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番外第一話〈回帰! 佐無柄家の血は争えないのか〉-3-



 仄暗い地下の一室、天井に照明機器がない代わりに、壁中を埋め尽くすコンピュータ画面が絶えず明滅を繰り返し、部屋の光景を薄く浮かばせていた。

 その部屋の中央に置かれたソファーに座し、電子的な光に横顔を照らされた男は、釣鐘のごとき重厚な響きの声で問いかける。

「――鼠は何匹かかった?」

 男の白髪が光を反射した。前髪は中心からきっちり分かれ、耳の前で外巻きにカールしている。そこから覗ける額や口元には深い皺が刻まれているが、不思議と年齢相応の弱々しさは感じられない。

 長年の経験によって洗練されたのであろう鋭い眼差しは、見る者に日本刀を連想させた。

 彼の尖った視線の先、部屋の片隅で画面の輝きを真っ向から受けるのは白衣の女性だ。指先で眼鏡を押し上げ、まるで書類を読み上げるかのように淡々と答える。

「総人口が約二万五千とすると、駆逐対象の数は六千ほどと推測されます」

「……ふむ」

 男は浅く頷くと、すっと瞼を下ろした。眉間に親指を当て、なにか思考するような仕草。

 電子機器の駆動音だけが静かに鼓膜を震わす沈黙の中、男は再び開眼し、厳かに告げた。

「ならば、まだ時節ではない。もうしばらく獲物を集め続けよ」

「では――」

「作戦決行はひと月後、一月二十八日だ」

 刹那、男の双眸に明確な殺意がよぎった。

「敵は小癪にも自陣に籠城し、我が国の貴重な資源を食い荒らす卑劣漢どもだ。くれぐれも油断はするな」

「――御意」

 女性は返事とともに男へ一礼し、踵を返した。そのまま扉を開けて薄暗い部屋を去っていく。一瞬だけ、廊下の光源が線になって室内に差し込んだ。

 その光が途切れるのを見送って、男は緩慢な動作で立ち上がった。

 唇が三日月形に歪む。

 そして――高揚し、歓喜に打ち震えた独白が、静謐を裂いた。

「ようやく……我が宿願が叶う……。国家の調和のため……消えてもらうぞ、逆賊(ニート)ども……!」

 彼こそが、日本国元総理大臣・濃澄純ニチ郎その人である。



 ★



「あ!」

 美貴理は思わず声をあげた。

 ベッドの上で安らかに寝息を立てていたタクの瞼が、不意にぴくりと動いたのだ。

 タクがゲーム中の哀れな事故で意識を失った後、美貴理は自分の肩を両手に抱き、白目を剥いているタクの身体を気遣うこともなく憤怒の形相で睥睨した。

 不幸な偶然とはいえ、やらかした大変なセクハラの烙印は消えない。美貴理が持つなけなしの女子力は、タクを敵として認識していた。

 そこに、絶妙に面倒臭いタイミングで卓が帰宅。そのときの時刻がちょうど午後一時だった。

 惨劇の現場に仰天する兄に、まさか一連の経緯を説明するわけにもいかない。脇腹を撫でられ、胸を揉まれたなんて、恥ずかしくて告訴しようがない。

 とにかくタクが床に伏したままでは問題だと、ふたりで彼の部屋まで運んで介抱した。そして、一体全体なにが起きた、と質問攻めをする卓に黙秘権を行使している最中のことだった。

