擦りながらベッドを這い出る。時刻はおよそ午後二時。いつもどおりの起床。

 緩慢な動作で、のそのそと階下に向かう。

 酔っぱらいのように危うい千鳥足で階段を降りる。何度か足が滑りそうになり、慌てて手すりに縋りついていた。

 居間を素通りしてキッチンへ。

 冷蔵庫に手をかけ――ようとして、美貴理の右手が空を切る。距離感が掴めないのだろうか。どうやら未だに寝ぼけているらしい。

「むー……」

 今度はしっかりと、間違いなく取っ手を掴む。

 扉を引いて開けた。吹き出す冷気が心地いい。

 中を覗き込み、そこで、

「――あ」



 第二話〈冒険、はじめてのおつかい〉



 扉が壁に勢いよく叩きつけられたのは、そのときだった。

 壁が陥没したとすら思える轟音が響いた。

 その部屋の――現在の――主であるハロワマン・タクが部屋の片隅に座っていて、音源の方を唖然として見上げていた。

 周囲を赤く照らす火炎のようなマントに、青いスーツは鍛え上げられた肉体にぴったりと張りついている。そして胸元には、ハローワークの頭文字である〈HW〉が横向きに大きくプリントされていた。アメリカの某スーパーマンのような出で立ち。

 端正な容貌の彼だったが、今はあんぐりと口を開いて間抜けな表情をしていた。それでも彼を包む爽やかな雰囲気は拭えない。

 彼は持っていた漫画をばさりと落とした。まるで金縛りをかけられたように動けない。

「な……」

 やっと絞り出した声がそれだった。

 そんな彼を意に介さず、視線の先に仁王立ちしていたのは、ほかでもない美貴理だ。

「話があるんだけど」

 今の彼女には不思議な威圧感があった。ただごとではないと思って――そして酷い目に遭う予感がして――タクは身震いしながら問う。

「ど、どうしたんだ……? なにを怒って……」

 一歩、また一歩と美貴理はタクに近づいていく。オーラもまた着々と襲ってくる。

 反対側の壁に背中を預けていた彼に逃げ場はなかった。恐怖というよりは困惑だろう、事態が理解できないでいる。

 彼女の身体が眼前に迫り、そして、

「ふにゃ」

 いきなり美貴理が倒れ込んできた!

「――なんだぁ⁉」

 驚嘆しながらもなんとか美貴理を受け止める。

 両腕で美貴理を抱え上げる。いわゆるお姫さま抱っこの姿勢。

「おい、美貴理! なんだ? どうしたってんだ?」

 尋ねながら美貴理の顔に目を向けると、

「ふああぁぁぁぁ……」

 大あくび。

 美貴理は目尻に涙を浮かべながら、舌足らずな声で言った。

「コーヒーがない……」


「――は?」



 ★



 ひとまず美貴理は冷水を顔にかぶって、居間でタクと向き合った。その眼差しは真剣そのもの。

「コーヒー買ってきて」

「断る」

 対するタクは無気力で、不機嫌を全身で表現していた。整った眉をひそめて、テーブルに頬杖をついている。貧乏揺すりがビートを刻む。

 美貴理の話を要約すると、どうやら眠気覚ましのために買い置きしていた缶コーヒーを切らしてしまったらしい。

「買ってきてください」

「断る」

 美貴理の敬語作戦は一瞬で失敗した。舌打ち。

「買ってきてよーぉ。ねーむーいーのー」

 ついには駄々をこね始めた。

 拳がテーブルを叩く音が、タクの貧乏揺すりと融合する。

 いびつなメロディの完成。

 タクは嘆息すると、気怠げに尋ねた。

「いつもはどうしてるんだ。――確かに毎日飲んでいたが」

 思い出すようにそうつけ足す。

 そう、寝起きの缶コーヒーは彼女の日課だった。毎朝(大概は昼だが)一本。一気飲み。

「お母さんに買ってきてもらってたよ。お小遣いは節約したいし」

「小遣い制だったのかよ! 親不孝ニートめ!」

 そこをタクは聞き逃さなかった。やば、と美貴理は舌を出す。

「お母さまが帰ってきたら、しっかり談判させてもらうからな」

「それだけは勘弁!」

 ハロワマンとしてタクが佐無柄家を訪れてから一週間。

 美貴理は彼とうまく共生してきた(と思っている)。

 最初こそ不満はあったが、生活する上で大きな問題は未だ発生していない。

 もちろん、ハロワマンの業務として社会進出のための勉強は強要されるが、慣れれば聞き流すことも楽だった。適当に相槌を打っていればすぐに済む。

 口には出さないが、むしろ話し相手ができてよかったとすら思っている。話だけではない。いっしょにゲームをする機会も多かった。彼は例のレースゲームに関しては達人級の実力を有しているのだ。

