第三話〈暴露、昔々のことじゃった〉-3-
高校生になって一年が経つが、俺の生活はアパートと学校の往復、それだけだった。トーコが一緒に住むようになった今でも、そのパターンに変化はない。
ただ、家の中での生活は激変していた。
――もちろん充実した、という意味で。
憂鬱な授業が終わって急いで家路につけば、トーコの「おかえり」が俺を待っている。
ふたりになると、話をしたり、ゲームをしたり……とにかくなんでもした。特にトーコは、流行のレースゲームに執心していた。プレイ経験はなかったらしいが、彼女の腕前はみるみる上達していった。もちろん、対戦する俺の実力も追随した。
彼女の年齢に関しては――改めて尋ねる機会もなかったので、保留ということにしている。
床に就くときが厄介で、トーコは屈託なく俺にすり寄ってくる。男としては厳しい状況である。この据え膳は、自分がお膳であるつもりはないのだ。決して食してはならない。
事態がハローワークに伝播することが唯一の不安だったが、今のところは杞憂で済んでいる。
やがて、いっそ俺もハロワマンになろうと考えるようになった。
同じ職場ならば、ずっと彼女と一緒にいられる。
――いつの間にか目的がすり替わっていることに、俺は気づいていなかった。
ある日、トーコにそのことを伝えると、彼女は心から嬉しそうに、
「おおぉ、頑張って絶対にハロワマンになってね! 約束だよ!」
そう言ってくれた。
それから、俺の日課に猛勉強が加わった。
彼女といる――その幸福を手放さないために。
俺の心の機械は、生命を宿し始めた。
そして、さらにその数週間後。
とある日曜日――事件は起きた。
雲ひとつない快晴の下、俺たちは毎度のごとく自宅内でレースゲームの対戦に興じていた。
接戦が繰り広げられる最中、廊下で雑音交じりのインターホンが呻いた。老朽化のためか、あまりよい音色は奏でない。
「郵便とかかな? 見てくるよ」
トーコに告げて、ゲームを一時停止画面に切り替える。
サンダルを足に引っかけて、扉を開き――そこで俺は絶句した。
「よお」
視界の先にいたのは、三人組の男たち。
ガラの悪い集団だ。
右手を挙げて軽く挨拶した輩は、金色の短髪をワックスで逆立たせている。後ろのふたりは、いやらしい目つきで俺を見据える小男と、ニット帽を目深にかぶった巨体。
金髪は舌舐めずりをして不気味に笑った。
「来ちゃった」
周囲の大気が冷え切った。
まるで氷点下の世界のように、背筋が凍った。
これは夢ではないかと疑う。
「タクくん、お客さん?」
「――ッ!」
トーコの足音が響く。
「来るなっ!」
俺は思わず声を荒げていた。
そして、直後にそれは逆効果だと気づいた。
「タクくん? どうしたの?」
彼女が駆け寄ってくるのがわかる。押し留めたいが、足元まで固まった俺の身体は動かない。
急展開を見せる俺たちに、当然その来客は反応した。
「おい、シカトしてんじゃねえぞ」
前に進み出た金髪が俺の襟首を掴む。その背後のふたりも、じり、と俺から距離を詰めた。
「家には来るなって……言ってあったはずだ」
拘束された喉から必死に言葉を絞り出す。
俺の呻きを聞いた金髪は、左右非対称に顔を歪めた。威嚇的な表情。唇は引き攣り、笑っているようにも映る。
「こっちにも事情があんだよ。てかテメェ、俺たちに指図できる立場かよ? あぁ?」
彼の拳に力が籠もる。
「タクくん!」
着ぐるみの少女の驚嘆に、彼らの視線が集中した。
彼女は俺の背後から三人組を睨んでいた。
彼女には、絶対に知られたくなかった……
「なんだぁ? この妙な格好したガキ。巧、お前、妹なんていたか?」
目つきの悪い男が眉をひそめて言った。
「どうでもいいさ」
それに返事をしたのは金髪だった。瞳には獰猛な色を宿している。
