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第四話〈佳境、この少女働くべからず〉-3-



 美貴理が通された部屋はウサギに満ちていた。

 ぬいぐるみにクッションだけじゃない、カレンダー、カーテンやベッドの柄……とにかくウサギだらけだ。

 美貴理を招き入れてからトーコは部屋の隅に座り込んで黙ったままだ。彼女の小さな胸に抱かれたクッションのウサギが潰れて歪む。

 少女趣味丸出しの空間に慣れない美貴理は、視線を落ち着きなく左右に揺らす。

 しばらくそうしていたところで、美貴理は発見した。

 一メートルはあろうか、巨大なぬいぐるみがソファーを占有していた。つぶらな瞳が彼女を見つめる。

「あ、かわいい」

 何気なく美貴理が呟くと、

「ああその子! ねー、かわいいよねーぇ」

 今にも蕩けそうな笑顔をもって、トーコが甘い声で言った。呼吸を荒くしている。興奮しているのだろうか……?

 もの欲しそうにそのウサギを眺めていたのも束の間、トーコは高飛込の選手のように勢いよくソファーへ突進して、そのぬいぐるみを抱き締める。そしてグリグリ頬ずり。

 美貴理はドン引きしていた。

「あの……トーコさん?」

 困惑しながら声を絞り出すが、トーコの耳には届かない。うっとりとした表情でウサギの身体を撫で回すばかりだ。

 仕方ない。菩薩の心で美貴理は彼女たちの“秘め事”が終わるまで待機することにした。

 五分――十分――

「いやいい加減にしろ!」

 もう我慢の限界だった。

 トーコはそのツッコミを聞いて丸い瞳をぱちくり、我に返ったのか急に顔全体を赤く染めた。顔面の穴という穴から噴火しそうだ。

「あ……、その、ごめんなさい……」

 視線を泳がせて謝罪するトーコ。緊迫感が台無しだ。

 とはいえ張り詰めた空気が解消されたのはよかったのかもしれない。トーコとは喧嘩をしたいわけではないのだから。

 ソファーで俯いていたトーコは振り返り、

「……でもやっぱり、この子は特別かわいいよね!」

「うっさいわ!」

 ――前言撤回! 緊張感が足りない!

 わざとらしく溜め息を吐いて、美貴理は気怠そうに吐き捨てた。

「ほら。とっとと本題に入ってもらおうか」

 その瞬間、どこか茶目っ気を含んでいたトーコの表情が激変した。整った童顔が苦渋に歪む。

 彼女の長いまつ毛が瞳に影を落とす。

「悲しい、くだらない、話だよ……。それでも、聞く?」

 一句ごとに、まるで言葉が声帯を灼くように苦しそうな喋り口。

「もちろんだ」

 美貴理は即答した。彼女はそのためにここへ来た。

「教えてくれ。アンタがタクを捨てた理由を」

“捨てた”というひと言にトーコは一瞬身を震わせた。

 しかしすぐに平静を取り戻して、切なげに目を伏せた。

「……じゃあ、やっぱりタクくんから昔のことは聞いてるんだ」

「ああ」

 神妙な顔で美貴理は頷く。

 ふたりだけが共有していた記憶。場違いではあるが、それをタクから伝承されたことを、美貴理は誇らしく感じていた。

「でも、だからこそわからないんだ。あいつのことが好きなら、どうしてアンタは失踪なんてした?」

 僅かに前へ乗り出す。返答いかんでは、喉笛に喰らいつかんという体勢だ。隠しきれない怒りが肉体から滲み出ている。

 そんな美貴理を前に、しかしトーコの瞳に恐怖の色はない。むしろ、ふっと微笑んでみせた。


「想いを伝えちゃったから」


「……え?」

 その呟きの意味が理解できず、美貴理は訊き返す。しかし、言葉の内に秘められた哀愁は確かに感じ取れた。

「そのままの意味だよ」

 トーコは笑みを崩さない。なぜだかそれが深く、深く悲しい。

 困惑を頭に浮かべる美貴理に気づいたのか、トーコは「少し詳しく説明しようか」と尋ねた。無言で頷く美貴理。

「ハロワマン・ハロワレディは絶対的に人数が少ないんだよ。採用試験がやたら厳しいからね。でも依頼人はそうじゃないの。日本中でたくさんの人があたしたちの助けを求めている。少数の人材で対応するには、それこそ各地を駆け巡らなくちゃいけないんだ。だから、数多くの出会いもあれば、同じだけの別れがある」

