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第一話〈襲来、ハロワマン!〉-2-


 朝である。

 この夜明けは、同時に美貴理にとっての波乱の幕開けでもあった。

 そしてその前夜、彼女は――


「……お、もう朝か」


 ――一晩中ニコニコ動画を見ていた!

 時刻は午前六時、窓から差す朝日が彼女の姿を、昨日と同様に照らしている。

 やがて美貴理はノートPCをたたみ、のそりと立ち上がった。

「……寝るか」

 誰にでもなくそう呟くと、ベッドの布団にくるまった。駄目人間の縮図である。

 そのとき、


 ピンポーン――


 インターホンが鳴いた。

 数秒の後、今度は二回連続で響く。母は今日はパートタイムの仕事で家にいないのだ。

 安眠を妨害されて不機嫌な美貴理は無視しようかとも考えたが、通販でゲームを注文していたことを思い出して、仕方なくベッドから這い出た。

「タイミング悪いなぁ……。はーい」

 愚痴をこぼしつつ玄関へと急ぐ。彼女の頭には、もはや注文したゲームのことしかなかった。

 かくして、扉を開けた向こうには――


「どうも! ハローワークから派遣されてきました――」


 マントの男が満面の笑顔で立っていた。


 美貴理は無言で扉を閉めた。

「いやいやいやいや! 佐無柄さんのお宅ですよねぇ! 俺、わざわざ呼ばれてきたんですけど!」

 が、鍵をかける前にドアノブを握られた。舌打ち。扉の引き合いが始まる。

「人違いでーす。わたくし、山田太郎と申しまーす」

「モブキャラかっ! 誤魔化すにしてももうちょっとヒネれよ!」

「そっちにツッコむの⁉」

 ずれた問答に美貴理が気を取られた隙を突いて、男は尋常ならざる速度で家の中に侵入した。

「なっ」

 狼狽して廊下に目を向ける美貴理だが、視線の先に男の姿はなかった。

「幻……? いや馬鹿な」

 美貴理は狐につままれた心持ちで、呆然と立ち尽くした。

 しかし直後、彼女の耳に妙な音が届いた。カチ、カチ……、カチ、カチ……。これはマウスをクリックする音だろうか。

 瞬間、美貴理は戦慄した。

「あ あ あ あ あ‼」

 彼女は騒がしい足音を立てながら階段を駆け上った。普段の生活からはとても想像がつかないような神速で。

 自室の扉を、美貴理は突進するように開く。その瞳に窺えるのは、不安、焦燥。

 そしてやはり、彼女の推測は的中した。

 一日の大半を彼女とともに過ごすノートPC。

 その前にあのマントの男が居座り、対面しているではないか。

 美貴理の立場を考えれば、問答無用で警察を呼んで追っ払ってもおかしくはないほどの所業だ。しかし生憎と彼女は信じられない光景に硬直してしまっていた。

 美貴理の乱入に気づいていないのか、まったく動じない男。

 よく観察すると、なかなか端正な顔立ちの青年だった。短く切り揃えられた髪も、凛々しい眉も、言葉では形容しがたい爽やかさを醸している。だからこそ、逞しい肉体にぴったり張りついたタイツスーツと、燃え盛る炎のように真っ赤なマントが異様にミスマッチだった。彼の胸には〈HW〉と、ハローワークのイニシャルが大きくプリントされている。

 彼の横顔はしかめ面だった。

 画面の端と音声から、彼が勝手に視聴しているものが覗ける。

 それは、ニコニコ動画の美貴理のマイリストだった。

「――ッ⁉」

 羞恥心からか美貴理の頬が耳まで朱に染まる。その恥辱は彼女ならではか、それとも経験者ならば誰しも理解できるものなのだろうか。

 美貴理の中で、なにかが弾けた。

「いやぁーーーーーーっ‼」

 彼女には似合わないヒステリックな金切り声を上げながら、髪をこれでもかと振り乱しながら、周囲に涙を撒き散らしながら――要するに発狂しながら――美貴理はマント男の首に真横から蹴りを入れた!