「遊んでたら金がなくなっちゃってさー。そしたら偶然この辺に来ちゃってたわけよ。お前、いじめられてるくせにお小遣いは全然くれないじゃねえか。で、家になら金がないはずはないって思ってよ」
なるほど、回りくどい言い方だが、単なるカツアゲってやつだろう。
――この男の言葉はすべて真実だ。
俺は学校でこいつらにいじめを受けていた。
きっかけなんて覚えていない。
ただ気づいたら、いじめられていたのだ。
抵抗するのも面倒だったので放置していた。殴られようが、蹴られようが、馬鹿にされようが、どうでもよかった。
金については仕方がない。両親からの仕送りを受けてのひとり暮らしだ――強奪されようものなら、すぐに貧窮することになる。
トーコはただ黙って、この状況を見ていた。震えているかもしれない。当然だ。いきなり不良集団が同居人と対面していたのだから。
彼女には内緒にしていた、この関係。
これまでの俺だったら、彼らの要求に応じていたかもしれない。あるいは、適当に言いわけをしてはぐらかしていたかも。
しかし今の俺は、それができなかった。
彼女に自分の格好悪い姿を見せたくなかった。
そのとき、初めて気がついた。
――俺はトーコが好きだ。
無言で金髪の手を振り払う。
扉を閉めて玄関先に立ち、三人と対峙する。護るように。
「この野郎……」
突然の反抗に金髪は奥歯を軋ませた。
憎悪に満ちた熱視線が俺の身体に突き刺さる。
「今日の巧はずいぶん気張るじゃん。あのガキが原因?」
小男がニヤつきながら尋ねる。俺はそれを一瞥しただけで、なにも言わなかった。小男の舌打ちが響く。
「うっぜえな」
今度は彼が向かってきた。ニット帽は観戦しているだけだった。
「お前はとっとと金をくれればいいの。おら、持ってこいや」
耳元で囁く小男。静かで、脅迫的な声色だ。
「……断る」
「んだとぉ?」
小男の顔から笑みが消失した。瞳孔が開く。
「ブッコロス」
ほんの小声だが聞き取れた。彼もウィスパーが持つ独特の高圧感を意識して言ったのだろう。
そんな分析が可能なほど、今の俺は冷静だった。
恐怖はない。
むしろ心が彼らに屈して、自分の脆弱さをトーコに知られることの方がよっぽど恐ろしかった。
彼女はきっと、俺を軽蔑しない。優しく慰めてくれるだけだ。
――だからこそ。
そんなことをされたら、俺は二度と立ち直れない。
もし、彼らに膝を折る瞬間があったなら。
そのときは躊躇せずに舌を噛み切る。
小男の顔面に唾を吐くと、彼は間抜けな顔で硬直した。
「てっ……テメェ!」
そして顔を蛸のように真っ赤にして、俺に殴りかかり――
「帰れ」
俺は眼力で彼の拳を制した。
三人組はこぞって怯む。俺の変貌に困惑――もしかしたら戦慄すらしているのかもしれない。
やがて、彼らは互いに顔を見合わせて、一斉に強襲してきた。
それが俺には、まるでスロー再生のように見えた。
「俺は負けない」
臆せず、沈着に宣言した。
喧嘩なんてからっきしだが、気持ちだけは――この意志だけは、決して屈したりはしない。
「わっけわかんねぇ……!」
金髪の歯軋り。
拳が激突する、そう覚悟したとき――
衝撃はいつまで経っても訪れなかった。
「……ん?」
恐る恐るまぶたを開く。
俺の視界に映ったのは、信じられない光景だった。
庭先でサークル状に倒れ伏す三人組。
その中心に人影が、
巨大なウサギの背中があった。
「トー……コ?」
背後の扉が風に揺れる。いつの間に開いていたのか。
理解不能な事態に言葉が紡げない。
針が落ちれば響くほどの静寂が降臨した。
不意に、小さく、しかし凛とした鈴の音色を思わせる、柔い呟きが耳朶を蹂躙する。
「ありがとう」
声量こそないが、釣鐘よりもさらに重厚な響きを奏でるその声。
トーコからの感謝。それだけで俺の胸は昇天してしまいそうに熱くなる。まさに幸福の絶頂。
しかし今は、感動に号泣している場合じゃない。先に解決するべきことがある。
――なにが起きたのか?