 正直、彼が来る以前よりもよっぽど充実した毎日を送っている。

 それだけ生活の中に彼が溶け込んでいるからこそ、こんなしょうもない頼みごともするわけで。

「ちょっとコンビニに行くだけじゃん! ドケチ」

「『だけ』って言うなら自分で行けばいいだろうが!」

 ついには怒鳴り合いにまで発展していた。

 言ってから、ふと彼は思いついたように提案した。

「そうだ、自分で行くんだ。これもまた勉強のひとつ」

 我ながら名案だと言わんばかりに胸を張るタク。

 当然、美貴理の返事は、


「超断る」


「超⁉」

 しかし彼は挫けない。口の端を吊り上げて言った。

「なら、来月からおまえの小遣いがなくなるだろう。お母さまには、美貴理に小遣いを渡す必要はないと報告しておく」

「ひ、卑怯者め!」

「なんとでも言いな」

 彼の聞き覚えのある台詞に、美貴理がはっとする。

 そう。

 一週間前に勤務時間でタクを言い負かしたとき、美貴理自身が彼に放った言葉だ。

 根に持っていやがったのか……。美貴理は歯噛みした。

「でもでもでも! ほら、あたしには自宅警備の任が――」

「鍵を閉めて行けばいい」

「ぐっ……油断するな! 泥棒は思いもよらぬところから――」

「も・ん・だ・い・な・い」

 最後まで言わせず、強引に美貴理の言葉を遮る。

 美貴理が強気の姿勢に弱いことを、タクはこの一週間で学んでいた。なんだかんだで、彼女はメンタルが弱いのだ。

「安心しろ。俺がついていってやるから」

 そのひと言に、美貴理は余計に不安になった。

 ただでさえ両親に馴れ馴れしいこともあり、男女の関係を意識してしまうことが多々あるのだ。

 その上ふたりでお出かけなんて耐えられない!

 そしていちばん許せないのは、少しわくわくしてしまっている自分である。

 ――まさか、あたしがタクに“異性として”好意を抱いている? そんな馬鹿な。

 心の奥底の感情を否定して、事態を検討する美貴理。

 まさか高校を卒業した後、ニートへと進化(主観)して一年も経過しない内に外出することになろうとは思わなかった。約七か月ぶりの外界である。少し怖い。

 だがお小遣いには代えられない。資金源が途切れたら遊ぶことすらままならないのだ。

 決心の末、美貴理は拳を強く握り締めた。

「……仕方ない。行こうじゃないか」

「おお! 行ってくれるか!」

 心から嬉しそうな笑顔でタクは歓喜する。

 なぜ彼は美貴理の行動で、まるで自分のことのように一喜一憂できるのだろうか。そんな疑問が美貴理の頭をよぎった。

「じゃあ早速――」

「待て! 誰がふたりで行くって言ったよ!」

 玄関へ駆け出すタクを慌てて引き止める。

 状況を読み取れないタクは首を傾げた。

「あたしの友達を呼ぶから。ふたりっきりが嫌とかじゃなくて……その……ほら! 人数は多い方が楽しいし!」

「美貴理、お前、友達いたのか」

「ぶん殴るぞ!」

 まあ、その友達も卒業以来、交流は一切ないのだが。

「とにかく。ちょっと待ってて」

 自分の部屋から携帯電話を持ってきて目的の人物を探す。アドレス帳に登録されている人数は少ない。

 脇でタクが見ている中、電話をかける。

 二回のコールで繋がった。

「あ、久しぶ――」

『おいこらぁミキ! のうのうと連絡してきやがって! あたしから電話かけてもちっとも出やがらねぇくせに!』

 しまった、忘れていた。相手から何度も連絡は来ていたが、面倒くさかったので、七か月もの間、放置していたのだ。

 そんなことを思い出しながら言いわけを探す。

「いや、こっちにもちょっと事情があってさ――」

『ほう? 居留守を使ってまで半年以上も逃げ続ける事情たぁなんですかねぇ⁉』

「うげっ!」

 そういえば家まで直接来ていたこともあったか。ことごとくネットゲームの最中に訪れるので、迎え入れたことはなかった。

『だいたいテメェはな――』

「すとっぷ! すとっぷ! あたしの話を聞いてください! 実はね――」

 美貴理は強引に話題を変え、現状を包み隠さずしゃべった。隣でタクが耳を立てていることもあって、さすがに友達を呼んだ真の理由は伏せておいたが。

「――というわけだよ」

『……おま、ハロワマンって――』

 電話の相手の声が一瞬途切れる。呆れているのだろうか、美貴理が不安に思うと、

『そんな面白そうなことになってるなら、なおさら早く呼べや、この馬鹿ミキ! ぶっ殺すぞ! すぐ行くから待ってろ‼』

 ツー、ツー。

 一方的に電話は切れた。

 ……とりあえず来るんだよな。

 面白そう、と言われたのが若干気にかかるが、来てくれるならいいだろう。

 顛末を説明しようとタクの方に向き直ると、

「おい!」

「うわっ! どうしたの急に! て、ちょっ……まっ……」

 待ちかねたようにタクが猛進してきた。顔が近い。

 彼の吐息が鼻にかかる。美貴理は、自分の顔が急激に熱くなるのを感じた。なんだこれは!