「ぐえぅ!」

 潰された蛙のような断末魔で、男は椅子ごと倒れ伏した。

 そしてくずおれた男の体躯などもうお構いなしで、美貴理はよよよとベッドに顔を埋めた。

「あたし、汚されちゃった……」

 そのひと言を皮切りに、また大声で泣き始める。意味深な台詞だが、もちろん男子諸君が連想するような事実は一切ない。

 しばらくそんな混沌とした状況(泣く女と重体のマント男とニコニコ動画)が続いていたが、男の復活がそれに終止符を打った。

「あたた……なにをするか」

 マントは起き上がりざまにぼやく。それが存外に冷静だったので、美貴理は余計に腹を立てた。

「こっちの台詞だ! 人のマイリスを勝手に漁りやがって……んで、み、見た? 見ちゃった?」

「はぁ?」

「なにを見たか訊いてんの! とっとと質問に答えろ、そして死ね」

 美貴理は鬼のような剣幕でマントに迫る。その眼は血走っており、彼女が激怒しているのが見て取れる。

「ああ、そうだ」

 しかしマント男は怯まない。納得したような顔で、淡々とひと言。

「おまえ、腐女子だったんだな」

「ぐふぅ」

 それを聞いて、今度は美貴理が倒れる番だった。左胸を押さえ、のけ反るように転倒。まるで拳銃に心臓を撃ち抜かれたような仕草だった。

 いや、彼女は実際に被弾したのかもしれない。容赦のない言葉とは、ときに凶器にもなり得るのだ。

「ふ、ふふ……腐女子じゃない‼」

「いや、この動画はどう考えても……」

「うっ! ま、マイリスに入ってるその類の動画はひとつだけじゃん! ほかは全部まともなやつだし……」

「その言い方だと、やっぱり思い当たる動画があるんだな」

「ぐぅ……」

 美貴理は言い返すことができなかった。それが示すことはつまり、肯定だ。

「ううぅ……ちょっぴりBL好きなだけで『ゴキ腐リキター』とか『腐女子乙w』とかコメされる苦しみも知らない癖に……」

 嘆くように呟く美貴理。

 どうやら彼女の胸中にも、ちょっとした葛藤があったらしい。

 またもその場にへたり込んでめそめそする彼女を見かねたのか、男が声をかける。

「えーと、……元気出せ」

「全部アンタが悪いのよ!」

 美貴理が男に飛びかかった。男の襟首を掴んで顔を引き寄せる。

「なんなんだちくしょう! 不法侵入して勝手に人の秘密を見て、ちっとも悪びれやしねぇ! ハロワマンだかなんだか知らないけど、アンタの職場はそんなに偉いところなのかよ‼」

 怒号が部屋にこだまして、直後に沈黙が訪れた。

 PCの動画の再生はいつの間にか切れていた。

 大量の唾液が男の顔面に降り注いだが、瞳をそむけることは、襟首を握る美貴理の拳が許さなかった。

 これは爆発だった。

 風船のようなものだ。

 驚き――怒り――悲しみ――

 長らく家族以外との交流を絶っていた彼女の心は、急激な感情の変化に耐えられなかったのだ。

 ゆえに感情のエネルギーを溜め込んだ美貴理の心は、爆ぜた。

「……もう帰れよ」

 そして破裂した風船は、その中身を失う。

 無気力。

 どうしようもない倦怠感が美貴理を襲った。

「……帰れ」

 もう一度だけ、彼女はドスの効いた声音で言った。

 オモチャに飽きた子供のように、ぽいと男の首を放って、まぶたを閉じてうつむいてしまう。

 彼女の頬を、一筋の涙が伝った。

 重苦しい沈黙を破ったのはマントの男だった。


「悪いが帰ることはできない」


 彼は美貴理の悪態に、それでも彼女から一瞬たりとも視線を逸らさなかった。

 しかし、男の瞳の奥には、やはり迷いがあった。

 ここを去れない理由が、彼にはある。それは責任であり、プライドでもある。

 彼はまた、美貴理の怒り、そして涙を目の当たりにしてしまった。

 だから彼の「帰らない」という結論は、彼自身の芯の強さを証明していた。

「俺たちは相容れない。真逆の目的を持つ者同士、互いに妥協はできない」

 一語一語、噛み締めるように口に出す。まるで美貴理と彼、双方に言い聞かせるかのように。

「残された道は、勝負だけだ!」

 男は立ち上がり、美貴理を睥睨した。

 美貴理は、なにも答えない。

「だが俺たちは侍とは違う。斬り合いなんて領分じゃないし、なにより好かない。勝負の方法はおまえに任せる。すべてを賭けて、いざ戦おう」

 古典的な考えではあったが、理に適った意見だ。曲げられぬ意地と信念、ぶつかることは避けられない。

 ただ黙り続けていた美貴理が、顔を上げた。

 それを見て男はぎょっとした。

 彼の勝負の提案に、彼女は信じられない形相をしていた。


「勝負の方法は、あたしが決めていいんだな」


 美貴理は笑っていたのだ!

 しかも相当いやらしい笑顔で。

 瞳は歪んだ闘志に爛々と輝いており、不気味に唇の端を吊り上げている。彼女の口から、今にも下卑た笑い声が漏れ出てきそうなほどに邪悪な顔つきだ。

 さっきまでの脱力した姿が信じられない……

「もう撤回はできないよ。おしおきだべぇ~」

 ケケケと舌を出して笑う美貴理。捻くれた悪人顔がよく似合っている。

 なぜ美貴理はこんな状態に陥ってしまったのか?