この惨状をまさか彼女が作ったのだろうか。有り得ない話では決してない。ハロワレディは厳正なる審査の元、真の逸材だけが授かることができる称号。もちろん身体能力も総合して、だ。
それを証明したのは金髪の力ない呻きだった。
「女ぁ……。テメェ、なにしやがった……」
金髪は鬼の形相でトーコを睨め上げる。
その問いに、しかし彼女は答えない。
必要ない。理由も、義理もない。
俺の立つ位置から彼女の顔は覗けないが、きっと彼女は彼らのことなんて、見ていない。
「勝負ってなにか、知っていますか」
逆にトーコは誰にともなく尋ねた。
勝負……それは勝者と敗者を決める、その手段として戦うことだ。
だが、なぜ突然そんなことを?
「勝負は相容れない者同士が自分の意志を押し通すための手段です。信念を掲げて戦う姿は、ある種とても崇高に感じられます」
言葉を区切り、彼女は振り向いた。
この上なく優しい微笑みが俺に投げられる。
「タクくんは戦いました。あたしを護る決意をしてくれました」
それは違う。
俺は隠し通したかっただけだ。いじめられていた事実と、彼らにやられるがままだった、情けない自分を。安いプライドのために。
しかしそれは、確かに固く決意したことで。
「あなた方には信念がありますか?」
初めてトーコが、三人組に台詞をぶつけた。
それは質問なんかではなく、
憐憫と嘲笑であると、俺は自然と感じ取った。
しばらく口を開かなかった小男が、業腹に身を震わせて言った。
「ちくしょう、巧のクソは弱ぇ……。ただの弱虫のくせに……!」
「くっ……」
虚勢を張る彼の言ったことはしかし真実だ。
俺は結局トーコに助けられた。ひとりでは無力だった。
彼らに勝利したのはトーコの功績だ。
そうだ。俺は力のない弱虫から、なにも変われてはいない。
悔しさが頭上にのしかかって俯いたとき、
「黙れ‼」
――一瞬、誰が発した叫びなのか――いや、それが声なのかどうかもわからなかった。
出所は俺のすぐ前方、すなわちトーコだった。
着ぐるみが怒りにわなないている。
感情の制御を忘れてしまったように彼女は吼える。
「タクくんは強い! ずっと耐えてたんだ、寂しくて苦しくて、救いの手はどこにもなくて……。それでも一生懸命もがいた! わからない? だから今、あなたたちが倒れて、タクくんが立っている!」
大気が震動し、地面が鳴動する。
彼女の叫びは、確かに世界を揺らした。
あまりの迫力に、満身創痍といった様子で立ち上がった男たちは、我先にと逃げ去っていく。
残されたのは、ふたりだけ。
身体を反転して笑顔を向ける彼女を――
俺はきつく抱き締めた。
「俺は、きみが大好きだ……っ!」
それは口を衝いて出た言葉で。
しかし不思議と後悔はなかった。
ありがとうを何度言ったって、意味を成さずに宙に霧散して消えると思ったけれど、
――好きだって言えば、一発だけで充分だと確信したから。
彼女の細い腰を抱く腕に、さらに力を込める。
すると、俺の背中に彼女の腕が回された。これは……
「あたしは――」
まさか……!
「ウサギさんが好き」
は……?
ウサギが好きなのは知ってる。うん、見ればわかる。
そうじゃなくて! 今の会話の流れでそれって……
――フラれた?
つまり俺の勝手な好意で、思わせぶりな態度にひとりで舞い上がっていただけだというのか。
――ハ、ハハ、しょせん俺はピエロだったってことか……
台風直下の灯火のようになって全身が脱力する俺をそっちのけで、彼女は言葉を紡ぎ続けた。
「ウサギさんは寂しいと死んじゃうって言うけど、それでも頑張って生きてるんだ。そんな姿勢が、あたしは大好きなの」
トーコの熱弁を虚ろな感情で聞く。
脳内では、ウサギどもに嫉妬して呪詛を垂れ流す俺だったが、
「まるでタクくんみたい」
「え――」
驚いて瞳を見開いた刹那、
唇に絹糸のように柔らかい感触が――
一秒にも満たないうちに、その感触は失せた。
しかし海馬には、今までの人生のどんな場面よりも、深く深く刻み込まれた。
彼女は、喜びと不安がない交ぜになったような表情で、
そこに僅かな違和感を覚えたけれど、
「あたしもタクくんが好き」
そのひと言で、懸念はすべて忘れてしまった。




