第一話〈襲来、ハロワマン!〉-3-
美貴理が階下に降りた時、既に母は玄関に上がっていた。
佐無柄家では自宅の鍵を持ち歩く習慣はない。つまりマント男が来た際に施錠を忘れていたのだ。不用心である。
しかし美貴理はそれにも気づかず上機嫌だ。気持ち悪いほどの笑顔で、母の労をねぎらう。
「お母さんおかえりなさい。お疲れさま」
「なによ気持ち悪いわね。いつもなら部屋からも出てこないのにねぇ……。それより鍵、閉め忘れてるじゃないの」
「ああ、そうだった?」
やはり気にもかけない。早く戦果の報告をしたくて仕方がないらしい。
「ねえ、実はね――」
「そうそう、ハロワマンさんが来てたでしょ。どうだった?」
「ズバリ! それよ!」
正解、と言わんばかりに人差し指をびっと母に向ける。
歯を見せて悪どく笑う美貴理に、母は警戒を強めた。彼女はきっと、娘がハロワマンの徹底的な教育で気が狂っても不思議でないと思っているのだろう。実際に、それに近いことはあった。ただ、美貴理の狂気を引き起こした原因が異なるだけで。
「ハロワマンなら――」
退治してやったわ。
そう続けようとして、彼女は背後からの足音に気がついて言葉を止めた。
「おや、おかえりなさい、お母さま」
マントの男だ。初対面のときと変わらず爽やかな笑顔を美貴理母に向けている。
「あ……?」
それを、美貴理が呆けた顔で見つめる。
「おかえりなさい」だと? 「お母さま」だと? ただの部外者であり、勝負に負けて、任務を終えたはずの彼が、なぜ、さもこの家の人間であるかのように振る舞っているのだ? 生意気な!
「勤務時間はとっくに過ぎてるんだろうが! 帰れ公務員!」
半眼で彼を見ている美貴理が、手をしっしっと払った。出て行けという仕草。
「なにを言っているんだ、おまえは」
対する男は、美貴理の主張が理解できていないようだ。頭に疑問符を浮かべている。
「俺、ここに住むんだが」
続くそのひと言で、美貴理の脳は思考停止した。
……住む? は?
「申し遅れました。ハロワマンのタクと申します。お母さま、お世話になります。未熟者ですが、何卒」
「あらいいのよ。家で美貴理を相手にしてても張り合いがなかったし、むしろちょうどいいわ。あ、部屋なら一人暮らしの長男の部屋が空いてるから……」
凍結した美貴理の脇で、勝手に話を進めていくマント男と母。
時間にしておよそ三分二十秒。美貴理が我に返った。
「ちょ、ちょっとお母さんどういうこと⁉ あたしなにも聞いてないんだけど!」
「どういうことって、泊まり込みのサービスを頼んでただけよ。今さらなにを驚いてるの」
「先に言ってよママン!」
なにそのチート! 美貴理は叫びたくなった。
母の理不尽な通告にショックを隠せない美貴理。
やり場のない怒りのはけ口に、彼女はマント男――タクという名前らしい――を選んだ。
「お母さんに馴れ馴れしいわ! アンタが『お母さま』とか呼んでたら、まるであたしとアンタが――」
「?」
「――でぇい、なんでもない!」
自分で言っておいて美貴理は顔を赤らめた。タクは理解不能だと首を横に振っている。
そして、その光景をニヤニヤといやらしい笑みで観察している母であった――
そのとき、またも玄関扉が開いた。頭髪の薄めな男性が、疲れた顔で入ってくる。
「ただいまー……む⁉」
そして、視界にタクの姿を認めた途端、
「何者だ貴様ぁ! ワシの許可もなしに美貴理に近づきおって……。どこの馬の骨とも知れぬ泥棒猫が!」
彼の瞳が獰猛な獣の心を宿した。
「馬⁉ 猫⁉ どっちだ!」
タクはその薄ら頭に胸ぐらを掴まれた。気が動転しているのか、ツッコみどころはズレている。
「うるっさい」
すこぉん、と軽快な音を響かせて、美貴理母が薄ら頭を殴りつける。彼は殴られた後頭部を(頭皮を刺激から守るように)抱えてうずくまった。
「なにをするか!」
「こっちの台詞よ! いいところだったのに……」
「え、お母さん、ちょっと……」
美貴理だけが事態を静観していたが、さすがに黙ってはいられなかった。いいところとはなんだ。
「お父さんも落ち着いてよ。どうしたの?」
美貴理は母と男性の間に割って入り、そして彼に尋ねた。
彼は美貴理の父だった。
「ほう、お父さまでしたか。これからお世話になります」
「なん、だとぅ……⁉」
頭を下げるタクを見て、美貴理父の全身が痙攣した。
その瞬間、母がなにごとかを父に耳打ち。
「?」
父は男泣きで彼女に縋りついた。
「おぉっぉっ……。美貴理ぃ、彼氏などワシが許さんぞぉ……。まして、うぅ、同棲など……っ!」
「あぁ⁉」
嗚咽で聞き取りにくかったが、美貴理は父の勘違いを確信した。
馬鹿かこのハゲ親父は!
