番外第二話〈騒乱! 濃澄純ニチ郎〉-4-
「どうしてこうなっちまったんだ! 濃澄純ニチ郎!」
激昂と悲痛の入り混じった問いが、月光すら届かない夜闇を裂く。
タクの咆哮が向かう先には、暗い世界を唯一照らす館の光源を背負った男――濃澄純ニチ郎が仁王立つ。
真正面からその雄叫びを受け止めて、濃澄は鋭い眼光をさらに細め――
――嘲るように唇を歪めた。
「愚問だな」
それは明確な侮蔑。一度は日本の頂点に君臨した男が、無職の人間に中指を立てた瞬間である。
「気づいただけだ、理想の国家に非国民は必要ないと」
そのニートの端くれである美貴理が、悔しさに肩を震わせる。が、それより先にタクは大地を蹴っていた。
「貴様あぁ!」
頭を沸騰させる猛烈な怒りに衝き動かされ、跳躍。そして振りかぶる拳が醜く笑う元・総理大臣に迫り、
刹那、白衣の女が動いた。
「なっ⁉」
誰もその女の姿を認識してはいなかった。が、確かに彼女はずっとそこにいた。濃澄の真横に控えていた。
女がタクの正面に立って懐から覗かせたのは、無骨な警棒。その獲物が風を唸らせ迎撃する。
「危なぁい!」
蚊帳の外だった美貴理が悲鳴を上げるが、もう遅い。
膂力に任せたタクの拳骨と、輝く金髪を揺らす女の持つ武器が激突する。拮抗する力。肉薄した両者は、互いにさも相手が両親の仇であるかのように眼光を尖らせていた。
「もう馬鹿な真似はやめろ、マアヤ! 主の愚行を正すのも濃澄チルドレンの役目だろうが!」
マアヤと呼ばれた白衣の女性は、しかしタクの説得には耳を貸さない。ただ無言のまま、力任せに警棒を振り抜いた。
それこそが、彼女の解答とでも言うように。
弾き飛ばされ尻餅をつくタクを、終始無表情を崩さないマアヤの双眸が射抜く。鈍く輝く警棒が、その先端を彼の脳天に向けていた。
「――私は純ニチ郎さまに従うだけよ」
「くっ……この、わからず屋め!」
絶対零度の視線に、しかしタクも怯まない。即座に身を起こすと、再び一歩踏み出し――
「わからず屋は、あなた」
――警棒が漆黒の空へと掲げられた。
直後、彼女の背後から夜闇の保護色と化した巨大な弾丸が駆ける。その数は六つ。目を凝らせばそれは――人影だ。
唐突な闖入者に、タクは狼狽して踏みとどまる。それを好機と見たらしく、黒い人影は散開し、美貴理とタクを取り囲んだ。全身黒服の、それも筋骨隆々な男たちの包囲網だ。
「濃澄チルドレンは、わたしとあなただけじゃない」
底冷えするようなマアヤの声に、傍から見ていただけの美貴理が背筋を凍らせた。意図せず歯をガチガチと鳴らしながら、タクの背中に問いかける。
「これ、ヤバくない……?」
「ヤバい」
即答。返ってきたのは、美貴理を絶望させるには充分すぎる答えだ。根拠なく「大丈夫だ」と明るく振舞われても困るが、さすがに甲斐性なしの烙印は避けられまい。
身も蓋もない態度に美貴理は頬を引き攣らせ、
「ちなみに……ここで濃澄さんたちに負けたら、どうなるの?」
今度は、すぐには答えがなかった。男たちに囲まれた息苦しい空間でしばしの沈黙――小さな呟きが鼓膜に届く。
「連中の斡旋でめでたく就職だろうな――ブラック企業に」
「いやあぁぁぁあぁぁぁぁぁ!」
空気を震わさんばかりの絶叫。
高みの見物だった濃澄すら慌てて両手で耳を塞ぐほどだ。至近距離でその悲鳴を受け止めたタクの苦痛は想像に難くない。
思わぬ方向からの不意打ちに悶絶するタクの肩をメチャクチャに揺さぶり、加害者の少女は涙と嘆きを手前勝手に撒き散らす。
「そんなの嫌だよ! ただでさえ真っ当な会社でもはたらける気なんてしないのに!」
さりげなく駄目人間ぶりを暴露するも、美貴理の頭を引っぱたいて低レベルな漫才を披露している場合ではない。緊張感ぶち壊しだ。
