番外第二話〈騒乱! 濃澄純ニチ郎〉-3-
「ただいま」
その言葉を美貴理が発したのは、果たしていつ以来だろうか。少なくとも華のニート新生活を始めてからは一度たりとも口にはしていない単語だ。
しかし残念至極、今の美貴理に過去を思い返す気力はなかった。
自宅の鍵を開けるなり、玄関で靴も脱がずその場に上半身から倒れ伏す。
「おかえ……うおっ」
美貴理の帰宅に気づいたタクが、彼女のその姿を見て仰天に声を上げた。慌てて肩を担いで身体を起こす。
「だ、大丈夫か美貴理……、動けるか?」
「……無理」
表情を見るかぎり、相当疲弊している。ひとまずベッドで休ませるため、半ば引きずるように彼女の部屋へと連れていく。お姫様抱っこはタクの意向により却下だ。
ベッドに体躯を横たえると、美貴理は浅く息をついた後、ずっと右手に握り続けていた手提げ袋をタクに差し出した。
「はいこれ、もらってきたよ……」
「これは――例の資料か。ありがとう、お疲れさま」
身体が限界でも目的をちゃんと忘れなかった美貴理を、労いながら胸中で感心する。本当に昔と比べて根性がついた。
そう、ハローワークに遠征しての帰還である。
支社内で起きた壮絶な出来事――好色オヤジとの邂逅――の顛末をタクは知らないが、外出慣れすらしていない美貴理のことだ、向こうで相当な苦難に見舞われたことは容易に想像がつく。
先ほど美貴理がタクに手渡したのは、そこで入手した企業のパンフレットだ。
彼らの推測が正しければ、ハローワークが美貴理に推薦したそこはブラック企業。この“ステヘブ失踪事件”の解決の糸口となり得る重要な手がかりとなる。
それを受け取ったタクは中身を確かめ――ようとして、ふと美貴理の方に視線を戻した。さぞ摩訶不思議な超常現象を目にしたように首を傾げ、
「――今さらだが、よくこんな大仕事を引き受けるつもりになったな。普段のおまえなら、外出するなんて意地でも拒否しただろう」
そう、なぜか美貴理は今回の調査に関しては始終乗り気だった。いくら自分の興味惹かれる対象とはいえ、筋金入りの出不精が意気揚々とハローワークに潜入できるだろうか。
彼の心底からの質問に、美貴理はのそりと身体を起こし、苦笑しながらぼそぼそと答える。
「――え、えっとね。たいした理由はないんだけどさ……」
視線を泳がせ、いつも以上に歯切れの悪い口調。あからさまに恥ずかしがっている。
そして彼女は、話題を逸らすように問いを返した。
「タクはこの事件の真相が気になってるんだよね?」
「…………」
「わかるよ。ハローワークはアンタの古巣だもんね。そこが実はよからぬ策略を企んでいるかも――なんて聞いたら、いても立ってもいられないもん。……それに、アンタは正義感の塊みたいな男だからね」
今度はタクが視線を逸らす番だ。唐突に真っ向から胸中を的確に言い当てられ、顔が火照る。
「――だが、それは俺の都合だ。美貴理が身体を張る必要なんて――」
「あるよ」
なかばムキになっての反論も、あっさりと否定される。
面食らうタクと対照に、美貴理は穏やかな微笑を浮かべて、
「普段の恩返しみたいなもんだよ。タクにはいつも世話になってるし、あたしも少しは頑張らなきゃ」
美貴理はタクに感謝しているのだ。日々の生活を自堕落に過ごし、どんくさく、身内や友人に迷惑をかけてばかりの自分を見放さず、傍にいてくれる――言葉にはしないが、その温かさに、美貴理が幾度救われたことか。
そして、その“感謝する”という気持ちを教えてくれたのもタクだ。彼がいなければ、美貴理は他人と直接触れ合うこともなかった。
だから、美貴理もタクのために行動したいと思ったのだ。
脳裏をよぎるのは、一緒にトーコを捜索した雨の日の記憶。あのときも同じような気持ちで傘も差さずに疾駆したが、あれだけで日頃の恩をすべて返し切れたと思うなど片腹痛い。
「メチャクチャ大変だけど、タクの役に立てるなら後悔はしないよ。だから気にすんな」
そして、美貴理は相好を崩し白い歯をこぼした。
彼女の笑顔に、自然とタクも口角が緩む。
「――ありがとう、その想い、無駄にはしない」
ぽんと、タクは手のひらを美貴理の頭に乗せた。不意を打たれた美貴理は照れ臭そうに頬を掻く。
そうして資料を取り出したタクは、表紙の企業名に目を落とし、
