番外第二話〈騒乱! 濃澄純ニチ郎〉-1-
――一月二十八日、午前零時。
夜の帳が下りた平和な街並みの静謐を、突然の金切り声が裂いた。寝静まった動物たちはその悲鳴に仰天し、慌てて草木を掻き分ける音が続く。
近隣に居を構える住民たちは、ある者は無視を決め込んでレム睡眠を貫き、またある者はカーテンを開き悲鳴の発生源を胡乱な目つきで眺めた。
この一帯の住人にとって、この類の騒音公害などは日常茶飯事だ。
気まぐれに窓の外を眺めた人間たちの視線が集中するその先にあるのは、とある一戸建て。
当然ながら、今回も舞台は佐無柄家である。
超音波のように甲高い叫び声を聞きつけ、ハロワマン・タクはのそりと布団から身体を起こした。最悪の目覚めだろう、顔をしかめて寝ぼけ眼を擦っていた。
「またか……」
指先で眉間を揉みながら、溜め息。
寝間着姿のまま廊下に出たタクは鈍重な動作で美貴理の部屋のドアノブを掴んだ。鍵はかかっていない。
そして、無言で扉を開く。
薄暗い室内。机に置かれたPCの電子的な光が、その正面に腰かけてタクに背中を向ける少女の影を浮かばせていた。
先刻の悲鳴は彼女――美貴理が発したものだ。ニートとして生活パターンが固定された彼女は、毎晩ネットゲームに精を出し、そして明け方に就寝する。近所迷惑を避けて部屋の照明を落としているのは結構だが、ゲームで興奮して奇声を上げるのでは意味がない。
そうして騒ぐ美貴理を沈黙させるのは、タクの役目である。うるさい美貴理の頭に拳骨を食らわし、無理やり黙らせる。さながら目覚まし時計と格闘する低血圧のように。
どっこい、今夜の美貴理はいつもと様子が違った。
普段ならばタクが足を踏み入れると狼狽して部屋から追い出そうとするのだが、現状美貴理が立ち上がる素振りはない。どころか、微動だにしない。
「どうした……?」
不可思議に感じたタクが一歩ずつ美貴理に歩み寄る。
彼女の隣に立っても動く気配はなく、恐る恐る肩を揺すると、
「うおっ」
そのまま体躯を傾がせ椅子から転落する美貴理に、意図せず驚愕の声を出す。タクが騒音を上げてはミイラ取りを笑えないが、それ以上に大事な問題が新たに発生した。
タクは倒れた美貴理を、介抱もせずじっと見下ろす。いや、愕然のあまり動けないのだ。
――なにがあった?
突如湧き出した疑問が脳を支配する。
美貴理は、口から泡を噴いて気絶していた。
唯一の光源であるPCの液晶が、普段と変わらぬネットゲームのウインドウが、ふたりを薄く怪しく照らしていた――
番外第二話〈騒乱! 濃澄純ニチ郎〉
「大変なんだ!」
夜明けとともに目覚めた美貴理は、開口一番にそう叫んだ。そして喉の奥底から細かく嗚咽を漏らしながら、ベッドの枕に顔を埋めて泣き崩れてしまう。
やや面長な輪郭を隠す前髪と枕の隙間から覗く瞳。平生は眠たげに細めているそれも、今は頑冥に閉じられ大粒の涙を滲ませていた。
そんな修羅場めいた様相の緊迫感を突き崩すのは、彼女の服装。いつも通りの高校時代のジャージだ。もう十九歳にもなると、部屋着にしても情けない。
――ここは美貴理の部屋。
気を失った彼女を発見した後、我に返ったタクは彼女をベッドに寝かしつけた。詳しい事情は後で聞こうと判断しての処置だ。
しかし、
「おぅ……えぐっ、ひっく……」
とても説明を求められる状態ではない。
年甲斐もなく赤子のように滝の涙を流す美貴理をしばし眺め、立ち上がる。
目鼻立ちの整った端正な容貌を心配そうに歪めていたタクは、なにやら双眸の奥に意志を固めると、甚平の裾を揺らして廊下側に向き直った。
「ちょっと待ってろ」
言って階下へと駆け降りていくタクを待つこと数分、彼は右手に美貴理お気に入りのマグカップを持って部屋に戻ってきた。
思わず上目で彼の行動を覗き窺ってしまう。
タクは屈んで、カップの取っ手を美貴理に差し出した。甘い香りの湯気立つホットミルクだ。
条件反射か無言でそれを受け取った美貴理は、緩やかに面を上げてミルクを啜った。あっという間に飲み干す。すると、多少は落ち着いたらしい。彼女の目尻はまだ赤く腫れていたが、ひとまず涙は鳴りを潜めていた。忘れがちだが、タクはできる男なのである。
改めてベッドの横に腰を降ろした彼は、美貴理の背中を優しく撫でた。
「落ち着いたか? ゆっくりでいい、昨夜なにがあったのか、具体的に説明してくれ」
「うん……」
どうにか冷静を取り戻した美貴理が頷き、机上に視線を送る。そこに鎮座するは、愛用のノートPC。
やはり原因はあれか……予想を覆さない美貴理のその動作に、タクは眉根を寄せた。
それに気づかず、美貴理は両目に複雑そうな感情を浮かばせた。愛憎の思いが混濁したような、濁った瞳。
たどたどしい口調で、しかし訥々と語り出す。
「実は……ネトゲに就職活動を奨励されたんだ」
――は?
