番外第一話〈回帰! 佐無柄家の血は争えないのか〉-1-
事件が起きたのは、師走のある晴れた午後、ハロワマン・タクが自室のベッドに寝転がり漫画を読みふけっていたときのことだった。
「――ん?」
暖房の熱が部屋から抜け出るのを感じて顔を上げる。開かれた扉の前に仁王立つは、我らが自堕落娘、美貴理だ。
その姿を見て、意図せずタクは跳ね起き、じりじりと後退した。
無理もない、眼前の彼女はどこか異様な雰囲気を醸していた。興奮しているように荒れた息、部屋を見回す猛獣の瞳……普段の彼女からは到底想像できないほど活動的な、凶悪的な迫力だ。ニートなのに。
「ど、どうしたんだ……」
動転する気を抑えて、努めて冷静な口調で問いかける。が、美貴理からの反応はない。ただ無言で室内へ歩を進めると、不意に――
「あぁ⁉」
棚にうず高く積まれた漫画をすべて叩き落とした!
「ななな、なにをするか!」
傍若無人はまだ終わらない。タクの制止の声も聞かず、今度は押し入れを開けると、中の布団を放り投げ、机に置かれた私物を薙ぎ払っていく。
こうなると、もはや彼女の暴虐を呆然と眺めるしかできない。
美貴理が次に魔手を伸ばしたのは、タクが腰を抜かしているベッド。その下に潜り込み、ガサゴソと漁るような気配。
事態の深刻さに気づいた瞬間にはもう遅い。慌ててタクは素早く立ち上がるが、
「や、やめ――」
「うわああぁぁぁぁぁぁぁ!」
ベッドから顔を出した美貴理が耳まで真っ赤に染めて、やたらと肌色が多い雑誌をタクの顔面に投げつけた!
……エロ本秘蔵、発覚。
番外第一話〈回帰! 佐無柄家の血は争えないのか〉
「美貴理のお兄さまが帰省する?」
話を聞いて、タクは片眉を上げた。
「うん、明日の朝ね」
足の踏み場もないほど散らかりきった部屋の壁に背中を預け、美貴理が首肯した。窮屈そうに肩を縮め、伸びた前髪を指先で弄んでいる。平生は眠たげに細められた垂れ目(密かなコンプレックス)の眼差しも、今は所在なく彷徨っていた。
「年末くらい家族の顔が見たいんだって。それで、兄貴が帰ってくるなら、と思ってつい……」
尻すぼみに声は小さくなり、美貴理は口元に引き攣った笑みを貼りつけ、一層身を縮めた。
タクが佐無柄家に間借りしている部屋は元々、大学に通いながら寮生活をしている美貴理兄の部屋だった。美貴理の話によると、どうやら兄が帰省する前に室内を掃除したかったらしいのだが……
「……これが、掃除か」
対して、底知れぬ洞穴から響くような低い声音で呟くのはタクだ。
整えられながらも凛々しい眉、意志の強そうな瞳が印象的な好青年、といった風情だが、首から下の格好が奇天烈極まりない。ハロワマンの制服だという青の全身タイツスーツ、そして目の痛くなる真っ赤なマント……まるっきり変人の出で立ちである。
そんなタクが、眉間に皺寄せ憮然として首を左右に回し、部屋の光景を視界に収めていく。
散乱する衣服や雑誌、派手に捲れ上がった布団は破れて中の綿が飛び出している。雑務用と思しき大量の書類が、折れ破け無残な有様となってそこら中に落ちている。アレな本はそそくさとベッド下に戻した。
――惨状。
「今すぐ片づけなさい」
満面の笑顔――中途半端に怒りの感情が窺えない分、余計に美貴理の恐怖心を掻き立てる。
「え……」
「片づけなさい」
抑揚のない口調で、もう一度命令するタク。
「でも、部屋の掃除とか初めてだったからさ……、頑張りだけは認めてほしいというか、これも努力の結果というか――」
彼女のあまりに見苦しい言いわけを遮り、タクの腕が伸びた。万力で美貴理の両肩を掴み、顔同士を数センチのところまで接近させる。
表情は穏やか。しかし額の血管がぴくぴくと動いている。間違いなくご立腹である。
「片づけろ」
「は、はいぃ!」
美貴理は涙目で幾度も頷いた。
数分後――
結局、ふたりで散らかった部屋を元通りに整理することになった。