「でもっ! そんなの理由にならない!」

 勢いだけで反論を口にする美貴理だが、根拠はあった。

 愛に距離は関係ない、と誰かが言っていた。遠距離恋愛も昨今ではよく耳にする。彼女たちも例外にはなるまい。

 しかしトーコは首を横に振った。

「ううん、違うの。離れ離れになることは問題じゃない」

 美貴理の思考を読んだように否定する。つまり彼女も、一度は考えたことなのだろう。

「あたしがタクくんの元を去ろうとすれば、彼はきっとついてくる。どこまでも、どこまでも、自分の将来を投げうってでも。彼はそういう人だから……。そんなの嫌だよ……、あたしはタクくんの人生を背負えるほど強くない。タクくんを絶対に幸せにする保証なんてできないもん……」

 その言葉で、ようやく美貴理は真実に思い至った。

 相容れないはずのトーコの意思を汲み取ることができた。

 彼女の言う通りだ。タクはトーコとの日々をなによりも優先するだろう。彼自身の未来よりも、世界よりも。

 タクの想いの強さは、美貴理もよく承知している。

 だからトーコは恐ろしかったのだ。人生の軌道を大幅に変更したタクを幸福に導けるのか。

 そうして脱線した彼の一生の手綱を握ることになるのは、トーコなのだから。

「あたしだって!」

 声を張り上げるトーコの頬には、大粒の涙がこぼれていた。

 今日は泣き顔ばかりだ。美貴理は思わず目を背けた。

「あたしだってタクくんと離れたくなかった! ずっといっしょにいたかったよ! でも駄目なの……、それじゃ、タクくんを束縛することになる……。大好きな彼から未来を取り上げるなんて、できるわけないじゃない‼」

 トーコは唾液を飛ばしながら美貴理の肩を揺さぶる。

 経緯はどうあれ、タクやトーコを泣かせているのは美貴理だ。彼女の身勝手な行動が悲哀の連鎖を引き起こした。

 美貴理まで泣きたくなるのは傲慢だ。自業自得である。

「いっそ、想いを伝えたりしなければよかった……、そうすれば、ずっといっしょにいられたのに……」

 涙と鼻水で盛大に顔を濡らすトーコ。

 彼女の声は後悔の念で満杯だった。

 小さく悲しげな肩が、雨の中で佇んでいたタクと重なる。

 ――どうせなら、トーコが一方的な害悪であればよかったのに。美貴理は意味のない仮定をした。

 それなら解決するのも簡単だった。トーコに説教をして、ふたりを対面させて、その後は彼らの納得できる答えを出せばいい。

 しかし現実にはそうはいかない。

 トーコの望みを叶えれば、彼らの人生は死ぬまで平行線だろう。それではタクは、トーコが自分を捨てたと誤解したままで、失意の内に一生を終えるに違いない。

 とはいえ、再会しても事態が好転するとは思えない。タクの念願の代償として、トーコはタクの一生を歪曲した罪悪感を永遠に強いられるのだ。そして彼女の不幸は、そのままタクの不幸でもある。