 勝負に勝って母の刺客を撃退する→もう誰にも自分の邪魔はできない→一生ニートで万々歳!

 という方程式が、彼女の心に刻みつけられてしまったのだ。ムチャクチャである。

「それじゃあ、こいつで白黒つけようか」

 そう言って彼女が取り出したのは、一本のゲームソフト。

 全国的に大人気のレースゲームだった。これは彼女がニート生活を費やして存分にやり込んだゲームでもある。

 だからこそ、美貴理はこのゲームの実力に、絶対の自信を持っていた。

 さあ、みなさんご一緒に。


 この卑怯者め!


「異論はないよな?」

 彼女の問いに――いや、そのゲームソフトを横目に見て、男は僅かに眉を寄せた。

 そして、言った。

「受けて立つ」

 美貴理はげらげらと声を上げて笑った。



 ★



「負けた……だと……?」

 敗北したのは美貴理だった。

 それも一度きりではない。美貴理が何度も再挑戦を要求し、その都度マント男が勝利を収めていたのだ。

「相当やり込んでいたのはわかった。だが、対人でのレースがからっきしだな。これじゃ一生やっても俺には勝てない」

 非常にゆったりとした動作で立ち上がり、男は美貴理を見下ろした。勝者の余裕だろうか。美貴理は想定外の事態に茫然としていたが、実は気にしていた対人のことについて触れられて、余計に精神的ダメージを負った。引き篭もり続けてきたニートに、ゲームの対戦相手などいるはずがないのだ。

 彼女にはこの勝負に勝つ自信があった。そして、それに見合うだけの実力はあったはずである。

 そんな強敵である美貴理に、連勝を貫いたマントの男。彼はいったい――

「――いったい何者だ、おまえは!」

 美貴理は叫ぶように問うた。

 尋ねてどうなることでもない、ただ彼女は、納得のいく答えがほしかっただけだ。

 彼女の悲痛な問いかけに、男は表情を変えずに、こう答えた。

「ただの公務員だ」

 しかしそれは、納得できる答えでは到底なかった。世の中の公務員がみんなこうだったら、日本のゲーム大会の類は絶対に荒れる。

「……!」

 ――だが美貴理は、そこからひとつの閃きを得た。

 勝利のためならば手段を選ばない!

 彼女が閃いた必勝の手立てを、実行に移すのに躊躇はなかった。

「――おい、公務員。これを見ろ」

 美貴理が男の眼前に掲げたのは、彼女の携帯電話だった。液晶の明かりが整った男の鼻面を照らす。

「……かわいらしいな」

 待受画面では、愛くるしい猫の絵がしっぽを揺らしていた。

「だー! 違うわ! なにか気づかないのかよ!」

 美貴理は顔を赤くして、さらに男に携帯を近づけた。

 そして、

「ッ‼」

 男は息を呑んで一歩後ろに退いた。

 すかさず美貴理は一歩前進。

「おお、どうやらわかったみたいだな」

 男の顔にさっきまでの余裕はなかった。代わりにその顔に浮かんでいたのは、悔悟の念。

「アンタのおかげで助かったよ。大事なことを思い出させてくれた。ありがとね」

 嫌味ったらしい口ぶりで男に迫る。

 マント男はついに、美貴理から視線を外した。


「勤務時間、とっくに過ぎてるんじゃないかい?」


 そう、彼女の携帯に映った時刻は午後七時。マントの男が訪れてから、半日以上が経過していた。

「少し、ほんの少しだけ調べたんだよ。ハローワークのこと。見たら、国家公務員の勤務時間は、原則的に七時間四十五分らしいね。アンタは“指導の対象である”あたしとゲームをしていた。残業にしても、もうあまりに働きすぎだよ」

「ぐぬぅ……」

 男に反論の余地はなかった。美貴理との勝負は、彼にとって業務の一環である。仕事の依頼を受けて出向いておいて、任を放り出して遊んでいたと言えるほど、彼は不真面目な男ではないのだった。

 さらに美貴理がじりじりと詰め寄ると、ようやく男は膝をついた。

「くっ……、この卑怯者め……」

 歯を食いしばって睨め上げる男を見下ろし、彼女は憐みの視線を向けた。

 優越感が背筋を伝い、快感が美貴理を襲う。

 これぞ、勝者の特権。

「なんとでも言いな」

 ふっと鼻で笑い飛ばす。

 美貴理は勝利の余韻に浸って、静かに瞳を閉じる――


 ピンポーン、ピンポーン――


 二度のチャイム。

 小学生のイタズラでもなければ、客がインターホンを連打するわけがない。きっと母だろう。

 この状況を見れば、母は美貴理の執念をきっと認めてくれる、そして、二度と彼女に文句など言えなくなるはずだ。

 と、美貴理は(勝手な)期待に胸を膨らませて、スキップをして玄関へと向かった。







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