最初は美貴理に一任するつもりだったのだが、見事に失敗続きなので、このままでは永遠に終わらないと判断されたのだ。ああ、無情、無能。
「そういえばタク、この後ヒマ?」
美貴理が尋ねたのは、本棚から雪崩れた漫画を並べ直している最中のことだった。彼女は背表紙をきっちり揃えるタイプらしい。
無愛想なことに、タクは振り向きもせず作業に没頭していた。ベッドに腰掛け、引き千切られた布団の縫い目を修繕している。美貴理よりよっぽど小器用だ。
「無駄に大掃除なんて始めなければ暇だったかもな」
「う……っ」
ぐうの音も出ない。
「だが珍しいな、美貴理が俺の予定を聞くなんて。どうしたんだ?」
怒りを引きずるタイプでもない。表情を改めたタクが問うと、美貴理は照れくさそうに頬を掻いた。
「いや、せっかくだから兄貴のおかえりパーティがしたくって。できれば準備の手伝いとかしてほしいなって」
「断る。これ以上面倒なことに巻き込まれてたま――」
――るか、と吐き捨てる寸前に思い留まる。
そして予測する。もしも美貴理がひとりで準備をしたら、どうなるか。
パーティの準備、というからには自宅の居間で催すのだろう、壁や天井を飾りつけて料理を並べて……家庭でできる範囲ではこれくらいか。
この部屋の惨状を思えば、居間が壊滅する以外の未来が想定できない……タクは両手で頭を抱え、苦悩し葛藤した末に、
「……いや、手伝おう」
「本当に⁉ ありがとう!」
絞り出された暗鬱な返事に、瞳を輝かせる美貴理。
「じゃあ買い出しとか必要だよね……。わざわざ外出するのも面倒だし、トーコとか呼べる?」
張り切って鼻息を荒くした美貴理が、早速提案する。美貴理がやる気を出しても不吉な予感しか覚えないのだが。
トーコ――本名・白崎兎子。タクの先輩のハロワレディで、ウサギの着ぐるみを纏った年齢不詳のちびっこだ。とある事件を境に美貴理とも交友を持つようになり、現在ではこのように自宅に招くほどの関係になっていた。
「別に構わんだろうが……成佳さんは呼ばないのか?」
「あー……それは、その……」
疑問を投げかけるタクに、しかし美貴理は曖昧な表情を浮かべて頬を掻いた。
この企画の主役は美貴理兄だ。美貴理の高校からの友人である成佳ならば、ただのハロワマン仲間であるトーコよりも祝い甲斐があるのではないか……と、タクは思うのだが。
「実は……」
不自然に視線を逸らして美貴理が呟く。明らかに怪しい行動。臭いものに蓋を被せて放置したまま逃亡する体勢。
「兄貴とセーカにはちょっとした因縁があってね……」
「…………」
虚ろな瞳の理由が無性に気になったが、成佳の底知れない人格が唐突に脳裏をよぎったため、タクは深く詮索するのをやめた。触らぬ神に祟りなしである。
「と、とにかく、トーコは呼んでおこう。それにしても――」
「ん?」
兄のために一所懸命な美貴理を見ていると、不意に微笑ましい気分が訪れ、頬の筋肉を緩ませた。
「――美貴理はお兄さまが好きなんだな」
これまでの美貴理の様子から、タクは素直にそう感じた。そもそも、普通の兄妹では帰省したからといって大騒ぎにはならないだろう。
美貴理は唇を綻ばせ、邪気のない笑顔で頷いた。
「うん! 兄貴は世界一の兄貴だから!」
――瞬間。
タクの背筋を駆け抜ける、濁流のごとき悪寒。
なぜだ、彼女の瞳は純粋な煌きを宿している。怖気に震え上がる要素が一体どこにあろうか。
しかし、感じた戦慄は本物だ。
そしてタクは気づく。形容しがたい不安の正体、身体中から吹き出す冷や汗の原因に。
すなわち、類は友を呼ぶのだ。
美貴理が――こんな腐れ根性ナマケモノ小娘が懐くような人間が、果たして真っ当な人格者だろうか。
そして美貴理にしても成佳にしても、紛うことなき“変人”。そんな彼女たちと尋常ならざる関係性を持つ美貴理兄が、ごく普通の一般人である確証は――もとい希望は、とっくのとうに失われていた。
――また変な奴が増えるのか……
全身タイツスーツの自分を棚に上げ、タクはまだ見ぬ美貴理兄(推測変人)との邂逅に、一抹どころではない不安を覚えて嘆息した。
