第三話〈暴露、昔々のことじゃった〉-2-
つまらない毎日だ。
悲嘆するでもなく、嘲弄するでもなく、淡々とそう思う。
寝て、起きて、高校へ通い、帰って、また寝て、また起きて。
ただ無感動な日々を送る。いつしか俺は、自分が機械なんじゃないかと疑念を抱くようにすらなった。与えられた作業をこなすだけの、意志のない無機物。
――それが怖いから俺はゲームをする。
楽しくなんてない。
ゲームは娯楽だから。機械に娯楽は必要ないから。自分は人間だという実感が湧くから。
しかし、
――娯楽を寡黙に冷然と行う姿は、果たして別の視点からも人間に見えているのだろうか……?
そんなことを考えていたときだった。
自室の中、春の風を招き入れる窓から異音が耳に届いて、俺は振り向いた。
そして、凍結する俺の身体。
俺の視線の先にあったものは――
巨大なウサギが足をばたつかせ窓から不法侵入を試みる姿だった。
「うおおおっ」
「ふわぁ! お、驚かさないでください」
お前が言うな!
そうツッコみたくなる気持ちを抑えて、冷静に状況を分析する。
ウサギがしゃべった?
いや、違う。これは着ぐるみだ。
巨大ウサギが、否、少女が顔を上げた。
純白の頭部の内側には、かわいらしい童女の輪郭。ビー玉型の紅い瞳に、小動物のようにすぼめられた口。人懐こそうな笑顔を纏う彼女自身、ウサギを連想させる顔立ちをしていた。
着ぐるみでわかりづらいが、背丈は俺の肩にも満たないだろう。小学生五・六年生か、せいぜい中学生か。
そんな幼い少女が、精神が倒錯したかのようなファッションで、ひとり暮らしの高校生男子の部屋に闖入してくる理由とは、いったいなんだろうか。
皆目見当がつかない。
「えーと……」
彼女にかけるべき言葉を探すも、いかんせんこんな不測な事態に直面した経験などない。
混乱状態に陥った俺を怪訝そうな眼差しで見つめて、ウサギ少女はにんまりと愛らしい笑顔を浮かべて言った。
「ハロワレディのトーコです! よろしくお願いします」
は?
ハロワレディ?
「な、なんだって?」
訊き返す俺。
ハロワマン・ハロワレディ制度とは。
非正規労働者・非労働者を対象とした、彼らの社会復帰を応援するため施策された法律。また、それに従ってハローワークが開始した新たなサービスだ。
一般適用の後すぐに全国的に普及して、今や世間の常識としてあちこちで耳にする名前である。
対象者には、原則的にひとりの指導員が公共職業安定所(ハローワークのことだ)略して職安から派遣されることになっている。
それがハロワマン及びハロワレディである。
彼女がそのハロワレディだというのか。
そんな馬鹿な。
彼らはハローワークの職員、すなわち公務員だぞ。
どう見てもこの少女は社会人ですらないだろう。
「ちょっと待ってくれよ!」
しかし問題はそこではない。
彼女の言葉が真実であれ、出来の悪い詐欺であれ、そこには重大な間違いがひとつある。
「俺は高校生だぞ」
渋面で言った。
学生は学業を義務としている。非労働者のカテゴリになど断じて含まれないはずだ。
「ほぇ?」
少女は呆けた顔で俺を見た。
居心地の悪い、不自然な沈黙が流れる。
そして、
「ふえぇぇぇ、そんなああぁぁぁ」
突然、少女が奇声を上げた!
「はうぅ……。あたし、ハロワレディになるために、いっぱいお勉強して……、やっと夢が叶って初仕事だったんですぅ……。それが手違いなんてえぇ……」
瞳に溢れんばかりの涙を溜めて愚痴り出す。その姿はお世辞にも俺より年上とは思えなかったが、年齢について推察するのは後回しだ。
「お、おい落ち着けって! 間違いなんて誰にでもあるって! ほら、仕事が回ってきたのは確かなんだろ? 依頼人とか探すの、俺も手伝うからさ、泣き止んでくれよ……」
俺の発言は善意から出たものではなかった。
むしろ逆だ。この部屋で泣き叫ばれては近所迷惑だし、俺にとっても大迷惑なのである。
しかし俺の説得は予想以上に好感触だったようだ。
ぴたりと泣き止んだ彼女は、指先で涙を拭って微笑んだ。極上のスマイル。紅潮した頬が庇護欲を刺激して、俺は内心で悶えた。
――かわええ……!