 なによりそれでは――


 ――タクが美貴理の前から姿を消す。


 それは美貴理の我が儘だった。

 しかし、だからこそ彼女にとっては最優先事項なのだ。

 トーコが本心ではタクに会いたいと思うように、

 美貴理もまた、彼とともにいたかった。

 その気持ちは、恋だった。

 美貴理はずっとタクに密かな想いを寄せていた。いつからかは、やはりわからない。そこも美貴理とタクの共通点のひとつだった。

 しかし彼女自身、そのことを自覚していない。だから強力な恋敵であるはずのトーコに塩を送る行為を続けているのだ。

 自分が“失恋”に向かって突貫していることを、彼女は知らない。

 知らないから止まれない。

 それが彼女の信念に基づいた行動、

 その結果である。

「――違うっ!」

 自分の肩を抱くトーコの瞳を見据えて美貴理は叫んだ。

 トーコの拳が一瞬震えて、しかしすぐに冷静に戻るのを肌で感じた。不毛な言い争いに過ぎない、と呆れているのかもしれない。

 それでも美貴理は闘志を絶やさなかった。

 以前の美貴理なら、とっくにすべて投げ出していた。トーコを説得することも、タクを元気にさせることも、トーコの勢いに気圧されて諦めていただろう。

 彼女は他人とのコミュニケーションが不足しているせいで、強気な態度にやたら弱いのだ。

 しかし今の彼女はこんな状況にも執念深く立ち向かっている。

 タクのお陰で変われた美貴理は、決意をしたのだ。

 ゆえに、この程度では、折れない。

「自惚れんな」

 低く囁いてトーコを睨む。

 その台詞にトーコは眉をひそめた。今、彼女の脳内では“自惚れ”の意味を辞書で探しているだろう。

 構わず美貴理は続ける。

「確かにタクの心はアンタでいっぱいかもしれない。アンタの正体を明かせば、それこそ寄生虫みたいにくっついて離れないだろうね。でも、あいつを大事に思う人間は他にもいるんだ」

 トーコをソファーに押し倒す。彼女は今、呆然と美貴理を見つめていた。彼女が、美貴理の気持ちを察したのだ。同じ想い人を持つ彼女だけが。

「あたしがいる」

「――っ!」

「あたしは絶対にあいつを手放したりなんてしない。いっしょにゲームしたり、喧嘩したり――外に出ることだって、いっしょにいれば楽しかった。あいつはあたしのハロワマンだ! あたしが働くまでずっといっしょだ!」

「それって……」


「あいつが――タクがどこかに行くって言うなら、あたしは一生働かない。両親のすねを齧って生き続ける」


「………………はい?」

 長い沈黙。

 最後の一生ニート宣言で、緊迫した空気が瞬時にして霧散した。しかし、真剣な声色と彼女のニートとしての慣れにより、その言葉は驚異の説得力を孕んでいた。

「いいか? タクは真面目だから仕事は最後までまっとうするはずだ。だけど肝心のあたしが働かなければ、あいつはこの街を離れることができない。つまりアンタと再会してもなんら問題ないってことだ。どうだ、この完璧な策。諸葛亮孔明と呼んでくれたまえ」

 ついでに、あたしが労働から逃れる理由にもなる、とつけ足した。酷く板についた悪人顔だった。

 トーコは呆気に取られて美貴理の演説を聞いていた。

 利己に走っているように聞こえるが、美貴理とトーコの目的に沿うならば、もっとも合理的な意見であるようにも思えた。なにせふたりは再会できて、タクの生活も安泰なのである。

「でも、それだとあなたが……」

 トーコがおずおずと呟く。

 働くこと。

 敬遠しながらも、いつかは対面しなければならない問題だと、美貴理はずっと考えていた。

 それは彼女自身の将来の問題であり、これまでの彼女が抱えてきた最大の懸念でもあった。

 しかし、美貴理の策を実行するならば、彼女は永遠に労働できないかもしれない。

 停滞していた人生を悪い方へと直進するのだ。

 齢十九の美貴理には、重すぎる決断。

「いいんだ」

 それでも美貴理は優しく微笑み、トーコの頭を撫でる。

「人の心配なんてしなくていいんだよ。アンタだって我慢してきたんだ。もういいんだよ。全部あたしに任せて」

 トーコに触れる手が熱くなる。

 どちらが抱えた熱なのかは、わからない。

「う……っ、うぅ……うわあぁぁぁぁ‼」

 トーコが大声で泣きながら美貴理にしがみついた。必死に防衛してきた、禁欲的ともいえるダムが、ついに決壊したのだ。

 さらさらした髪の毛が美貴理の横顔を愛撫してくすぐったい。

「まだだ。最後に決めるのはアンタだ」

 トーコの小さな背中を抱き締め、彼女の耳元で囁く。

 無自覚の失恋に胸を痛めながら、しかし言葉を絞り出す。

「タクから逃げ続けて心の片隅に一生癒えない傷を抱え込むのか、それともあたしを信じてタクと感動の再会を果たすか。簡単な二者択一だ。答えろ、白崎兎子!」

 しばしの静寂の後、

 トーコは嗚咽を呑み込み、はっきりと答えた。

「――タクくんに、会いたい……っ!」

 美貴理はもう一度だけ、トーコの柔らかな髪を撫でた。

「よく決めたな」

 そして少女たちは泣いた。

 とても温かい涙だった。







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