濃澄がわざとらしく咳払い。必死に仕切り直そうとする彼の姿に、元・総理大臣の威厳はない。
「ウォッホン! ――、と、とにかく巧よ! この状況でもまだ我々に刃向かうのか。かつての上司に牙を剥いてまで、貴様はなにを望むというのだ?」
「知れたことを! 決まっている、ブラック企業に囚われた罪なきニートを救うこと――それだけだ」
いまだ(美貴理の)攻撃に頭を痛めながら、それでもタクは決然と吼えた。
一切迷いのない彼の双眸を見据え、しかし濃澄は一層口の皺を深くする。不気味な笑顔がさらに酷薄さを増す。
「……ニートを救う、か。愚かなことを抜かす」
閻魔を連想させる重圧的な声音に、タクと美貴理は眉根を寄せる。濃澄の言葉から滲み出る感情の欠片。それは嘲弄でもあり憎悪でもあり、そして――
――憐憫だった。
「聞け。ニートなど零れた蜜に群がる害虫と同じよ。貴重な国の資源を無節操に厚顔無恥に食い漁り、我がもの顔でその場にのさばり、そのくせ蝿叩きは飄々とかわしてくれる……不愉快なほど――本当に醜悪な屑どもだ……!」
そのとき、奥歯を噛み砕く音は、美貴理の隣から聞こえた。
「美貴理を――ニートを侮辱するな! 彼らも俺たちと同じ人間だ、自分の意志で、多くの人々と繋がって生きているんだ!」
タクが――いつも美貴理の隣で支えてくれた彼の大音声が、濃澄と真っ向からぶつかり合う。
自分たちの肩を持って弁明してくれるタクの背中を、肝心の美貴理はどこか醒めた視線で見つめていた。
だって、美貴理は知っているのだ。
濃澄の台詞は紛れもない事実だと。自分を筆頭にニートは社会の最底辺で、他人に迷惑をかけてしか生活できなくて。
自分たちが正真正銘の“クズ”だと、とっくに自覚していたのだ。
相手の語る言葉が事実だと知りながらそれでも足掻くのは、怠惰のため。他人を利用し、寄生し、日陰での心地よい生活を捨てたくない一心で……本当に反吐が出る生物だ、自分は。
最低で恥知らずと心の奥で自虐する美貴理と真剣な面持ちのタクを見比べ、濃澄は鼻で笑う。
「ふん、屑を屑と呼んでなにが悪い。私はそんな無能どもを、せめて社会の歯車にあてがって役立ててやろうというのだ。むしろ感謝に平伏してほしいな」
「ふざけろ! 人々はみな、平等に輝かしい労働の汗を流すべきで――」
「そんなもの――寝言、戯言、世迷言!」
いつか濃澄自身が提唱した言葉を、張本人が完膚なきまでに否定する。ハローワークの、ハロワマンの、そしてタクの、その存在意義を情け容赦なく塗り潰す。
月光を遮断する灰色の雲の下、誰より日本の将来を憂いた男が、とち狂ったように白髪を振り乱していた。
その濁った眼差しが、美貴理を刺す。
「貴様の後ろに隠れた無様な小娘が、それを体現しているだろう」
美貴理の心に屈辱はない。ただ、胸裏で僅かに頷くだけ。
「庇護されてばかりの足手まとい。巧、こんな愚者に貴様が身体を張る必要などない」
――ああ、その通りだ。
美貴理はずっと、タクに甘えていた。背中にしがみついていた。
邪魔だと言われないことを、享受と勘違いしたまま――
「それだけは、間違いなく間違っている」
――勘違いだと、思っていたのに。
タクの言葉に驚嘆し、思わず美貴理は目を見開いた。直後、ようやく自分がずっと瞼を頑冥に閉じていたことを認識する。
そして濃澄もまた、彼の声の変調に驚いていた。その視点で言えば若造とも呼べる男から漏れ出す不可思議な威圧感に、彼は一歩だけ後ずさる。
「俺にとっての美貴理の価値は、アンタが決めることじゃない」
タクの睥睨は一直線に濃澄の眉間を射抜いている。しかし彼の台詞は、世界中の誰よりも美貴理の胸に突き刺さった。