「え、なにその反応……」
心底からの笑顔を溜息で返された美貴理に、今回ばかりは同情する。
「ははは、なんでもないぞー。さあ、準備がんばるぞー」
「なんでもなくはないだろ絶対! なんでもうすっかり憔悴してんの⁉」
かくして、美貴理兄おかえりパーティの準備は始まったのだった――
トーコが頼んでおいた食材を調達してくれたのは、もう日が暮れる時分だった。話によると、野菜も肉もその他諸々も極上の品を揃えてきてくれたらしい。
「おじゃましまーす! お、部屋もいい感じだね!」
弾んだ声とともに、美貴理の視界でウサギの耳がぴょこぴょこと跳ねる。
美貴理の肩辺りまで視線を下げて、ようやく着ぐるみに包まれた童女の容貌が見える。これでタクと同じく、ハローワークに勤務する公務員なのだから驚きだ。
居間の入口ではしゃぐトーコの賛美を受け、美貴理もまた屈託ない笑顔で控えめな胸を張った。
「どうだ! あたしが用意したのさ!」
ふたりで見上げるのは、天井や壁一面を埋め尽くす色とりどりの折り紙飾りだ。輪っか状の紙を幾つも連結させた、至極ポピュラーなアレである。ちなみに、急遽おこなわれた居間の掃除や折り紙の購入は、すべて部屋の隅で真っ白に燃え尽きているタクの担当だった。理不尽すぎる役割分担。
とはいえ、飾りつけも出来上がりには程遠く、ところどころに不格好な隙間がある。まあ料理の下ごしらえも含め、悠長に作業しても、さすがに明朝には間に合うだろうから安心だが。
「ところでトーコ」
「ん? なぁに、美貴理ちゃん?」
完成も近づき心の余裕も生まれたのだろう、美貴理は椅子に腰かけて雑談の体勢になった。トーコもそれに倣う。
そして、にこにこと真夜中の太陽のように笑うトーコと対照に、美貴理は身を僅かに乗り出して、神妙な顔つきになり、
「実はタクの奴、ベッドの下にえっちな本を隠してやがっ――」
「ぐわあぁぁぁぁ!」
先ほどまで灰塵と化していたタクが瞬時に跳ね起きて、両手で美貴理の口を塞いだ!
「もぉごごごご」
「待て、待ってくれ! それ以上は言うな!」
「え、ホントに⁉」
しかし、時既に遅し、トーコは勢い余って立ち上がり、椅子を蹴倒して食いついた。丸い双眸がぎらりと光る。
「どんな内容だった?」
「それがね、表紙でグラマラスな姉ちゃんが色目つかばぼぼぼ」
「やめろ美貴理! 死んでしまう!」
盛大にもがいて一瞬だけ拘束から逃れた美貴理を、哀れにすら感じられる狼狽ぶりで再度押さえつける。もう、すべて手遅れだというのに。
「ふーん、グラマラスな、ねぇ……」
普段より三段階は声の調子が低いトーコの呟きに、タクの頬がひくつく。冷徹な視線が深紅のマントを射抜く。童顔のハロワレディは両手で隆起のない胸を押さえていた。
「い、いやトーコ誤解だ! 俺は決して巨乳趣味ってわけじゃないし、巨尊貧卑な思想など掲げていない……というか、女性に大事なのは胸じゃないんだよ! ……たぶん」
「ふんだ、どうせあたしはおっぱいちっちゃいですよー」
準備中のパーティ会場に突如として展開する修羅場、美貴理はしばし静観してふたりの会話に耳を傾けていた。
しかし、不意に自分の身体を見下ろすと、指先で胸部をなぞった。平坦ではないが、特別大きくもない、至極微妙なサイズの双丘。
美貴理は、大音声で弁解を重ねるタクの肩を掴んだ。
「アンタ最低だ!」
「なにぃ⁉」
第三者からの、突然の悪罵である。仰天に目を剥くタク。
「うん、やっぱり美貴理ちゃんはわかってるね」
「したり顔で頷くな! そして寄り添い合って陰口を叩くな! 『男ってみんなそう……』じゃない!」
「えーだってー」
「証拠はあがってるしー」
「「ねー」」
「ぐっ……女子ども……」
屈辱にタクが拳を震わせる。そもそも議題から男には不利すぎるのだ。粗末な体型(客観)の女ふたりを敵に回した時点で、彼は言葉で袋叩きに遭う運命だったのだろう。