「目が覚めたみたいだな」

 卓は彼を見下ろして表情を綻ばせた。美貴理の方は、一歩退いておっかなびっくりタクの動向を窺っている。

「むう、俺はいったい……」

 眉間を押さえてのそりと上体を起こすタクを正視できず、美貴理は慌てて目を逸らした。目が合えば、記憶が鮮明に蘇ってしまう。

 明後日の方向を見ながら顔を赤く染めた美貴理をぼんやりと眺めて、不思議そうに首を傾げるタク。

 事情を知らない卓は、頬を掻いてタクに尋ねた。

「なあ、俺がいない間になにがあったんだ? 美貴理は全然教えてくれないし」

「ん、ああ……」

 まだ意識がはっきりとしていないのか、タクは依然茫洋とした口調で、

「俺もなにがなんだか……。美貴理と一緒に部屋でゲームをしていたところまでは覚えているんだが……」

「え! 覚えてないの⁉」

 美貴理が驚嘆し、身を乗り出して叫んだ。

「う、うむ」

 引き気味に頷くタクをしばし睨み、美貴理は全身から力が抜けていくような溜息をついた。

 ……あの不埒な行動が記憶にないのは喜ばしいはずなのだが、なぜか複雑な気分だ。

 というか、以前もタクは美貴理に殴打されて記憶を失くしたことがあった。にも関わらず、その事実を気にする素振りは微塵も見せない。頭のネジが数本外れているのではないかと心配になってしまう(美貴理の拳がネジを外したという可能性は考えない)。

 しかし、美貴理にしても積極的に思い出したい話題ではない。彼が忘却したというのなら、下手に蒸し返さない方が賢明だろう。美貴理は、セクハラの事実を秘匿して、誰にも悟られないよう棺桶の中まで隠し持っていようと胸中で決意した。

「……まあいいよ。そういえば兄貴、セーカと出かけたんじゃなかったの?」

 卓の方に視線を戻し、強引に話を切り替える。

 実際、内心では気になっていたのだ。成佳に連れ去られた兄の安否と帰ってきた経緯。彼女の魔の手から逃れるのは一筋縄ではいかない、兄が帰宅するのは早くても明朝くらいだと予測していたのだが……

 唐突に話題を振られた卓は、

「え」

 表情が固まり、肩を小刻みに震わせ、恐怖心を露骨に表現していた。

 しかし首をふりふり平静を取り戻すと、どこか虚ろな笑顔で呟いた。

「――大丈夫、すべて解決したよ……」

「…………」

 不思議と昨日より頬がこけている理由は、詮索しない方がよさそうだ。どうやら兄妹揃って嫌な思いをしてきたらしい。

「ま、まあ俺の方はどうでもいいとして」

 卓は咳払いをして、ひとまずこの場の体裁を整える。あるいは、誤魔化した。

「にしても、タクくんの授業に間に合ってよかった。あの美貴理に新しい友達ができるくらいだ、ぜひ一度拝見したい」

「そんな立派なもんじゃないさ。でも確かに、そろそろ授業の時間だな」

 ようやく回復したらしいタクがベッドから降りて壁掛け時計に視線を投げると、一時半を回ったところ。今朝言っていた授業を始めるにはいい時間帯だ。

「じゃあせっかくだし、ここで授業を始めようか。美貴理、準備するから少しの間廊下に出ていてくれ」

「ほーい」

 溺愛される兄の期待もあってか、普段ならば駄々をこねる美貴理が素直に返事をした。軽快な足取りで踵を返し、卓とタクの部屋を後にする。

「……よっし、頑張るぞ」

 すこぶる貴重な気合いの入った美貴理の呟きは、残念ながら男性陣の耳には届かなかった。



「なんで授業の準備をするために美貴理が部屋を出るんだ?」

 手馴れているような美貴理とタクの会話を脇で聞き、卓は純粋な疑問を抱いて隣に座るタクに尋ねた。

 そして、仰天する。

「ってタクくん、なんだそれは⁉」

 タクは覆面を被っていた。黒一色で目と口の部分にだけ空気穴の空いている、強盗のような風情のマスクだ。身体を覆うタイツスーツと相まって、不審者度合いが三十倍以上に膨れ上がる。

「いや、今の俺はタクではない……」

 やたらと芝居がかった口調でタクが――いや、謎の覆面男が少しくぐもった返答をする。

「人呼んで、ハロワ仮面だ」

「――あ?」

 まるで要領を得ない意味不明な台詞に“まさかタクは気絶したせいで精神が倒錯してしまったのではないか”という疑問に駆られた。遂に服装だけでなく頭まで狂ってしまったか。意図せずタクに向ける視線が細くなる。

「……なにか失礼なことを考えているな」

「まあ否定はしないよ」

 間髪入れず答える卓に、タクは嘆息した。覆面男が肩を竦めるという光景は、いささか滑稽に見える。

「初めて見たら驚くだろうが、これも授業の一環なんだよ」

 自らの正当性を説くタク、しかし容易く信用はできない。むしろこの状況から他者を納得させる説明なんて、果たして地球上に存在するのだろうか?

