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第四話〈佳境、この少女働くべからず〉-2-



 雨は一向に弱まる気配を見せない。むしろその激しさを増しているほどだ。まるでタクの涙が雨を助長しているようだった。

 美貴理はタクの後を追った。とはいえ静観していた代償か、彼がどこへ行ったかはわからない。

 手がかりもなく、無意識に美貴理は帰宅していた。

 玄関の鍵はかけられたままだった。

 母はとっくにパートの仕事に出かけたようだった。佐無柄家の朝は(美貴理を除いて)早い。

 タクが帰ってきている保証はない。しかし宛もなく街中を捜索するのはあまりに面倒だ。

「おーいタク、いたら返事しろ」

 家の中をくまなく探す。タクの部屋、美貴理の部屋、居間、台所、トイレ、風呂、物置、新聞受け、冷蔵庫……。思いつくかぎりの場所を見て回る。しかし無駄骨だった。いずれにも彼の姿はなかった。

「ああもう。どこに行きやがった」

 途方に暮れた美貴理はタクの捜索を断念した。

 線の雨が斜めに降り注ぐのを、美貴理は部屋の中から眺めていた。

 彼は、今もどこかで嘆いているのか。そんなことを考えながら。

 そこで発見する。

 窓外の直下――そこには勝手口が設置されている――の庇に、見慣れた赤が潜伏していた。

 美貴理は階下に駆け下りて、正面玄関から回り込む。

「そんなところで雨宿りか?」

 突風に傾く雨の前にはこんなちっぽけな庇など、気休めにもならない。その赤は豪雨に身を晒しているのと大差なかった。

 平時なら風にたなびく真っ赤なマントも、雨を含んで重くなっている。筋肉質な肩を浮き彫りにしている。

 彼の横顔は美貴理の呼びかけには反応せず、ただ放心したように灰色の空を見上げていた。

 その瞳は今朝よりもなお絶望に濁っていた。

「タク、風邪ひくよ」

 もう一度声をかけるが、やはり彼は動かない。美貴理も、もうなにも言えずにじっと彼を観察する。

 数分間、無抵抗で雨に打たれ続けた。

 やがて彼が視線を向けずに口を開いた。

「迷惑かけたな。……もう、大丈夫だから」

「っ!」

 彼の声は地の底から響いてくるように低く、漆黒が滲み、聴く美貴理の心臓を戦慄させた。

 狼狽して息を呑むが、強引に心を奮い立たせる。きっとタクは、彼女以上に無理をしているのだ。

「大丈夫じゃないよ! 迷惑でもない!」

 天を仰いで頑なに目を合わせない彼の腕を引いて、力ずくで対面する。そして美貴理は仰天した。

「た、タク……?」


 彼は完全な無表情であった。


 それはまるで機械のようで、

 ――トーコと出逢うより過去のタクはこんな顔をしていたんだと、

 くだらない妄想が頭をよぎって、なぜか美貴理の胸を締めつける。

 そしてその瞬間。

 美貴理はある確信に思い至った。

 タクにとってのトーコの存在は、美貴理にとってのタクそのものだったのだ。

 美貴理はタクと触れ合って、変わった。他人のために尽力するなんて、昔の彼女からは想像ができない。ハロワマンであるタクからすれば、その変化は本意とは大きく食い違っていただろう。それでもこれが悪影響でないことは絶対だ。

 タクもきっと同じだ。トーコとの交流が彼を変えて、そして現在の彼を突き動かす原動力となった。

 だとしたら――彼の今の心情は、美貴理が彼を失ったときと同義。

 タクが美貴理の前から消失すれば、美貴理は絶望の底へ落ちていくだろう。ともすれば発狂するかもしれない。

 想像しただけで身が張り裂けそうな激痛に苛まれる。

 ――これが……タクの受けている責め苦か!

 救出しなければ……。なんとしてでも……!

