第一話〈襲来、ハロワマン!〉-1-
そこは、外界との繋がりの一切を絶たれた空間だった。
部屋の扉はもちろん、唯一ある小窓も閉じられている。さらに厚地のカーテンが、まるで太陽を拒絶するかのように窓を覆っていた。
それでいてなお間隙を縫って侵入してきた日光が、向かいに置かれたベッドを照らす。
「ん、うぅ……ん」
ベッドから女のくぐもった呻きが漏れた。布団がもぞもぞと蠢く。
薄い毛布を剥ぎ取り中から姿を現したのは、やはり女性だった。
女性は上下とも濃紺のジャージを着ており、その左胸には“菅津高校 佐無柄”という刺繍が施されていた。
彼女がこの部屋の主だ。
大きく伸びをしてゆるゆると立ち上がった彼女は、カーテンに手をかけた。
「うあ、眩しっ」
勢いよくカーテンが開け放たれ、突然飛び込んできた秋晴れの太陽光に眉を寄せる女性。
しばらくすると目が慣れたのか、彼女は窓の外に広がる空を見上げた。
「んー、いい天気だ。絶好の散歩日和だね」
肩口で切り揃え、前だけは長く伸ばした髪をかきあげながら言うと、彼女は慣れた手つきで――
ノートPCを開いた。
なにか呪文のように呟きながら素早くキーボードを叩き始める。
「この絵師、ブログ更新が遅いんだよなぁ。一か月放置とかデフォだし――って更新されてんじゃん! 待たせるぶん、やっぱりいい絵描くね! さてさて、こっちもチェックしなくちゃ……」
………………。
PC画面の右下には“13:30”と表示されていた。
彼女の部屋には、どこにも教科書類や学生鞄はなかった。
実は彼女、昨日は睡眠と食事、そして現在と同じ状態だけで一日を終えていた。
佐無柄 美貴理。十九歳。
大方の予想通り、ニートである。
第一話〈襲来、ハロワマン!〉
「はぁ⁉」
美貴理は仰天していた。
ここは佐無柄宅の居間。現在、彼女は母とふたりで昼食を食べている。確認するまでもないが、テーブルに並べられた料理はすべて母が作ったものだ。
彼女の驚愕は、呆れ顔の母のひと言がきっかけだった。
「あんたもそろそろ、社会に出なさいな」
なんということだ!
誰より自分を理解してくれているはずの母の、家族の非情な宣告。
美貴理は社会に出ることができないからニート生活をしているというのに。
口に含んだチャーハンを噛まずに呑み込み、美貴理は勢いのあまり立ち上がって反論した。
「働くとか絶対に無理だから!」
握り拳でテーブルを叩く。味噌汁がこぼれて、慌ててティッシュで拭いた。和食なのか中華なのかよくわからない食卓。
「あたしに労働なんてできると思う?」
諭すように問いかける。
労働と自分の接点など、どうにもしっくりこないらしい。
「だから大学でも専門学校でもいいから行きなさいよ。でなきゃ高校まで通わせた意味がないでしょうが」
「そんなのどうせ長続きしないもん。授業料とかもったいないだけだから却下」
美貴理は間髪入れずに答えた。母は渋面を崩さず、大きく溜め息をついた。
「あのねえ……お父さんが一生養ってあげられるわけじゃないんだから……。いつかは働かなきゃいけないのよ?」
今度は母が諭す口調だ。
「ぐっ……!」
言葉に詰まる美貴理。
母の言うことは正論であり、また、彼女自身の最大の懸念でもあった。先のことなど考えたくはない。けれど考えなければならない。不安と心配が不協和音を奏でる。
しかしここで屈してはいけない。この口論で負ければ、行き着く先は社会(地獄)だ。
「お、お母さんだって働いてないじゃない! 自分のことを棚に上げておいてよく言うよ!」
焦って口を衝いて出た意見だったが、なかなか理に適っているじゃないか。美貴理は胸中でほくそ笑んだ。
が。
母はただ目を丸くして、言った。
「あんた……扶養って知らないの?」
「ふよ、う……?」
オウム返しに呟く。
ふよう――聞き覚えがない。いや待て、ふよう、ふよう、フヨウ――
「――不要?」
涙が出かけた。
「酷い! お母さんてば、あたしのことそんな風に思ってたの⁉ 泣くよ⁉」
「な、なにを言ってんの、あんたは!」
椅子に座ったままの母に縋りつく。迷惑そうな顔だ。美貴理は自分の考えを確信してうなだれた。
「……死にたい」
「あんたの死にたいは聞き飽きたよ。よくわからないけど、親に歯向かうのはもっと語彙を増やしてからにしなさい」
やっぱり酷い。今度こそは本気なのに! ……で、ゴイってなに?
美貴理が絶望に打ちひしがれていると、
「あんたが自分から動かないのはよく知ってる。だから勝手にハロワマンに申し込んでおいたわよ」
――ハロワマン?