美貴理の話した内容は奇怪で、常識的な視点では到底信じがたく、そしてくだらなかった。
話題の中心となるネットゲーム、その名を〈Stairs to heaven(天国への階段)〉という。大衆的にはステヘブと略されることが多い。
ステヘブはここ一年でゲーム業界に激動を巻き起こし、瞬く間に頂点へと君臨したMMO(大規模多人数参加型)ゲームである。ジャンルはアクションRPG。
他のMMOとステヘブ、最大の違いは課金制度の重要性だ。
ステヘブは課金によって生じるユーザーごとの力量差が極端に少ない。そのため、資金源の少ないユーザーから爆発的な支持を獲得していた。
金がなくとも、時間と情熱さえあれば劇的な実力を得られる――この特長は、暇を持て余した数多のニートを引き寄せた。当然、美貴理もそのひとりだ。
彼女含め大量のニートが参加するステヘブは、昼夜問わず画面を埋め尽くさんばかりにユーザーに満ち溢れ、現実世界で退屈に塗れた人間たちに夢と希望と穀潰しの称号を与えていた。
――が、問題はここからだ。
本日深夜零時、このステヘブのゲーム運営がとあるキャンペーンを開始した。
それが美貴理の言った“就職活動”である。
具体的には、ハローワーク窓口にてゲームの強化アイテムのデータを配布する、というものだ。窓口に直接出向いたユーザーのメールアドレスにアイテムが送信される仕組みとなっている。
そして運営より情報提示されたそのアイテムが、また強いこと。正直、これまでのゲームバランスを容易く崩壊させそうなほどだった、というわけだ。
「ハローワークにいけ、だなんて無茶な……」
ひとしきりの説明を終えた美貴理が、精神的に憔悴しきった口調で呟く。
その不満は至極当然だ、ニートは時間に余裕があるからこうやってネットゲームに執心しているというのに、ゲームのために職探しの場に赴くなど本末転倒だ。ハロワ側とて、格好の餌を目の前にしてアイテムだけ受け渡してさようなら、なんて真似をするとは到底思えない。
「あたし、どうすりゃいいのかな……」
再び視線を足元に落とす美貴理。
彼女は、その問いかけに解答を期待してはいなかった。ただ唐突に現れた理不尽に対する愚痴を、誰かに聞いてほしかっただけ。
胸中では、名残惜しいがゲームへの執着を捨て、惰眠をむさぼる生活に返り咲こうかと思案していた。
つまり、ステヘブ引退だ。
「――って」
しかし、ふと美貴理は自らの失態に気づいた。
自分が弱音を吐いている相手、洗いざらいの事情を説明した相手――
タクはハローワークの職員だ。
途端、背筋から大量の冷や汗が湧き出てくる。確実に相談する対象を間違えた。
美貴理の社会復帰のために派遣され、熱心に指導するタクは誰より美貴理の就職活動を望んでいるはずだ。そんな彼からすれば、この状況はむしろ垂涎の的だろう。
これを好機と睨み、最早アイテムなど関係なしにハロワへ向かえと命令されるのではないか……
――嫌だ! あったかい布団とゲームと漫画がない環境に出向くなんて、あたしに死ねって言うのか!