 誰かのために。この気持ちは、彼にもらったものだから。

 彼を助けないのは、背信行為に値する。

「こんなの絶対おかしいだろ! なにか事情があるんだ……まだ諦めていい状況じゃないはずだ!」

 タクの腕を掴む拳に百万馬力を込める。周辺の血流が滞り、肌の表面がほんの少し白く染まる。

 彼はまだ答えない。

 歯軋り。美貴理は自分の奥歯がひび割れたことを悟った。歯茎の神経が痺れ、彼女に激痛を与える。しかしそんなことには構っていられなかった。

「もう一回彼女の家に行こう! 今度はあたしも一緒に話すし、説得すれば彼女もわかってくれるはずだ。ほら!」

 言い切ってからタクの顔を見る。

 彼の眉間には一生抜け切らないような皺が刻まれており、唇を噛んでいる。そこに凝縮された感情は希望でも期待でもなかった。


 苦悩。


「誤解してくれるな。彼女はトーコだ、間違いない」

 タクは唸るように呟いた。

 他人の空似とは別だと、それは彼が言うなら真実だろう。

 でも、だったらなおさら逃げる選択肢なんてないはずだ!

「じゃあ行けよ! 臆病風なんてどこにも吹いちゃないだろうが!」

 意図せず攻撃的な口調になる。焦燥に駆られているのだ。

 しかし感情の熱に支配された美貴理はそれに気づかない。ゆえに、後悔もしない。

 さらに口撃を放とうと美貴理が深く息を吸ったとき、


「俺は拒絶されたんだ‼」


 耳朶を麻痺させるほどの轟音で、タクが吼えた。

 それは滞留していた感情の爆発か、それとも美貴理の苛烈な言葉に対する防衛本能だったのか。

 彼の咆哮で美貴理の自我は帰還した。そこに冷静さは未だ探せずいるが。

 美貴理は充分な驚きをもって彼を注視した。同時に彼女の瞳は、いくらかの恐怖も備えている。

 タクの怒号に、しかし憎悪や怨嗟は籠っていなかった。ただ途方もない悲痛が湛えられているだけだ。

 沈黙が降臨するより先にタクは呟いた。覇気は今の叫びで在庫切れらしく、力ない声音だ。

「面と向かって拒絶されることがこんなに辛いなんて、思ってもいなかった……。事情なんて関係ない、俺にとっては彼女に棄てられたっていう事実だけがすべてだ。もう傷つきたくない……。トーコはもう、俺のことなんて忘れているかもしれないんだぜ……?」

 それは弱音だった。

 託生ではなく、ただの諦念。

 そう、トーコがタクを排斥したことは確かだ。いかなる理由も介入し得ない事実。

 もしも自分がタクに心から拒絶されたら――吐き気がする。考えたくもない。有り得ない。

 タクはそれ以上なにも言わなかった。美貴理もなにも言えなかった。

 雨がふたりの身体に容赦なく突き刺さる。

 止まず、激しく、苦痛を与える。やはりこれはタクの涙だ。

 彼の息遣いから悲嘆が伝わってくる。

 それはきっと、美貴理とタクは根源で酷似しているからだろう。

 だからこそわかる。今さら美貴理がタクを想って動いたところで、彼をもっと傷つけるだけだ。空回りでは済まない。仲間割れだ。

 でも。それでも。

「止めらんないよ、やっぱり……」

 ふたりはそっくりだ。

 タクがトーコを執念深く追い求めるように、美貴理も死力を尽くしてタクの笑顔を取り戻すのだ。その信念は揺るがない。最後まで――いや、最後を通り過ぎても決して諦めない。