耳慣れない単語を聞き、美貴理は首を傾げた。
それを知ってか知らずか、母は淡々と続ける。
「明日にはもう来てもらうからね。準備しときなさい」
最後に、お粗末さま、と手を合わせて食器を流し台に片づける母。
美貴理はなにも言えず、おぼつかない足取りで部屋に戻った。
結局、美貴理が死ぬことはなかった。
★
「まさかお母さんまで敵に回るなんて……。お父さんは元から自宅警備に反対だし、兄貴は大学の寮でひとり暮らしだし――どうしよう……」
自室のベッドに丸くなりながら、美貴理は誰に言うでもなく呟いた。
働くという選択肢は、ハナから彼女にはない。考えるべきは、いかにして母の戦術を打ち破るかだ――それも働かずに。
美貴理を裏切った(と、彼女は思い込んでいる)母がどんな策を弄してくるのか、それすらわからないのでは美貴理も対処のしようがないのだが……
熟考するが、見当もつかない。
このままでは、ろくな対策もなしに正面切って戦う羽目になってしまう。しかも相手は卑怯な大人だ。闇雲に逆らっても結果は見えている。
――だが、ヒントはあった。
「ハロワマンって、なんだ……?」
その閃きが、美貴理の身体中へ次々に血液を循環させた。頭が高速で動き出す。全身にやる気がみなぎっていく。
勉強机の前に移動、PCを起動してGoogleを開く。“は”と一文字を入力しただけで候補の最上部に“ハロワマン”と表示された。
「……よし」
検索を押すと、真っ先に眼前に飛び込んできたのは、ハローワークの公式ホームページだった。見たくもない名前に美貴理は顔をしかめる。
当然そこは素通り。直下の項目はこれだった。
“ハロワマン・ハロワレディ制度――Wikipedia”
美貴理は小さくガッツポーズをした。
正確な情報を得るのにWikipediaはうってつけだ。
恐らくハロワマンとは、これの略称なのだろう。
すかさずそこをダブルクリック。一秒の読み込みの後に表示されたのは、次のような内容だった。
“ハローワークマン・ハローワークレディ制度とは、20XX年に日本国政府によって定められた法律である。一般的にはハロワマンと省略される。
~(中略)~
具体的な法の内容としては、非正規労働者・非労働者本人及びその扶養者の申告を受け、ハローワークが指導員を派遣して彼らに社会進出のための教育を施す、という制度である。
昨今のニート問題への有力な解決策として、濃住政権の法案で数少ない高評価の政策である。
~(以下略)~”
「ちょw おまwww」
その内容に、美貴理は愕然とした。
いわばそれは、就職活動を学ぶための家庭教師のようなものだ。相違点といえば、こちらは国の制度であるため、指導員への謝礼金は税金によって賄われることくらいか。
ニートの親からすれば、いいこと尽くめのその政策。
――だが!
「し、洒落にならんでしょ……。濃住純ニチ郎、なんて恐ろしい男なの……」
彼女は、それを知り顔面蒼白になっていた!
なぜか? そう、そこにはニートにしか理解し得ない不文律が隠されていたのだ。ものすごいくだらない不文律が。
「家でゴロゴロしてたら“敵”が来る。“敵”から逃れようとすれば外に出る――すなわち自宅警備の任を放り出すことになってしまう……八方塞がりじゃんか!」
説明せずとも、美貴理の嘆きがすべてを教示してくれた。誰も知りたくなどなかったのだが。
彼女がそれを受けてどんな行動を取るのか、次はみんなで予想してみよう。参考までに、基本的な解答例をいくつか挙げておくぞ!
★
解答例1
「部屋に鍵を取りつけてしまえ! そうだ、ここは要塞――あたしだけの要塞だ!」
解答例2
「今こそ偉大なる先人たちの智慧を借りるとき! “ハロワマン 攻略法”で検索!」
解答例3
「こうなれば最後の手段……お母さんに土下座だ。全力のジャンピング土下座で誠意を示せばきっとわかってくれるはず」
解答例4
「あたしが悪かったです、更生して真面目な社会人になります……」
解答例5
「鬱だ、死のう……」
★
さあみんな、答えは出たかな?
それでは正解を見てみよう!
「まあ、なんとかなるでしょ」
この体たらくである。
彼女の中ではもうこの問題は解決したのか、美貴理は歌を小さく口ずさみながらニコニコ動画のページを開く(ちなみに現在は平日の昼間である)。
数分と経たないうちに、部屋の中は下品な笑い声で満ちた。美貴理の声だ。自身のマイリストでお気に入りの動画でも見ているのか、それとも新作の面白動画でも見つけたのか。些末な問題だ。これから彼女を待ち受ける日々と比べれば。
そして、楽しい時間はそう長く続かない。
あっという間に日は落ち、月が昇り、そしてまた日が昇る。
今日、ハローワークマンが佐無柄家にやって来る。