四面楚歌の状況に涙を堪えていた、そのとき、
「はっ!」
タクは思わず声を出して左の掌を右拳で軽く叩いた。頭上に豆電球が見えそうなほど古典的なひらめきのポーズ。
「え……いきなりなに?」
美貴理は、そんな彼から若干距離を置いて怪訝な表情で注視する。
血走った眼に迫真の形相で、タクが人差し指を美貴理に向けた。
「待ってくれ、美貴理。実はアレ……お兄さまの私物なんだ」
「――え、兄貴の?」
「うむ」
仰々しく首を縦に振るタクに、美貴理は意図せず呆けて口を開けてしまう。いつの間にか、その場にいた全員が席を立っていた。
「……う、嘘だ! 兄貴がえっちな本なんて持ってるはずがない!」
「だが、事実は事実だ」
真剣な面持ちのタクの台詞を聞き、美貴理の表情に絶望がよぎる。実兄にどんな幻想を抱いているのか。とんだブラコンである。
「そ、そんな……」
全身から力が抜ける。そのまま床に崩れ落ちそうになる美貴理の肩を、脇からトーコが支えた。身長差が如実に表れる瞬間。
「ねえタクくん」
「む? どうした」
「もしそのえっちな本が美貴理ちゃんのお兄さんのものなら、なんでタクくんはベッドの下に隠してたの?」
「う……っ!」
今度はタクの顔が絶望に染まる番だ。
しかし、彼は気丈な姿勢を崩さず、頬を伝う冷や汗を拭った。表向きは平静を保った声音で説明する。
「お、俺がお兄さまの所有物を勝手に処分するわけにはいかないだろう。だから俺の私物と分けて、ベッド下に積んでいただけだ」
――乗り切った。
と確信するタクだが、依然としてトーコの疑念の視線は晴れない。
永遠にも思える数分間、彼らは見つめ合い――
「よし――」
俯いていた美貴理が不意に面を上げた。意志のある瞳――とは到底言い難い虚ろな双眸をタクに向け、同じく空虚な声音で、
「――全部燃やそう」
堂々宣言した。
「んな……っ」
驚愕に表情を歪ませたのは、タク。両方の腕を妙な角度に広げ、さながら前衛的な彫刻像のように硬直している。
しかし、腐ってもさすがハロワマン、瞬時に我を取り戻し、叫ぶ。
「待て、早まるな!」
「あれれー、タクくん、どうしてそんなに慌ててるの?」
「ひぃっ!」
なぜか背後から肩越しに現れたトーコの空々しい笑顔に、思わず悲鳴が裏返った。今にも失禁しそうだ。
無表情に半眼で睨みつける美貴理と、外見不相応に眉間に皺寄せながらも笑顔のトーコ、ふたつの視線が突き刺さる。
「なんてことだ、なんてことだ……」
半ば放心状態のタクは、ぶつぶつと呟いていた。
絶体絶命か、巨乳好きを代表して断罪されるのかと思われた刹那――
ピンポーン♪
空気にそぐわぬ、間の抜けた音で響くのは、玄関のインターホン。
それを好機とばかりに、両眼に光を取り戻したタクが踵を返した。
「来客か⁉ 俺が見てくうぉっぷ!」
「まだ話は終わってないよー」
が、超反応を見せたトーコに首根っこを掴まれてしまう。いくら足を動かせど、一向に前進しない。重心が前に傾いてタクは派手に尻餅をついた。格好悪い。
「こんな時間に、誰だ……?」
ただひとり、突然の来訪者に意識を向けた美貴理。テレビの上の時計を見れば、時刻は七時半、夕食時である。
自宅での甘美なひととき(美貴理は日がな一日家にいるが)を邪魔するなんて、どこのどいつだ――胸中で憤りながら、しかし次の瞬間には困惑が脳を支配した。
「あれ?」
耳朶に届いた扉の開く音。玄関の鍵が開いていたのか? そんな馬鹿な。
とはいえ、自宅の鍵を持っている人間は限られている。美貴理、タク、そして二階でくつろいでいる美貴理の両親だけ……
いや。
あとひとり。
「いやいや有り得ない……よな?」
例えようのない不安に襲われ立ちすくんでいると、突然居間のドアが開いた。
タクとトーコも、取っ組み合いを中断してドアの方向に目を向ける。
そこから、短髪の男が顔を出した。美貴理は呆然と大口を開ける。
「ミキ、ただいま――って、どちらさま?」
佐無柄家長男、佐無柄卓である。