 後先なんて考えない。

 自己中なんて言われても関係ない。

 簡単に「やーめた」なんて言えるものか。


“だから”タクは泣いているんだ。


 美貴理はようやく掴んでいたタクの腕を解放する。

 これからの指針は決定した。

 ならば、もう足踏みをしている時間なんてない。

 俯いたまま雨粒のシャワーを浴び続けるタクに背を向けて、美貴理は足を前に出す。

 そして曇天を睨み、不退転の決意を固めた。



 ★



 濃住純ニチ郎は豪邸から窓の外を見る。

 壮齢の男性だ。額の中心できっちりと左右に分けられた白い前髪は、毛先がまとまってカールしている。

 彼の瞳には、騒がしい音を立てて暴れ狂う豪雨も、重く垂れ込む鼠色の雲も映されていなかった。

 その視線の先にあるのは、理想の国家。

 純ニチ郎が政界を去ってから、彼は床に就くといつでも同じ夢を脳内に描く。

 日本の本来あるべき姿、これから成るであろう未来。誰もが等しく労働の汗を流す調和的な国家。

「しかし……!」

 小さく唸る純ニチ郎の額に血管が浮かぶ。パプリカのように顔面が真っ赤になる。憤怒しているのだ。

「日本中、まさしく至るところに蔓延るニートども……。彼奴らこそ真に我ら日本に牙を剥く逆賊。どれほど排除に力を注ごうとも、油虫のようにしぶとい存在よ……」

 純ニチ郎は非労働者を異端分子と捉えていた。国旗を掲げて撃滅させるべき朝敵であると。

 彼らの犠牲の上に、彼の言う“理想の国家”は完成する。

 その指標のため純ニチ郎は積極的に労働に関する演説をおこない、幾つもの政策を提案して、自身の思想を数多いる次代の政治家たちに託したのだ。

 一度は日本の頂点に登り詰めた男の野望である。

“ハロワマン・ハロワレディ制度”は彼の活動の集大成であった。

 しかし純ニチ郎は知らない。

 今、とある道化たちがこの規律に翻弄され、奔走していることを。

 制度にまったく想定外の副産物が顕現し、彼らに強襲したことを。

 果たして道化がひとり――異端者ニートは、迫り来る逆境に敗北し、屈してしまうのだろうか。

 それとも――?