そこで、硬直する。
「――ッ!」
息を呑む。タクの脳内でバラバラだった欠片が集束していく。推理のパズルが寸分の狂いなく組み上がり、真実が浮かび上がる。しかしその真実こそが信じられない。
「ど、どうしたの……?」
彼の表情の変化を読み取った美貴理が、恐る恐ると顔を覗いてきた。その不安げな瞳にどうにか言葉を返したいが、喉がカラカラで声が出ない。
驚愕に開く瞳孔。震える両手。
歯の隙間から音を立てて呼吸を繰り返し、ようやくタクは、たった一言だけを発した。
「――真相が、わかった」
★
夜の町を二人で歩く。
街灯に照らされる遊歩道に他の人影はなく、美貴理は初めての深夜徘徊に肩を縮ませていた。緩やかな風の音にすら恐怖心を覚える。
時刻は午後十一時を回っての外出に、しかし両親からの許可は存外あっさり出た。いわく、タクが一緒なら安全だそうだ。実の娘よりもよっぽど信頼されている。
怯えながらタクと手を繋いで歩く美貴理の姿はまるでか弱い乙女の様相だが、服装がいつものジャージなのでかわいげ半減である。対するタクも普段通りの深紅のマントに全身タイツスーツ姿で、もしも他人とすれ違ったら通報されそうだ。
「着いたぞ」
幸い誰にも見咎められず先導するタクが立ち止まったのは、高級住宅街の一角、うち一軒の正面だ。歩いたのは徒歩十分ほど。目的地には予想よりだいぶ早く辿り着いた。
「ここに黒幕が――ニートたちをブラック企業に追いやった犯人がいるの……?」
「ああ、いくぞ」
へっぴり腰の美貴理に対して、タクは微塵も物怖じしない。すぐさま門扉に触れようと――
「よくきたな、ハロワマン・タク――いや、向鏡島巧よ」
――瞬間、声とともに扉がひとりでに開いた。
重厚な、しかし朗々たる――政治家の街頭演説を連想させるような、無駄に通る声。
集中する美貴理たちの視線の先に仁王立つは、壮齢の男性だ。一歩後ろに白衣の女性が控えている。
男性の白い前髪はきっちり額の中心で分けられ、耳の手前で外巻きにされている。容貌には数多の人生経験を物語る皺が幾重にも刻まれているが、年相応の弱々しさは微塵もない。なぜか高価そうなスーツを纏っていた。
背後の女性は腰元まで伸びた豪奢な金髪を、しかし目立たせず無造作に垂らしている。派手な髪色だが、奇抜さはなく夜景色に溶け込んでいる。洒落っ気のない眼鏡の方が強く印象に残るくらいだ。
タクの案内が正しければ、この連中が諸悪の根源である。
黒幕らしき男たちの背後に聳える巨大な館から漏れる部屋の明かりが、その姿を、表情を晒し出す。
白髪の彼の笑顔は――傲岸だった。
「あの男、どこかで……」
その容貌に美貴理が感じたのは、既視感。直接の顔見知りではないが、まるでフィクションの世界の住人を目にしたような感覚。
そして決然とした双眸で男を睨むタクが、不意打つように宣言した。
「久しぶりだな……濃澄純ニチ郎“元・総理大臣”」
「――ッ⁉」
身内の口から明かされる衝撃の事実に、意図せず息が詰まる。心臓が止まりかける。
外界の世情に疎い美貴理でも、さすがに記憶に刻まれている――いや、むしろ美貴理のような存在ゆえに彼の名前は重要な意味を持つ。なぜならば、
「ハロワマンの……生みの親……」
愕然と呟く美貴理に、タクは僅かに頷いた。眉間の皺が深まる。
そう、眼前に対峙する男はかの有名な濃澄純ニチ郎――“ハロワマン・ハロワレディ制度”の前身となる政策を提案した内閣の中心人物だ。
だが、しかし、
「じゃあなんで……」
この修羅場にその濃澄がいるのか。自分たちは事件の真相を暴きに来たのではないのか。
――いや、本当はわかっている。
目の前の現実こそが純然たる事実。つまり、散々探し求めた真の黒幕、その正体こそが――
「ふむ、どうやら事情を知らぬ鼠が一匹紛れ込んでいるようだな」
濃澄は不遜な笑みを崩さず、その双眸を美貴理に向けた。幾多もの戦場を潜り抜け洗練された眼光に、思わず足がすくむ。
しかし濃澄の一瞥はすぐに離され、彼は再びタクの名前を呼ぶ。
「まあいい。巧、おまえは気づいているのだろう?」
「…………」
タクは答えない。それは名前を間違えられたからでは断じてない。
向鏡島巧は、タクの本名だ。ハロワマンの責務を果たしている最中は使用していない名義。それを濃澄が、なぜ知っている?