内心で震え上がり、恐怖に慄きながらタクから一歩ずつ後ずさり、
「なぜ逃げる」
「はあぁ!」
不審そうに詰め寄るタクに、意図せず黄色い悲鳴を上げた。身体にぶつかったテーブルが揺れ、空のマグカップが倒れる。その存外に艶めかしい声音に、むしろタクの方が尻込みしてしまう。
「あ、朝っぱらから妙な声を出すな!」
「だって……だってタクがあたしに酷いこと……」
「なに言ってやがる⁉ それ以上はやめろ、近所に聞かれる!」
いたいけな女性を壁に押さえつけ、強引に口を塞ぐ――この場面だけ切り取ると、まるっきり変態の手口である。
社会的な存亡をかけた攻防に、タクは荒い息を吐いた。一瞬の取っ組み合いでまさかここまで疲弊するとは。
「落ち着いて……落ち着いてくれ。おまえは錯乱しているんだ」
半分は美貴理に、半分は自分に言い聞かせる。そんなタクの台詞に、ますます美貴理は震えあがる。
「いや……そんな酷いことされたら錯乱もするよ……」
「だから! 酷いことってなんだ!」
慟哭するタクに対し、怯えて耳元に囁くような小声の美貴理。もし現状を他人に覗かれたら、タクはもう表を歩けないだろう。
「タクが……ハロワいけって……」
「は? ――あ、ああ、そういうこと……」
彼女の言葉でやっと誤解に気づき、タクはがっくりと項垂れた。
嘆息し側頭部を掻くタクを、不思議そうに見つめる美貴理。散々にこじれた糸をほどくため、タクは安心させるように微笑みを浮かべて言った。
「俺はハローワーク通いを強制するつもりなんてないよ」
そして、驚きに双眸を上げる美貴理の頭を撫でる。
「で、でもタクってあたしを社会復帰させるのが仕事じゃ……」
美貴理が困惑に目を白黒させる様子を眺め、タクは笑みをさらに深める。我が子を見るような、慈愛に満ちた瞳を携えて。
「俺が――そしてハローワークが目指すのは、『皆が等しく輝かしい労働の汗を流す未来』だ。渋々とこなす就労に意味なんてない。俺たちは多くの人たちに、はたらくことを楽しいと感じてほしいんだ」
「そうなの……?」
「ああ。ハロワマンの生みの親である濃澄純ニチ郎が説いた思想だ。俺も美貴理に指導するときは、いつもそれを念頭に置いている」
一切の不純物が混じらない誠実な眼差しが美貴理を射抜く。なぜか美貴理は胸の高鳴りを覚え、ぱっと目を逸らした。
「それに」
「そ、それに……?」
なおも二の句を継ぐタクに、美貴理自身もこの熱い感情の正体が掴めず、けれど胸裏に期待を芽生えさせて上目に彼の容貌を覗き――
「おまえじゃハロワの職員さんともろくに会話できないだろう」
「な……っ!」
瞬時にその期待は砕け散った。
待ち望んでいた台詞と現実の落差、そして自分が想像していた先の展開がいかに不埒だったかを自覚し、羞恥心のあまり全身が火照っていく。
盛大に混乱し、焦った美貴理が両腕を振り回しながら、とにかく意固地になって叫んだ。
「ば、馬鹿にすんな! 会話くらい簡単に――」
「ほう、では早速ハロワ仮面を呼んで来よう」
「――嘘ですごめんなさい知らない人怖いです勘弁して!」
世界の破滅のように悲痛な声を上げる美貴理に、タクはふっと息をついた。そして、また彼女の頭を優しく叩く。
「話を戻すが、とにかくゲームは楽しく遊ぶものだ。無理して強くなりたいなんて苦々しい面をしてするものじゃない」
「あ……」
その言葉は、まさに今の美貴理にとっては目から鱗で、ゆえに核心を突いていた。
ゲームは美貴理にとって大量に持て余した時間に安らぎを与えてくれる娯楽、だからこそ心底から美貴理はゲームが好きなのだ。異なる意見の者もいるだろうが、淡々と作業のように進めるならば、それに執着する理由も必要もない。
ようやく美貴理は、笑顔を取り戻した。
「……ありがと、あたしはあたしなりに楽しんでみるよ」
そうして再びステヘブの画面に向き直る。強化アイテムへの未練は完全に断ち切ったらしく、キーボードを叩く彼女の肩は嬉しそうに弾んでいた。
その背中を眺め、タクも安堵の吐息を漏らす。
しかし、
「なにか妙だな……」
眉間に皺を寄せたタクの不穏な呟きに、ゲームに夢中な美貴理が気づくことはなかった。