 卓は疑念を持ちながら、とりあえずタクの台詞に耳を傾ける。

「これはコミュニケーション能力を育成する授業だ。美貴理は誰が見ても明らかな内弁慶、それもすこぶる重症だ。顔見知りとしか顔を合わせないような私生活を続けていれば、まず改善は見込めないだろう」

「……それで?」

「言葉のとおりさ。美貴理とハロワ仮面は赤の他人、俺と対話することでアイツの人見知りを直す」

「いや無理があるだろ!」

 余計にタクの株を下げる説明だった。神妙な顔(表情はわからないが)で説明するから、どんな深い事情があるのかと思えば、ただの茶番劇ではないか。

「大丈夫だ、覆面は毎回変えている」

「そういう問題じゃなくて……」

「おーい美貴理、もう入っていいぞー」

「人の話を聞け!」

 廊下に向かって声を張るハロワ仮面に、卓は全力でツッコんだ。

 美貴理が扉を開ける。瞬間、彼女とハロワ仮面の視線が交錯した。

「「…………」」

 無言。なぜか緊張感溢れる空気に、卓も思わず固唾を呑んで見守ってしまう。

「どうも初めまして、ハロワ仮面です」

 怪しげな覆面と名前とには不似合いすぎる慇懃な口調で、ハロワ仮面が挨拶をした。

「あっ……」

 すると美貴理は急に俯き、視線を左右に走らせた。挙動不審な態度、明らかに緊張している。彼女の動悸が部屋中に響き渡るようだった。

 やがて、ぽつりと小さな声で、

「どどどどうも、初めまして……佐無柄、美貴理です……」

「嘘だろ⁉」

 重苦しい空気に負けてつい叫んだのは卓だ。もし美貴理がこのハロワ仮面を他人として認識しているのなら、もはや内弁慶以前の問題な気がする。

 しかし驚愕する卓そっちのけで、ハロワ仮面は被った覆面を片手で剥ぎ取り、タクの素顔を晒した。その容貌は晴れやかな、爽やかな笑顔。双眸が感動にキラキラと輝いている。

「やったぞ美貴理! 初めて自己紹介ができたな!」

「あっ! タクだ!」

 美貴理がタクの顔を指差して叫ぶ。どうやら本気でハロワ仮面の正体に気づいていなかったようだ。

「長かった……。今まではハロワ仮面に声をかけられた直後にケータイを投げたり枕を投げたり置いてあった広辞苑を投げたりして、その上加害者のくせに階下まで逃亡していたのに……」

 目尻の涙を拭い、さらっと物騒な回想を挟むタク。彼も彼なりに苦労しているらしい。

「えへへ」

 褒められて顔を赤く染めた美貴理が小さくはにかんだ。照れる表情はなかなか愛嬌があってかわいらしいが、普通なら照れるような場面ではない。

 そして美貴理は、驚嘆を通り越して呆れる卓の服の裾をぎゅっと握った。上目遣いに彼を見て、ぼそっと囁く。

「頑張れたのは、兄貴がいてくれたから……」

 その言葉と視線を受け、卓は一瞬瞳を見開き、しかしすぐに僅かに口角を上げて微笑んだ。


 ――そうか。


 今さらになって気づかされる。

 一般人が見たら阿呆らしいかもしれないが、これが美貴理の努力の結果だ。しかも自分を頼ってくれて得た成果――ならば、もう兄としては感極まるくらいじゃないか。

 方向性はどうあれ、妹の努力に異議を唱え無下にするような兄など、この世に存在しないのだから。

 だから卓も、彼女の頭を優しく撫でた。

「よく頑張ったな、美貴理」

 情愛に溢れたその仕草に、美貴理はくすぐったそうに目を細める。

 窓辺から差し込む柔らかな日差しが、彼らの背中を照らした。その温かい光を受けて三つの笑顔が花開く。そんな冬の午後の、昼下がりだった――



 それからも美貴理、タク、そして卓の三人は平穏で他愛ない日々を過ごした。なんら起伏もない、けれど愉快で充足した日常。

 美貴理は四六時中ぐうたらして一瞬たりとも外気に晒されずいたし、タクは馬に念仏ならぬ美貴理に説教を執念深く続けたし、卓は穀潰しの愚妹を盛大に甘やかした。

 途中に新年の幕開けという一大イベントもあったが、大方の予想通り見事なまでの寝正月、普段の平日と変わりない生活だったので、そのときの様子は割愛。卓の貞操を巡る成佳の強襲も同じく。