もう冒頭の俺の印象は崩れ去ってしまったような気がする。なにが機械だ、格好つけやがって、俺。
彼女を抱き締めたいという短絡的な衝動を抑えるため、荒ぶる右腕を左手で掌握する。端から見たらさぞ滑稽な動作なのだろう。
そんな俺の奮闘を知らないトーコは、深々と俺に頭を下げた。
「ありがとうございます! 元気が出ました!」
「はっ!」
彼女のお礼で我に返った。
この変態的な欲望は胸の奥深くに封印しておこう。もう二度と顕現してきませんように。
「と、とにかく。俺と間違えたってことは、名前でも似てるのか? 俺は向鏡島巧。相手の名前も、差し支えなければ教えてくれるか」
知り合いかもしれないしな。
「あ、苗字がいっしょです。依頼人は向鏡島生美さん。その息子さんがあたしの教え子さんなんです。珍しい苗字ですけど……。こんな偶然ってあるんですね~」
トーコが感心している。
しかし、俺はその名前を聞いて、冷静ではいられなくなった。
彼女に背を向け、ポケットの中の携帯電話を手に取る。
そして目的の相手に着信をかけた。
ぷるるるる。ぷるるるる。
二度のコール音の後、
『もしもし、向鏡島です』
「ちょっと母さん! 話があるんだけど!」
そう、向鏡島生美とは、離れて暮らす俺の母親だった。
『あら、たっくんじゃないの。どうしたの?』
彼女は俺を“たっくん”と呼ぶ。気恥ずかしいのでいつもやめろと言って聞かすのだが、今は優先順位が違う。
「どうしたもこうしたもあるか! 俺のこと、ハロワマンに頼んだりしなかった? いや、しただろう絶対に!」
『したわよ』
「やっぱりな……」
俺の周囲で起きる騒動の発信源は八割が母だ。彼女が破天荒なわけでは決してない。しかし……
「なんでそんなこと――」
『だってハロワマンって、将来が心配な子のための制度でしょう? ママ、たっくんが心配だもの。ひとり暮らしでご飯はちゃんと食べてるかとか、お風呂にはちゃんと入ってるかとか……』
「ハロワマンってそういうのじゃないから! あと、ご飯は毎日三食きちんと摂取してるし、お風呂も毎晩入って清潔にしてるから! 安心して! それじゃあ!」
矢継ぎ早に叫んで通話を切る。ついでに電源も切る。額から一筋の汗が垂れる。
彼女は過保護なのだ。それは親元を離れた現在でも徹底していて、また、どこか大きくずれている。
そんな母親を持つ俺が、なぜ実家を離れて高校に通うことにできたのか。答えは簡単、母には内密に遠方の学校を受験したのだ。幸い、父親は一般的な感性の持ち主――むしろ母の方針には反対である――なので、保護者の許可などでは苦労しなかった。
ちなみに俺がひとり暮らしを希望した理由とは、これまた母の束縛から逃れるためだ。
育ててくれた感謝の気持ちを忘れたわけではない。
しかし、度を過ぎて常識外れな行動に、俺が閉口していたことも確かなのだ。
「すみませんでした」
「ほぇぁ⁉」
トーコに向き直って土下座をする。
正確には母が諸悪の根源なのだが、謝罪するのは俺の役目だ。
「い、いったいどうしたんですか? 頭を上げてください!」
今度は彼女が困惑している。当然の反応だろう。
罪悪感と頭痛に苛まれながら、俺はことの起こりを説明した。
「ほはぁ~」
すべてを理解したトーコは、まず感嘆して息をついた。
悪気がなかったとはいえ、いわば職場への悪戯行為だ。もっと憤激しても文句は出ないと思うが。
しかしトーコは白い歯をこぼして俺に言った。
「面白いお母さんなんですね」
「……疲れるけどな」
笑顔の彼女につられて俺も口元が緩む。苦笑でもあるが。
「怒らないのか?」
「ぜんぜん。この出会いも巡り合わせだと思って楽しまなきゃ」
「はは。ポジティブだな」
とはいえ、俺もこの状況を楽しんでいる。
平坦な日常を崩壊させた、大きな刺激。
果てしない退屈にウンザリしていた俺にとって、彼女はカンダタの蜘蛛の糸だと思える。
それが一時凌ぎだから、なおさら。
そう、この出会いはイレギュラー。すぐ本来の軌道に修正される。
「じゃあお仕事頑張ってくれ」
軽くトーコに手を振る。別れのサインだ。
どうせ長くいられないのなら、未練を持つべきではない。
昇れば昇るほど、糸が切れたときに身体を大地に強く打ちつける。
――痛いのは嫌だから。
「へ?」
首を傾げるトーコ。どうやら俺がさよならをしている理由がわからないらしい。
「ほら、ハロワレディの仕事はここじゃできないだろ。俺じゃなく、アンタを待っている人がきっといる」
俺は笑みを絶やさずに言う。この悲哀が悟られないように。
彼女は俺をじっと見つめる。
その視線は、なにもかもを見透かしているように思えて怖くなる。
そして彼女は、心の底から不思議そうに言った。
「でもあなたは寂しそう」
「――ッ!」
心臓を鷲掴みされたような衝撃に俺は震撼した。
見抜かれた?
空虚な毎日に戻ることへの恐怖。
その正体は、明らかに寂寞感。
「……だったらどうするんだよ?」
俺の感情を知られても、彼女になにができるというのか。
もうトーコはここにいられない。
そして、ふたりの人生は二度と交わらないだろう。
しかし彼女の出した結論は、俺の予測とは異なっていた。
「いっしょにいます」
「え……」
「あなたのお母さんから引き受けたんです。あなたが心配だから見ていてやってくれって」
「でも、それは――」
意固地になって息巻く俺の唇を、トーコの人差し指が封じた。
「あなたといっしょにいたいんです。ちょっとくらいズルしたって、いいですよね」
優しい声。
彼女が俺のどこに惹かれたのかはわからない。あるいは、ただの気まぐれだったのかもしれない。
俺は彼女ではないのだ。わかるはずがない。
しかし、俺がそれを望んでいることはわかる。
「嫌ですか?」
問いかけるトーコ。
答えなんて、きみはわかっているくせに。
「そんなことない」
歓喜に打ち震える自分を抑えられなくて。
俺は彼女の肩を掴んだ。
「よろしくお願いします」
「はい! ぷりちーらぶりーハロワレディ・トーコさんに任せてください!」
そうして俺たちは微笑みあった。
「それと、ひとつお願いがあるんだ」
「ほえ? なんですか?」
「敬語、なしにしようぜ。そんな他人行儀な態度はいらない」
言って、俺は彼女の頭を撫でた。
その行為も、年上である(と思われる)彼女には失礼なことだったかもしれないが、トーコはくすぐったそうに目を細めた。
受け入れてくれた証拠だ。
「うん!」
俺はこれから始まるであろう波乱万丈な毎日に胸を躍らせていた。
――とはいえ。
同居するなんて、思いもしなかった。