「ざっけんな!」
父を足蹴にする。美貴理にもフラストレーションが溜まっていたのだろう。容赦はなかった。
結局、母の手で事態が収束されるまで、しばらく時間がかかった。
★
――という波乱があり、美貴理兄の部屋である。
兄の部屋は二階。美貴理の部屋の向かいだ。
美貴理がここにいるのは、長らく使われなかったこの場の掃除と、同伴したタクの奇行に対する監視だそうだ。
両親は一階の居間に残してきた。父に説教をしてくれると母は言っていたが、本音を言えば美貴理は母も信用できずにいる。
――ちくしょう、面白がりやがって……
そう、母が美貴理とタクの掛け合いを肴にして嘲っているのは間違いないのだ。
ただ、それは自分の蒔いた種であり、母を窘めることすら後ろめたいだけで。
「別にお前がいなくとも、お兄さまの私物に粗相はせん。自分の部屋に戻ってくれていいぞ」
雑巾で棚の上に積もった埃を拭き取りながら、タクは溜め息混じりに言った。
さっさと美貴理を追い払って羽を伸ばしたいのだろう。
そうはさせるか、と美貴理は無意味に意地を張って息巻いた。
「まあ待ってよ。アンタに聞きたいこともあるしさ」
「ん? なんだ」
尋ねながらタクは首を傾げた。
疑問は湧いて出てくるのだが、とりあえず問題がありそうなところから片づけよう。
「ねえ、さっきも言ったけど、なんであたしの家族を『お母さま』とか『お父さま』とか『お兄さま』とか呼んでるの? 馴れ馴れしい。埋めるぞ」
「言葉の端に殺人予告を潜ませるのはやめてくれ」
冷静に美貴理の口撃をあしらい、きっかけを思い出そうと顎に手を当てて天井を仰ぐタク。
「ああ、そうだ。お母さまから電話で依頼を受けたとき、そのような指示をもらったんだ。なにも問題はなかろうと思って快諾したが……まずいことでもあるのか?」
心配そうに、そして申しわけなさそうに美貴理の顔を覗き込む。
――また母か……
美貴理は、自分だけがそこから妙な連想をしてしまっていたことに羞恥心を覚えた。
おおかた母は、タクが若い男だと知って、とっさに悪知恵が働いたのだろう。娘をおもちゃにしようと画策してこいつをけしかけたのだろう。まんまと思う壺にはまったというわけだ。
タクに他意がなかったことなど、彼の性格を鑑みれば、すぐにわかったはずだろうに。
美貴理はまた自分の顔が火照るのを感じた。
「……おーい」
「はっ! な、なんでもない! それならいいんだ……」
気づけばタクが至近距離から美貴理の顔色を窺っていた。美貴理はさらに顔面を赤く彩色する。
含羞を悟られないように後ろを向く美貴理。タクから見れば、さぞ怪しい行動だろう。
「大丈夫か? なんか変だぞ」
「なんでもないっつってるだろうが! 捩じるぞ!」
「どこを⁉」
脅し文句でなんとか誤魔化した(つもりになった)美貴理は、話を逸らすように、
「んで、あ、アンタはさ、なんでハロワマンになったの?」
向き直ってまた尋ねた。
「ん? なんでいきなりそんな……」
「ち、知的好奇心よ! ていうか、ただの気まぐれだよ! 本心ではまったく興味はないけどね!」
「教えたくねぇ!」
もっともの反論である。
「いや参考にするからさ! ほら、これからのため、みたいな!」
彼女もまた、話題を変えることに必死である。