 とにかく、ごく僅かな騒動を除いて、美貴理たちは平和を満喫した。

 しかし“楽しい”という感情は、時間の流れを加速させる。

 そうして心構えや覚悟も整わぬうちに、卓との別れの日は訪れた。大学の冬季休業が終わったため、寮に戻らなければならないのだ。

「本当に帰っちゃうの……?」

 晴れ渡った正午の快晴の下、佐無柄宅の玄関先に立ち、目尻に涙を浮かべた美貴理が尋ねる。

 この場に居合わせるのは、美貴理とタク、帰り支度を済ませた卓だけだった。両親は仕事で出かけていただが、早朝に別れの挨拶はしていたらしい。

「ああ、そろそろ来期の準備もしなくちゃいけないしな。年末年始は楽しかったよ、美貴理」

 別離を惜しんで表情を歪めた美貴理とは対照に、明朗な笑顔で白い歯をこぼす卓。

 その裏表のない無邪気な台詞に、しかし美貴理の心はちくりと鋭い痛みを覚えた。

 別れに涙は似合わない――とは言うが、別れに対しての未練が一切窺えないその言葉は、笑顔は、少し淡泊すぎるのではないか。美貴理は、こんなにも悲しいのに。寂しいのに。

 複雑な心境で俯く美貴理の横顔を、タクと卓は不思議そうに見つめ――

「おっと、悪い。電話だ」

 不意にそう言った卓は、ポケットから取り出した携帯電話を耳に当て、ふたりに背を向けた。そして、気さくな口調で通話の相手と語り出す。

 その背中をじっと眺めて美貴理は、

「ねえ、タク……」

「ん?」

「兄貴はあたしのことなんて、どうでもいいのかな……?」

 震える声で、呟いた。

 唐突な問いにタクは怪訝そうに眉を顰め、呆れたように答える。

「なにを言っているんだ、そんなわけないだろう」

「でも……」

 一瞬、美貴理の反論が途切れるが、彼女はすぐに二の句を継いだ。台詞の端々には悲痛な響きが滲んでいる。

「……離れ離れになるのを悲しんでいるのは、あたしだけだよ」

 言葉にすると、事実が余計に重くのしかかる。あえて背を向けていた鬱屈とした感情が、美貴理の胸中で首をもたげた。

 ――つまり、美貴理の中の卓ほど、卓の中の美貴理は大きな存在ではなかったということだろう。至極当然だ、狭い世界に閉じこもっている美貴理と違って、卓は自身で選択した道を迷わず歩いている。出来の悪い妹にかまってやる余裕などないのだ。

 ――当たり前のこと。

 そう、頭では理解できても、抑えきれない悲壮感が容赦なく胸を締めつける。兄に愛想を尽かされたという確信が、美貴理を絶望へと誘う。

 必死に堪えていた涙が、頬をすっと伝い……


「阿呆」


 タクが、美貴理の頭を小突いた。

「え?」

 予想外の行動に、美貴理がぽかんとしてタクの表情を窺った。

 彼は憮然として卓の背中へと視線を投げ、確固とした意志を以って告げる。

「卓くんは美貴理のことをちゃんと大事に想っているよ。それこそ、おまえが彼を想うのと同じくらい」

「じゃあ、なんで……?」

 ――信じられない。縋るように問いを重ねる美貴理に、タクは即座には答えなかった。しばしの沈黙を経て、ふっと瞼を下ろして嘆息する。

「照れ臭いから本人には言うな、と念押しされていたんだが……まさか泣かれてしまっては、やむを得ないだろう」

 自問自答するように呟くと、タクは膝を曲げて美貴理と向かい合った。正面から視線を交錯させて語り出す。

「俺は卓くんに、頼まれたんだ」

 卓が帰省してきた初日、その夜のことを――



 ★



「――帰ってきて早々、酷い目に遭ったよ」

 ベッドの端に腰かけると、卓くんが疲労に塗れた表情で肩をすくめた。

 俺が間借りしていた彼の部屋は、帰省中はふたりで共用することにした。居候の身として一度は遠慮したのだが、心優しい彼の計らいに甘えることにしたのだ。

 時刻は深夜零時を過ぎた頃合い。

 エロ本騒動による女性陣からの迫害は、卓くんに関しては完全にとばっちりだ。加えて、過去のエロ本所持がバレた相手は実妹である。彼の負った精神的ダメージが絶大であることは想像に難くない。