「そこの無知な女に真相を教えてやれ」
「……いいぜ、答え合わせの時間といこう」
対するタクの台詞もこなれた口調だ。仮にも日本の一時代を築いた男への対応にしてはあまりにフランク。まるで、旧来の知り合いと会話しているように。
怒気を露わにし、刺すような視線を濃澄に向けるタク。しかし、両眼を閉じ一度呼吸を整えると、蚊帳の外だった美貴理に向き直った。
「順を追って説明しよう。知っているだろうが、濃澄純ニチ郎はかつて日本の就職率の低下を改善するために“ハロワマン・ハロワレディ制度”の雛形を作り出した。しかしそれを世に出す前に失踪し、政の表舞台から姿を消した。それを次代の政治家たちが継承して施行されたのが、現代の制度だ。ハローワークが口を揃えて提唱する“皆が等しく輝かしい労働の汗を流す未来”を目指すという指標も、元々は濃澄の思想なんだ」
「ちょ、ちょっと待って」
脈絡なく始まった説明に強引に割り込み、美貴理は眉根を寄せて尋ねた。単純だが、ゆえに見落としがたい疑問点。
「どうしてそんな精力的に活動していた濃澄……さん、が失踪したの?」
刹那悩んだ末、美貴理は濃澄に“さん”と敬称をつけた。適切かはわからない。
「む、あー……それはだな……」
すると、淀みなく説明をしていたタクが急に言葉を濁した。
さりげなく横目に濃澄を見ると――彼はなぜか始末の悪いような表情で明後日の方を向いてしまう。意味がわからない。
訪れる微妙な沈黙。
そして、現状のままでは埒が明かないと判断したのか、嘆息したタクがぽつりと呟く
「……夜逃げだ」
「は?」
「天は二物を与えず、というか――当時の濃澄政権は就職問題以外の政策が絶望的でな。当然、支持率も酷く落ち込んでいた。……まあ、その状況に耐えられなかったんだろう」
「…………」
今度は真正面から、濃澄の瞳を見つめる。彼は肩を震わせ、羞恥心からか頬を紅潮させていた。威厳もへったくれもない。
「と、とにかくだ」
不自然な咳払いをして、濃澄がタクの言葉を継ぐ。話題を変えて誤魔化そうという魂胆が透けて見える。
「政界から去った後も、私は水面下で活動を続けた。私の遺志を継いだ後輩たちにアドバイスをしながら、就職率の改善に打ち込んだ。――そして誕生したのが“ハロワマン・ハロワレディ制度”だ」
「ああ。以降しばらくは目立った動向はなく、世間も濃澄と就職問題の存在をすっかり忘却していた……」
そこで一度言葉を区切る。タクと濃澄の間に、火花が散った。
「……が、今になって事件は起きた。おまえも知っている通り、ネットゲーム“Stairs to Heaven”に集まった非労働者を詐欺紛いのやり口でハローワークに誘い込み、あえてブラック企業への就職を勧める、姑息な労働者稼ぎ。これを俺たちは“ステヘブ事件”と呼んでいる」
淡々と語り続けるタクを見据え、しかし濃澄は不敵に口角を持ち上げたままだ。夜陰と街明かりが混じり合う薄闇の中で、その容貌はすこぶる邪悪に映った。
対峙するタクは奥歯を軋ませ、濃澄を睥睨する眼差しをさらに鋭くする。
「そして……」
不可思議な緊張感が生む重圧に、美貴理の痩躯は今にも押し潰されそうになる。きっとタクは、これ以上の負荷を全身に受けているのだろう。
一瞬の静寂。
おもむろに右手を上げたタクが、その指先を濃澄の鼻面に向け、沈黙を切り裂いた。
「この事件を陰で糸引く首謀者がおまえだ、濃澄純ニチ郎」
そして、決然と宣言。
「ほう、根拠はあるのか?」
「当然だ。これを見ろ」
相手を軽侮するような余裕の態度を崩さない濃澄にタクが掲げたのは、美貴理がハローワークから頂戴してきた企業のパンフレットだった。その表紙を、尖った視線とともに突きつける。
「この会社の株式、おまえが大半を買収したはずだったな」
「――え?」
疑問符を漏らしたのは美貴理だ。理解不能。そんな真似が可能なのか?