 残る距離が縮まっていく。五センチ、三センチ、一センチ、

 そして――

「なんか電話の相手、怖そうだったが大丈夫なのか……?」

 ――思わず噴き出した。

「ぐわ! 汚ねぇ!」

 唾液がタクの顔に降りかかる。一週間前にも似たようなことがあったが、以前と違い今回はぎゃあぎゃあと喚いた。

 しかし、柄が悪いように思われても仕方がないだろう。彼は直接に会話していないので言葉の断片しか聞き取れていないだろうし、会話全体を見ても、確かに上品な口調とは程遠い。むしろ粗暴極まりない。

 あらかじめタクに相手のことを紹介しておいてもよかったのだが――やはり面倒なのでやめた。

 気にするな、とだけ言っておく。

「おまえがそう言うなら構わんが……。ちょっといいか?」

「なに?」

 気難しい顔をするタク。まだなにか要求してくるつもりだろうか。

 続きを促すと、彼は美貴理の首から下を指差した。

「……まさか、その服装で出かけるつもりか?」

 美貴理は下を向いて、自分の身体をまじまじと見た。ジャージ。

「え、なんで?」

「いや、それはないだろう」

 タクは嘆息。

 美貴理としては、高校時代のジャージで外出しても問題ないらしい。いや、他人の視線というものを忘れているだけかもしれない。誰か彼女に羞恥心と、そして一般常識を教えてあげてください。

 これではいけないと判断したのか、タクが、

「とにかく、普通の私服に着替えてから――」



 言い切る前に、言葉を止める。

 扉が開く音がしたのだ。

 まだ美貴理母が帰る時間には早い。そもそも彼女はいつもインターホンを鳴らしていたはずだ。

「あ、来たかも」

 言いながら美貴理が廊下に出た。

「なるほど、近所だったのか」

 タクが納得したように手を叩いた。勝手に入ってくるのも、まあ仲のいい友達同士なら――

「ううん。隣町」

「はぁ⁉」

 さすがのタクも仰天して声を上げる。まだ電話してから一、二分しか経っていない。

「セーカ、二階にいるよー」

「おう!」

 セーカ、と呼ばれた“彼女”がドタドタと階段を駆け上ってくる。

 すぐに彼女が美貴理に続いてタクの部屋にひょっこり顔を出した。

「あ、はじめまして」

 タクは驚いて彼女を見た。先刻までの言葉遣いと、あまりに印象がかけ離れているのだ。

 長い黒髪に、優しげな、百合のような笑顔。そして服の下からでも色気を醸し出すグラマラスな体型。細い黒縁の眼鏡が、彼女の淑やかさを一層際立てていた。

 どう見ても「テメェ」とか「ぶっ殺すぞ」とか言う人物とは思えない。

 タクは、電話での会話はきっと聞き間違いだったのだろうと思い直した。そして礼儀正しく挨拶を返す。

「はじめまして。美貴理の担当のハロワマンで、タクと申します」

「どうもご丁寧に。わたしはミキの友人の清井(きよい)成佳(せいか)です」

 互いに深々と頭を下げる。

 存外に温和な女性だったのでタクが安堵していると、ふと成佳が美貴理の肩を叩いた。

「ん?」

 美貴理が反応すると、突然、成佳の柳眉が吊り上がった。凶暴性を秘めた眼光が美貴理をきっと見据えた。

「ミキ! そんでテメェは久しぶりの再会だってのに挨拶のひとつもねえのかよ、ああ⁉」

「――ッ⁉」

 その刹那、世界はタクの理解の範疇を越えた。



 成佳に首根っこを掴まれ、美貴理はされるがままになっていた。

「おいなんとか言えや、こらぁ!」

「……ギブ」

 ガクガクと肉体を揺さぶられるのも、そろそろ限界だ。

 両手を頭の上まで挙げる。降参の意思表示。

「ああ、悪い」

 それに気づいた成佳がぱっと手を放した。

 そこで美貴理は、唖然として自分たちを見つめるタクに気づく。

「タク。説明してあげるから我に返りなさい」

 彼の目の前でひらひらと手を振る。

 一拍置いてタクの自意識は覚醒した。

「あのね、こいつ――セーカは非常に礼儀正しいいい子なの」

 美貴理が確認するようにタクを見た。おざなりに頷くタク。まるで、知りたいのはそんなことじゃない、と言わんばかりに。

 その反応を見て、美貴理は改めて真実を口にした。

「ただし、素のセーカは限りなく柄が悪い」

「は……?」

 そう。彼女は二重人格でも人見知りな内弁慶でもない。ただ、性格と心がけが“すこぶる”噛み合っていないだけなのだ。

 まだタクには理解できないようだ。仕方あるまい。ギャップがあまりに酷い。

「おいミキ! 誰がガラ悪いって⁉ 殺されてぇか? すみません、タクさん。騒がしくしてしまって――」

 ……これだもんなぁ。

 美貴理は呆れて、大きく溜息を吐いた。







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