 事件の発端となった俺は、彼の隣に座って素直に頭を下げた。

「すまないな、俺が迂闊だったせいで」

「いいさ。同じ男として、気持ちは痛いほど理解できる」

 やや大袈裟に頷く卓くん。先刻まで初対面だったというのに、非常に社交的な気性なのだろう、台詞にも既に他人行儀な態度は見られなかった。とても美貴理の兄とは思えない。

「それにしても、あいつが元気そうで安心したよ」

 面を上げた卓くんは相好を崩し、部屋の扉の方に双眸を据えた。向かい側には、美貴理の部屋がある。

 その容貌があまりに優しく穏やかだったので、俺は無意識に呟いていた。

「好きなんだな、美貴理のこと」

「ああ」

 一切の照れのない首肯。瞳を細め、彼は言葉を紡いだ。

「昔っからあいつは、俺のことを慕ってくれてたからな。まったく、兄冥利に尽きるよ。――でも、だからこそ俺が家を出るときは不安だった。美貴理は俺なしで大丈夫なのかなって。悪い表現をすれば、あいつは俺に依存しきってたから――」

 そして語られる、兄妹の思い出。

 俺は無言のまま彼の独白を聞き、視線で続きを促した。妹想いな兄の追憶を邪魔するほど無粋であるつもりはないし、俺自身、話の内容には興味があったからだ。そして、あの自堕落娘に帰省を祝ってもらえるような、卓くんという人間のことにも。

「今日もさ、本当は美貴理が心配で帰りの予定を早めてきたんだ。俺がいなくなってから、引き籠もりに磨きがかかったとか、セーカちゃんとも疎遠になったとか母さんにいろいろ電話で聞いてたからさ。……正直、ハロワマンに指導を頼んだって聞いたときも、上手くやっていけるとは思えなかった」

 そこで卓くんが言葉を止め、俺と視線を交わした。

 彼の微笑みにつられて、俺もつい口元が綻んだ。ふたり笑顔で向かい合い、同一の“彼女”を想起して言葉と意志を酌み交わす。

「美貴理は成長したよ。少なくとも、俺が初めて出会った瞬間よりは」

「そうだな。一年間置き去りにしちまったけど、まさかセーカちゃん以外に気の置けない友人ができていたなんて、想像だにしなかった」

 語る卓くんの双眸には、なにが映っているのか。きっと、正面に笑う俺の顔ではないのだろう。

 美貴理がこの世に生を受けたときから、彼はその隣にいたんだ。美貴理の兄として、さんざん世話を焼いてきたんだ。誰よりも美貴理の怠惰を心配し、誰よりも美貴理の成長を喜んでいるんだ。