「確かにコイツは阿呆でぐうたらで両親のスネかじりでネトゲ廃人の、どう誤魔化そうとアンポンタンだ。……いや、親だけじゃない。実の兄からも金をせびっている」
「そ、そうなのか……」
変なところで濃澄が愕然としている。やめろ、余計なことは言うな。
「だけど――そんなコイツがここまで来てくれた。外出する面倒さとか恐怖心とか全部振り切って、俺についてきてくれた……それで充分なんだよ」
揺るがない。
「俺は、それだけで美貴理のために戦える」
タクの決意は、濃澄がいくら言葉を尽くそうと、力で圧迫しようと、一寸たりとも曲折しない。
「……残念だ。あくまで貴様は、国を殺す連中に味方するか」
「ニートを殲滅させることが“国を救う”ならば、俺は国家よりも人を守るさ」
「――痴れ者め」
最後にひと言、掠れた悪罵を残して濃澄は叫んだ。
「奴を仕留めろ、真矢! 国家に逆らう朝敵を、徹底的に叩き潰せ!」
開戦の合図だ。
白衣の裾を翻したマアヤが警棒の切っ先を前方に向ける。
真矢――ハロワレディでも濃澄チルドレンでもないマアヤの実名。濃澄の右腕・真矢は、心の奥底まで彼の分身なのだ。
マアヤの役割は戦線の指揮だろうか、警棒が風を切る音を皮切りに、黒服たちが一斉に踏み出す。包囲の円が瞬時にその半径を縮めた。
「どいてろ美貴理!」
「え」
危険を察知したタクが、両手で美貴理を抱えて適当に放り投げた。彼女は背中からコンクリートの地面に落下する。
「ぐえー!」
美貴理の断末魔を無視して、肉弾戦が始まった。
上半身の動きで黒服の攻撃を捌いたのは三度まで。四人目の拳が、タクの横顔を傾がせる。
「ぐっ……!」
しかしささやかな反撃。足払いが黒服のひとりの体躯を倒した。ドミノ式に黒服たちが転倒していく。
その隙に距離を取るタク。
状況は劣勢。現状のタクに足りないものは、物量だ。人数の差はそのまま腕力・体力・膂力……あらゆる戦闘能力に比例する。
反比例するのはただひとつ、消耗速度。
――短期決戦しかない。
思考し、模索する。勝利への順路を。
「――っ!」
そして、閃き。
さっき展開された一瞬の攻防が、タクの脳裏に活路を浮かばせる。絶対的な不利を覆し、勝利を手にする未来を。
まず今受けた横殴りで最早タクは脳震盪気味だ。下手に時間を稼いでも、リンチさながらのタコ殴りが敢行されるだけだろう。
――これが、一手先の推測。
「き、貴様ァ!」
怒声とともに猛進してきたのは、黒服のうち二人。下敷きになった他の男も、続々と立ち上がっているのが見える。
誰もが屈辱的なずっこけをさせられて怒り心頭なのか、顔面を真っ赤にしていた。
――これが、二手先の推測。
「馬鹿、やめろ!」
焦燥に駆られてマアヤが叫ぶ。濃澄チルドレンとして参謀的な立ち位置を務めていた彼女は、タク以上に――それこそ五手も六手も戦況を先読みしているのだろう。だが、その指示を聞く心的余裕は今の黒服にはない。
飛来する拳を、タクは片手に一つずつ取った。そして、その力を利用して背後に放り投げる。宙に浮いた黒服たちは、間抜けに大口を開けていた。
「まったくだ、馬鹿以外の何者でもない」
連中は気づくべきだった。
タクは三回奴らの攻撃を受け流した。その余裕があった。
――“たったふたり”で仕留めようなんて、阿呆の極みだ。
右肩の筋肉が隆起する。投げた黒服の片方、その首根っこを掴んだのだ。
目を剥く黒服集団。愚かにも一様に固まってしまった――残る五人で総攻撃を仕掛ければ、まだ勝機もあっただろうに――奴らのど真ん中へ、タクはその屈強な肉体を、
「ぅおらあぁぁ!」
投擲した。
吹っ飛んだ弾丸が残る四人に直撃し、まとめて地に倒れ伏す。
これで形勢逆転だ。