やがて根負けしたのか、タクが渋々と口を開いた。
「――約束」
それだけ。
「え?」
美貴理は思わず疑問符を掲げる。
「あの、もっと詳しく……」
「もういいだろ、その話は」
食い下がる美貴理を、タクは手で制した。
美貴理はなにも言い返せなかった。向かい合う彼の仏頂面が、なぜか異様な迫力に満ちていたから。
それ以上、この話を広げるつもりはないらしい。
タクは渋面を顔に張りつけたままで、掃除を再開した。
「質問はそれだけか? ならもう帰れ」
ここはあたしの家だろうが。
と、美貴理は無性にツッコみたくなったが、場の空気を読んでやめた。
「あ、え、えと――」
このままでは自室に帰れない。
それは反射で判断したことだ。あるいは、負けん気が刺激されたか。とにかく言い負かされた気分で引き下がるのは癪だ。しかし考えが追いつかず、口が回らない。
不自然な沈黙が二人の間に流れた。
どうにでもなれと、美貴理は出鱈目に言葉を並べた。
「――腐女子のこと、どう思う?」
………………。
――なに言ってんすか、自分⁉
訊いておいて、美貴理の脳内はパニックに陥っていた。まさか今のが噂の、深層心理の思考ってやつですか⁉ いやいや、なんでこいつの評価なんて気にしなくちゃいけないのさ? うわあでも説明がつかない。本当に何を訊いているんだまったく!
「やっぱ今のなしで! うん、忘れてくれていいから……うんもう出ていくから! 金輪際アンタとは会わないから! それぞれ別の人生を歩んでいこう!」
「落ち着け! どうしたんだよ――そしてちゃっかり絶縁しようとするな! 卑怯者か!」
小賢しい美貴理の企みをすかさず一蹴するタク。
しかし彼は美貴理の問いを聞き逃しはしなかった。
「質問の意図がよくわからんが――」
言葉に迷っているように、タクは息を呑む。
そして、
「別に悪いことじゃないんじゃないか」
「……え?」
「人間の良し悪しなんて、そこで判断できることじゃないさ。少なくとも美貴理は、腐女子だとか関係なしにいい奴だと思ってる」
やはり清涼感のある笑顔で、美貴理を見つめる。
タクが初めて呼んだ、彼女の名前。
それが果たして彼女が満足できる解答だったかはわからない。
しかし、美貴理の瞳には、そのときのタクが、ほんの少し格好よく映ったそうな。
★
「いや、綺麗にまとめに入ってるけどさ!」
突然、美貴理が喚いた!
「あたしの注文したゲームは⁉ 配達日は確実に今日のはず……」
「ああ、それなら――」
どうやらタクは心当たりがあるらしい。
彼は珍しく意地の悪い笑みを浮かべた。
「ひとまず没収した」
「なあぁんだぁとおぉぅぅ⁉」
夜も更けてきたというのに、構わず美貴理は雄叫びを上げてタクに組みついた!
「よこせっ! てか、なんで……っ」
「新しいゲームなんかあったら、ますます社会復帰に身が入らないだろうが。今日のような非常事態もないとは限らないしな。とにかく、俺の目が黒い内は、そう簡単にニートライフを謳歌できると思わないことだな」
美貴理が全力で首を絞めても、タクは涼しげな顔で挑発を続ける。
彼は本当に人間なのだろうか。
「だあぁ! やっぱりハロワマンとか最悪だあぁぁぁっ‼」
絶望の嘆きは、満天の星空にこだまして消えた――