第三話〈暴露、昔々のことじゃった〉-4-
「そ、それで……?」
雨音を劇伴にして語られる向鏡島巧の――ハロワマン・タクの過去に、美貴理は正座して聞き入っていた。
感情移入が極まり、美貴理は涙を呑んで、肩を震わせて、身を乗り出して彼に続きを促した。
しかし――
「これで終わりだ」
「あぁ⁉」
勢いを殺せずつんのめる。
そんな馬鹿な。
美貴理は眼前の餌を没収された馬の気分になった。あるいは贔屓の漫画が打ち切りで完結したことを知った瞬間の読者。
あまりに腑に落ちない。ではなぜタクはトーコの影を捜し求めているのか。なぜ三人組のうちの巨漢は始終言葉を発しなかったのか。いや、後者はどうでもいいか。
納得できない、そう抗議を口にしようとすると、タクは唇の端を歪めた。自嘲するように。
「トーコは失踪したんだ」
刹那、なにもかも理解できた気がした。
彼の憂う瞳も、先日見せた後ろ姿の哀愁も。
そして、際限なく遠いと感じた。
いくら手を伸ばしても届かない。
彼の心は、ここにない。
「さっきの話の翌日だ。朝目が覚めたら、もうトーコはいなかった」
吐息を漏らすように小さく告げる。キスを経験した唇で。
「俺は彼女を探すため――、そして彼女との約束を果たすためハロワマンになった。はは、本末転倒だよな。俺はまだ自分ひとりじゃ無力なままだ……」
どこか影のあるタクの笑顔は、彼の爽然たる容姿には、到底似合っていなかった。
美貴理はずっと、タクのためになにができるか熟考していた。しかし、目一杯伸ばした腕は、まだ彼には達しない。
それでも彼を救いたい。
彼の暗い顔はもう見たくない。
楽しく笑い合いたい。
叶わない希望が美貴理の中で渦を巻く。
――だって、あたしは……っ!
「だが、美貴理はどうしてそこまで、俺のために悩んでくれるんだ?」
心ここにあらずだった美貴理を見かねたのか、タクが尋ねた。
その問いは、美貴理の心臓に突き刺さる。
「どうしてって、そりゃあ……」
――あたしは今、なにを思った?
その回答は既に出ていたような錯覚に襲われる。
いや、確かに出た。
抑制不可能な衝動が心を侵食していた。
しかしそれがなんだったのかは、思い出せない……
そして、
「おまえが元気ないと気持ち悪いんだよ。うん、そうだ。気持ち悪い。まるで清々しい朝陽のように気持ちが悪い! それに決定!」
後半は自分に聞かせるように、催眠をかけるように答えた。朝陽を見て気分が優れないのは、ニートの性なのだろうか。なんにせよ大多数に通用しない比喩であることは明白だ。
情緒不安定にも映る美貴理を、タクは不思議そうに見つめて、やがて微かに笑った。
「そうか、ありがとう」
彼の笑顔が美貴理の平常を妨げる。優しいけれど、遠慮がちな表情。ふたりの距離感の証明。
「俺はまたトーコを探してくる。話を聞いてくれて感謝するよ」
すっと立ち上がるタク。その背中は小さく、遠い。
彼を止めなくては。
思っても足は動かない。かける言葉がない。
美貴理の助けを、タクは拒絶しているのだから。
まとまらない思考を排除して、美貴理は言った。
「アテはあるのかよ?」
そして気づく。
目立ちすぎるトーコの容姿と服装。
他人だって一目見ればわかる。
彼女がこの近辺に身を置いている可能性は皆無にも思えるが、それならばあの姿は人違いだったと裏づけることも容易いはずだ。
美貴理の声はタクに通じなくとも、彼の役に立つことはできる。満足するわけでもないが、今はそれ以外にない。
「聞き込みくらいなら、あたしだってできるさ!」
「いや、しかし……」
タクは捜索に美貴理を巻き込むことに躊躇していた。そこにどんな葛藤があるかは、計り知れない。
「おまえ、聞く知り合いがいないだろう」
簡単に計り知れた。というか戦力外と認識されているだけだった。
「そ、そそそそんなことないぞ!」
「家族と成佳さん以外では?」
「ぐ……っ」
美貴理は言葉に詰まる。どうやら心当たりがないらしい。
「阿呆くさ……。俺は行くぞ」
愛想を尽かしたように部屋を出るタク。美貴理はそれを追ってドタバタと階段を降りていった。
「だあぁぁ! 待てやコラ! もしかしたらセーカが知ってるかもしれないじゃん、早とちりはよくない!」
狼狽した美貴理はタクの手首を強く掴む。弾みに足を滑らせて、ふたりは揃って腹部から転倒した。美貴理株価、急落の一途。