 ★



 少女は雨の街を傘も差さずに走る。

 全身びしょ濡れだというのに、身体には薫製のように熱が籠っている。疾駆しているせいだと彼女は自分に言い聞かせた。

 水溜まりに足を取られて盛大に転んだ。二度目だ。飛沫が跳ねるが、すでに溝鼠のように汚れていた彼女は歯牙にもかけなかった。

 茫洋とした景色の中を、ただ一点を目指して駆ける。

 雨と突風がさらにその勢いを増して、彼女の行く手を阻む。

 それでも少女は止まらない。

 熱い咳を吐き、鍛練など知らない細い腕を必死に振り、痙攣した足の筋肉を酷使してひたすら突き進んでいった。

 やがて彼女は、一軒の現代的な民家の前で駆け足を止める。

 周囲と溶け込んだ、普通の住宅地の家屋だ。目立ったところはない。清潔感のある白い壁面だけが僅かばかりの特徴だ。

 外門をすり抜ける。少女の歩みに逡巡はない。

 そして門扉から少し離れた地点で、休憩とばかりに息を吐き、

 柳眉を吊り上げた。

 助走をつけて、玄関を力いっぱい蹴りつける。

 彼女の胸元に鎮座した校章の刺繍がたなびいた。

「出てこいやコラアァ‼」

 少女は――美貴理は喉の最奥から叫ぶ。

 扉に幾度も足裏をぶつける。鋼板と靴のゴムが衝突する鈍い音が閑静な街並みに響く。足に伝播してくる痛みを美貴理は堪えた。

 蹴り続ける。

 吼え続ける。

 慌てて階段を駆け下りる音が家の内部から聞こえてきた。

 ドアノブが内側から捻られるのを確認して、美貴理は腿を下ろす。

 扉が開くと、中から小動物を連想させる少女が現れた。

 さっき一度訪ねた少女だ。

 服装にも変化はない。

 少女はどこか呆れたように溜め息を吐く。

 美貴理は少女がなにか言う前に、彼女の胸ぐらを掴み、黙って眼光を飛ばした。彼女が濡れることも、美貴理には関係ない。その表情には義憤が満ちていた。

 しかし少女は華奢な体躯とは裏腹に、至極冷静な態度と胡乱な目つきをもって睨み返した。

「またですか……。なんの用です?」

 少女の高圧的な囁き。

 先刻訪れたときには美貴理をそっちのけで事態を展開させたが、この口ぶりではあのときから美貴理の存在には気づいていたらしい。

 そのときからは想像のつかない強気な姿勢に、美貴理も怯まない。彼女の胸から手は放さずに、しかし表面上の怒気は取り払った。落ち着きを取り戻す。

 そして美貴理は用意していた質問をそっと口に出す。

「アンタ、ウサギは好き?」

 少女の瞳の色が変わるのを、美貴理は見逃さなかった。

 それは確かな躊躇の色。

 刹那の逡巡の後、

「――大っ嫌いです!」

 少女は吐き捨てた。

「なんで嘘つくの?」

「――っ! ふざけるな!」

 言及する美貴理に、ついに少女は激昂した。

 胸元の手を引き剥がして、逆に美貴理の肩に掴みかかる。人間離れした握力に、肩が軋んだ。

「適当を言うな! あたしのこと、なにも知らないくせに……!」

 今の少女は、まるで獰猛な獣を思わせた。

 瞳孔は縦に開き、剥き出しにされた犬歯は牙のようにも見える。

 それでも美貴理の顔に焦燥はない。冷めた視線で彼女を睥睨する。

 いつの間にか、ふたりの立場は逆転していた。

「なんとか言え!」

 噛みつかんばかりに美貴理に迫る少女。その姿は、むしろ彼女こそが火急に迫られているようにも思えた。

 柔らかそうな頬を林檎色に染めて、それでも彼女の表情には愛らしさより凶暴さが勝った。恐ろしい形相だ。

 しかし、やはり美貴理が委縮することはなかった。

 美貴理はおもむろに下方を指差して言った。


「そのソックス、なに?」


 美貴理のひと言に童顔の少女は思わず目を剥き、人差し指に促されるままに自分の足元を見下ろした。

 彼女の白いハイソックスには、明らかにかわいらしいウサギがプリントされていた。

 最初ここを訪れたときから美貴理は気づいていたのだ。話題から蚊帳の外だっただけに、観察する余裕はいくらでもあった。

 そして、それこそがジョーカーになり得たのだ。

「嫌いなんて嘘つくなよ。ウサギも、アンタも可哀そうだ」

 彼女はウサギ好きを隠していたのだ。

 決して正体を悟られないように。結果的には無意味どころか、それが墓穴となったわけだが。

 虚偽こそが、少女がトーコであるという確証だった。

 しかしこれで解決ではない。

 むしろこの段階まではタクが行き着いた結論と相違ない。

 勝負はここからだ。

 残る謎はひとつ。

 すべての騒動の核心。

 タクが流した涙の理由。


 トーコは、なぜタクを突き放した?


「さあ、推理劇は閉幕だ! こんな茶番はどうだっていい、ただあたしはアンタの信念が知りたいだけだ! 好きな人を泣かせてまで貫徹しなきゃいけなかった、ご立派な信念ってやつをな!」

 覆いかぶさるトーコの身体を払いのけて、美貴理は恫喝した。

「あたしはなぁ……怒ってるんだよ……。アンタのお陰で苦しんでいる人がいて、そいつの涙を見てると、あたしまで胸が痛くなって、泣きたくなるんだ……。舐めてるんじゃねえぞ、クソガキが……、責任を取れなんて言わない、けど、全部教えろよ! でなきゃ納得なんてできっこない!」

 激怒をぶつけて奥歯を噛んだ。ひび割れた歯が痛み、神経を通じて鋭い刺激を美貴理に及ぼす。

 目の前の少女から、威圧感は消え失せていた。代わりに、強い悲嘆が彼女を厭らしく抱擁していた。

 トーコが一歩引き下がる。

 一瞬逃亡するかと思って身構えたが、それは杞憂だった。

 弱々しい動作で美貴理を手招きして、

 そして平坦な声で囁く。

「入って」







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