「あいつは強い子になった。もう、俺がずっと傍で支えてあげる必要はないんだ。俺以外にも――いい仲間がいる」

 不意に、卓くんが腰を上げた。

 かと思えば、そのまま床に膝をつき――


「これからも、妹をよろしくお願いします」


 三つ指立てて、頭を垂れた。

 仰天して目を剥いてしまう。新しくできた友達に、その初日から土下座されるなんて前代未聞だ。

 堅苦しすぎる日本人最大級の礼儀に、どうにもむず痒くて「よしてくれ!」と叫びたくなる。平生の自分ならば、即座に実行していただろう。

 しかし、俺は今日、卓くんの心底を垣間見た。

 ――彼の真剣な気持ちから目を逸らすな。茶化すなんてもっての外だ。

 だから俺は刹那の間、表情から笑みを掻き消した。

 ゆっくりと上半身を起こす卓くんを見据え、大仰に頷く。

「承知した」

 そして、男たちの金剛石より固い握手が交わされた。



 ★



「兄貴がそんなことを……」

 自分の知らないところで展開されていた男の密談を聞き、美貴理は呆然と呟いた。

「ああ、彼は尊敬に値する男だ」

 タクが神妙に頷き、ふたり揃って卓の広い背中を見つめる。

 酷く遠くにあると錯覚してしまったその背中、けれど本当は手を伸ばせばすぐに触れられる距離にあった。過去も現在も、兄はずっと影ながら自分を支えてくれていたのだ。

 胸中にわだかまる黒い感情の渦が、浄化されていく。

 安堵に表情を緩ませる美貴理の肩を、タクが優しく叩いた。

「自覚するのは難しいかもしれんが、おまえも成長してる。だから卓くんも、安心して大学に戻れるんだ、断じて美貴理のことを“どうでもいい”なんて考えちゃいない」

 その台詞に、次第に美貴理の中で、覚悟が固まっていく。ずっと全身を預けてきた兄と、決別する覚悟。

 別れは辛い、それこそ前田のなんだかよりも当然だ。

 だが、遠く離れていても気持ちは変わらない。美貴理は卓を想い、卓もまた美貴理を想う。心同士で繋がっているのになお寂しいなんて、贅沢な話だ。

 卓は美貴理を信じて、笑顔でここを去るのだ。ならば、泣くことは、兄の信頼を裏切るのと同義。

「また心配かけないように、笑顔で見送ってあげよう」

「――うん!」

 だから、美貴理は勢いよく顔を上げ、涙を吹き飛ばした。

 丁度電話を終えたのか振り返る卓の瞳を、美貴理は真正面から見据えた。先ほどまでとの唐突な態度の変化に、困惑して首を傾げる卓。

 構わず美貴理は一歩近づき、満面の笑顔を花咲かせ、

「兄貴、また会おうね!」

 ぎゅっと、大好きな兄の手を握った。

「……もちろん」

 そのひと言で、凝縮された感情がすべて伝わったのか、卓も慈愛に満ちた双眸で微笑み返す。燦然と照る太陽の光で、その容貌はことさら綺麗に映った。

 しばし手と手でお互いの体温を交換していると、不意に卓が失念していたように呟いた。

「そうだ。最後にこれ」

 肩に提げたバッグから取り出したのは、新品のポラロイドカメラ。撮った直後に自動で現像してくれる種類のものだ。

 思い出を形にして残そう、ということだろう。美貴理は表情を輝かせて尋ねた。

「みんなで記念撮影?」

「いや」

 しかし卓は首を横に振ると、笑顔を深めてこちらにレンズを向け――


「大学で寂しい思いをしないため、美貴理の写真がほしいんだ! 百枚くらい」


「……は?」

 絶句。

 突然の意味不明な台詞に、脳の処理が追いつかない。それはタクも同様らしく、愕然と大口を開いて、きらりと奥歯を光らせる卓に視線を突き刺している。

 瞬時に凍りつく空気に負けじと――というか気づかず、意気揚々と兄は語る。すこぶる情熱的に、狂気的に。

「いやー、実は去年帰省したときも、実家のアルバムから何枚か焼き増して財布に常備していたんだけどな。この一年間で酷使するあまり色が薄れて、表面が傷だらけになって、端っこが焦げついてしまったんだ。それで、せっかくだから元気に育った今の美貴理の写真がほしくて」

「どうすれば写真がそんなことに⁉ 具体的な用途を教えて!」

「いいぞ美貴理! ツッコむ瞬間の迫真の表情、いただきましたぁ!」

 心底からの問いを無視して連射されるシャッター。カメラから吐き出される強烈な光が、驚愕に目を剥く美貴理の顔を照らす。

「あ、兄貴! だからその写真で一体なにを――」

「いいねぇ、いいよぉ。大声で叫んでいる美貴理もたまんないぜ」

「話を聞けえぇぇぇぇ!」

 絶え間なく連続する絶叫とシャッター音が、近所一帯への騒音公害すら危惧されるレベルで響き渡る。

 そんな混沌とした状況の渦中で、タクは絶望と諦念に染まりきってやつれた表情で、頭を抱えて呟いた。

「やはり佐無柄家の……変人の血は、争えなかったか……」







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