「いてて……。ごめんなさい……」
思わず赤面する。しかしそれを目にしたタクは、呆れるより怒るより先に、くつくつと歯を見せて笑った。
わけがわからず呆然とする美貴理に、彼は溢れ出る笑いを堪えながら言葉を紡いだ。
「ふっ……。いや、悪いな。俺が大人げなかったのかもしれない。おまえの気持ちもわかるんだ。心配してくれて嬉しかった。少しだけおまえに肩を預けることにするよ」
どこか重荷を下ろしたようなその表情に、美貴理は僅かに安心した。
これでタクが救われたわけでは決してない。
しかし、嘘でない笑顔を蘇らせたことは確かだから。
「よっしゃ、任せとけ!」
と啖呵を切ったものの、羅針盤はやはり成佳のみ。
どうせ無理なんだろうなぁ……
淡い期待も持たずに携帯電話を取る。
耳に当てると、挨拶よりも速く罵声が飛び込んできた。
『馬鹿ミキぃ! よくシカトしてくれてたなぁちくしょう!』
「ぎゃぁぁ! 鼓膜が、鼓膜が破れる!」
意図せず電話を放り投げてしまう。タクの額にヒット。
『聞いてんのかコラ! 殺すぞクソニートが!』
それでも暴言は止まらない。まるでマシンガンのように憤怒と殺意の弾丸を吐き続ける。
美貴理は逡巡して、成佳が沈静化するまで放置することにした。
そのまま五分間が経過した。相手から電話が切れた。それでは意味がないのだ。仕方なくかけ直す。
『いい度胸してるじゃねえかクソ野郎! それに免じて撲殺と刺殺と絞殺を選ばせてやる、さあどれだ!』
「六十年後くらいに孤独死で手を打とう! ……で、シカトってどういうこと?」
『ああ、まだしらばっくれやがる! この一週間、何度あたしがおまえに連絡したと思っていやがる!』
問責された美貴理は脳内で記憶を辿ってみる。――あ、そういえば。
「いや、電話に出ないのはいつものことだし」
『それが悪ぃんだよ!』
さらに追撃。埒が明かないので美貴理は呆れて嘆息した。
『なんでおまえが溜め息だよ! 殺してえ!』
「わかった、わかった。それで、セーカはなんの用なの?」
『本当に腹立つな、野郎……。まあいいや。この間はすっかり忘れてたけど、早く漫画返しやがれ』
彼女の要求に、しかし美貴理は首を捻った。
漫画を借りた? いつ?
部屋を見回して、そこでやっと気づいた。
ハガレンを借りっぱなしだった。一年近く。
「あーうん、あとで取りに来て」
『テメェが来いや!』
「……まあ、今度ね」
実際に届けるつもりは一切ないのだが。成佳もそれを察しているに違いない。電話越しに大きな舌打ち。
『……で、ミキの方からかけてきたんだろ。どうかしたの?』
やっと本題に入れる。美貴理はなんとなく深呼吸をして、その相談を切り出す。詳しい事情を話すわけにはいかないが。
「――てなわけで、なにか知らない?」
『ああ、その人なら、うちの近所に引っ越してきたわよ』
「なにぃ⁉」
衝撃の新事実だ。超展開に頭がショートしそうになる。
『一カ月前……タクさんが来る少し前かな。着ぐるみ姿で大量のお蕎麦を渡しに来てくれたから忘れないわ』
それは確かに忘れられない。シュールだ。
しかしそれだけでは本人だと断定はできない。その彼女が住んでいた地域では、ウサギの着ぐるみはごく一般的な服装なのかもしれない。“ナウい”のかもしれない。
「その人の名前は?」
『白崎兎子よ。ねえ、アンタなんでそんなことを聞くの? 彼女を探してるって、詳しく説明しなさいよ』
愚痴を並べる成佳だったが、美貴理の耳にはもう、彼女の声は届いていなかった。
兎子……とこ……とーこ……
「トーコ?」
その呟きが答えだった。
タクといい彼女といい、仕事内での愛称は本名にちなんでつけるのがハローワークの鉄則なのだろうか。
「ちょっとそれ! ビンゴかもしれない!」
ありがとう。最後に礼を叫んで勝手に電話を切る。あとで半殺し決定な気がするが、この際どうでもいい。
なんて偶然だ。いや、偶然と呼ぶにはできすぎている気がする。ならば奇跡か、それとも予定調和か。それも、どうでもいい。
タクに事態を簡潔に話す。彼は希望に瞳を輝かせた。
コンビニへの冒険の旅支度で埃を払ったために靴は新品同様だ。それを爪先に引っかける。
傘を差すほど心の余裕はない。とにかく早く向かいたい。
美貴理とタクは、闇雲に突き刺す長槍のような豪雨の中に、我武者羅に突貫していった。
――答えは、すぐそこにあったのだ。