続けて背後で迸る殺気。さっき返り討ちにした二人組の片割れがようやっと立ち上がり、タクの脇腹に爪先を繰り出していた。
だが打ち抜いたのは、残像。
瞬時に男の後ろに回り込んだタクは、蹴りで滑稽に開かれた局部に膝を飛ばす。
声にならない悲鳴を上げ、最後の黒服が崩れ落ちた。黒服集団との戦闘、全部合わせても、三十秒程度の出来事だ。
ひと息ついたタクは視界の端に、仰向けで目を回している美貴理の姿を認めた。意図せず口元が緩む。
黒服たちとの戦闘中に美貴理を人質にされる可能性はあった。――が、タクはその可能性をあえて度外視していた。
思い返せば濃澄とタクの衝突は、意地と意地のぶつかり合いだった。そして善悪はどうあれ、ニートを駆逐しようとした濃澄の信念は本物だ。
そんな彼ならば、たとえ人質としてでも、美貴理のようなニートに存在価値を見出したくはなかったはずだろう。
自分で決めた目的のために突っ走り、その意志を最後まで、どんな障害があろうと捻じ曲げない――濃澄純ニチ郎は、そういう男なのだ。
タクは笑顔を消し、濃澄とマアヤに視線を向けた。憤激に歯を軋ませ、鉄板でも噛み砕きそうな濃澄の鬼貌に、しかしなんの感情も抱かない。
「もう決着はついた……。終わりにしよう」
ただ、降伏してほしかった。力ずくで相手を屈服させるのは濃澄の手口と同様だ。それは抑圧と敵愾心を生み、いずれ爆発する。
しかし、タクの願いも虚しく、正面に立つマアヤが無言で警棒を構えた。
「やめておけよ。おまえじゃ俺に勝てない」
吐き捨てた言葉は挑発や威圧ではなく、単純な事実だ。
濃澄チルドレンの同期としてマアヤを智の参謀とするなら、タクは武の将軍である。頭の回転では彼女に遠く及ばないが、なんの小細工も利かない戦闘ではタクに分がある。
それは彼女も重々承知のはずだ。
だというのに、刺すような敵意は消えない。
「……勝つか負けるか、なんて関係ない。私はただ、純ニチ郎さまに従うだけ」
「…………」
至極平板な、けれど愚直に揺るがない声。
その言葉に、タクは確信する。彼女は濃澄の傀儡なんかじゃない。自ら不退転の意志で、濃澄に忠誠を誓うと決めたのだ。
ならば、もう諭すような台詞に意味はない。
「悪いな、マアヤ」
嘆息し、拳を握りしめた瞬間、マアヤが飛びかかった。洗練された動き――だが、タクには酷く遅く感じられる。
風を切って振り下ろされる警棒を、最小限の後退で回避。
見下ろせる位置に、マアヤの無防備な首筋があった。タクは無感情に狙いを定め、腕に力を籠め――
「もういい、やめろ!」
――一撃を与える直前で静止する。
悲痛に叫んだのは、濃澄だ。本懐を遂げられなかった不甲斐なさと憤怒に打ち震えながら、しかしマアヤに注がれる彼の眼差しに荒々しい気性は窺えなかった。
「下がれ、真矢」
その命令に、マアヤはしばし呆然と立ち尽くし、やがて我に返ったように狼狽して濃澄の脇に控える。
詮索はしないが、このふたりには上下関係だけではない、もっと密接な繋がりがあるのだろう。マアヤが傷つけられる姿を、指をくわえて眺めているなんて、濃澄には我慢ならなかったのだろう。
それが濃澄純ニチ郎――日本の頂点に君臨するには、少し実直すぎたのかもしれない。
対峙するタクの方にも多少の驚きはあったが、すぐに平静を取り戻す。
簡単な話だ。さんざん黒幕だ悪の権化だと騒ぎ立て、敵視してきた――その認識も間違ってはいないのだが――そんな濃澄も、結局はタクや美貴理となんの変わりない人間なのだ。他人を想う気持ちが、その左胸にはちゃんと備わっている。
そして濃澄は両手を地面につけ、絞り出すような、しかし明瞭な口調で、宣言した。
「我々の……負けだ」
もうじき、日が昇る。