そして不可解な点はもうひとつ――
「新規社員の雇用も、おまえが独断で決めたんだろう。試験も面接もなしに採用なんて、圧倒的権力を持つ株主以外には不可能だ」
「ストップ! タク、なんでアンタ……」
――濃澄のことをそんなに詳しいのか。
思い返せば最初からおかしかったのだ。濃澄の根城をまっすぐに案内したこと。政界からの失踪の理由を知っていたこと。そして、濃澄の所持している株式事情まで。
社会不適格者の美貴理でもわかる。濃澄に関するタクの知識は、一般人のそれを遥かに凌駕している。
摂理、困惑と疑念の眼差しが、その矛先をタクに向ける。
隣からの視線を受けたタクは睫毛を伏せ、浅い溜息をこぼした。
「簡単な話さ。俺はかつて、濃澄の下ではたらいていた」
「はぁ⁉」
「公表はされていないが、ハロワマンの中でも逸脱した能力を認められたものは、濃澄の助手に任命される。通称“濃澄チルドレン”――それに選抜された俺は目の前の屋敷に招かれ、事務職を任されたんだ。株式についてはそこで資料に目を通した」
「な、なるほど……。でも、じゃあステヘブ事件も前もって止められたんじゃ……」
「いや、俺が奴の直属だったのは研修期間の僅かな間だけだ。生憎とすぐに辞退したんでな」
そうか、美貴理と出会う以前のタクは、トーコを探し回って東奔西走していたはずだ。いくら好条件とはいえ、デスクワークはご免だったのだろう。
「ふむ、ご明察。確かに愚かなニートどもをその企業へと導いたのは私だ」
展開を見守っていた濃澄が、不意にそう言った。その他者を嘲るような声音に、美貴理はそれが真実だと確信する。
濃住こそが真の黒幕、美貴理も既に薄々は勘づいていた。しかし改めて明言されると、少なからず衝撃を受ける。
至極当然だ。濃澄はハロワマンの開祖。誰より“皆が等しく輝かしい労働の汗を流す未来”を夢見ていたはずなのだ。
その信念の意味するところは、仕事を楽しむこと。
タクは言った。渋々とこなす就労に意味などない、と。それがハローワークの総意だ、と。
そんな思想の創始者である濃澄が、なぜニートをブラック企業に追いやるような真似をしたのか。感情を持たない無機質な社会の歯車に仕立て上げようと画策したのか。
憤り、激昂に震撼する美貴理の肩を、タクの大きな手が押さえた。
「気持ちは同じだ」
一歩進み出るタク。ようやく濃澄の館の敷地内へと足を踏み入れた。靴と大理石のタイルが擦れる音。
ほんの僅かだが濃澄と距離を詰めたタクは、憤怒と失望とが混濁した不思議な色の双眸を向けた。
濃澄は動かない。
夜風が吹き抜けて、雲間に月が隠れる。とても大切なものに触れるように、それを地面に叩き落とすように震える拳を、タクは強く握り締めた。
「俺が濃澄チルドレンだった頃は、おまえも道を踏み外しちゃいなかった。ニートを卑下するようなクソッタレた男じゃなかった……」
そして、長い夜になる――そんな予感がした。
「どうしてこうなっちまったんだ! 濃澄純ニチ郎!」




