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第9話:崩壊

 暗い廊下を通って、連れてこられた準備室は、天井が高く薄暗かった。いくつもの大型の機器が仮置きされている。壁には幅、高さ5メートル程の巨大なスライド式扉が据えられている。ここから実験室に機器を搬入するのだろう。スライド式扉の直ぐ横には、畳1枚ほどの窓があり、向こうに白いタンクが見えている。

 ハイダルと呼ばれた黒服の男は、窓のそばにパイプいすを並べ、特等席だと言って、意気消沈している沢村みさと、顔を一層白くした百瀬明美と、ため息をつく結城稔を座らせた。

 結城が顔を90度よじると、制御室の壁にあったのと同じ大型スクリーンがあり、9分割された画像が写っている。その一つには、制御室の立体実写画像で見た真っ黒な素数共鳴器であり、異次元への入り口にふさわしい厳かさをかもし出している。

 ハイダルが二人の黒服にしっかり監視するように言い残して、出て行こうとすると、みさは顔を上げて

「待って!」

と声を上げた。ハイダルが振り向く。みさは、座ったまま、背中をよじって、ハイダルを見つめた。そして、結城には理解できないことを言った。

「サングラスをとってくれないかしら」

ハイダルは、一瞬顔をこわばらせ、それからニヤリと笑ってサングラスを外した。そこには、緑色の瞳があった。瞳の色は濃い色が優性遺伝するから、この時代、緑色の瞳は大変珍しい。

「やっぱり。あなたパルティア人でしょう?」

ハイダルは、直接は答えなかった。

「イシュタール博士の留学は表の協力関係です。私がここにいる理由は裏の協力関係です。パルティア政府は、素数共鳴器に強い関心を持っています。実験の成否は、パルティアの油の価値に影響します。成功しても、その技術が日本とパルティアで独占されていれば、パルティアは安泰です。ミーシャ、あなたにも同盟の意義は理解できたと思います。いかがですか?」

ミーシャ? みさではなく、ミーシャ? 結城は初めて聞く名前である。

「私を知っているの?」

「ミーシャ、あなたは有名です。同盟の象徴です。同時に…… ハーエム」

最後の一言はパルティア語らしい。みさの次の一言で、結城は理解した。

「改宗しなかったから、裏切り者だなんて、今時、ナンセンスよ…… そもそも、古来、パルティアの民が信じていたのは、オアシスの女神よ」

「それこそ、ナンセンスです」

しばし、みさとハイダルは、にらみ合ったが、ハイダルは視線を外し、最後にこう言い残して出て行った。

「あいにく、新月刀はありませんので、薬を使います」


 結城は、なんとか、両手首をつないでいる結束バンドを引きちぎろうとするが、バンドが手首に食い込むだけであった。隣の二人は、結束バンドになじみがあるのか、おとなしくしている。

 スクリーンの画像の一つがカウントダウンを開始したのを見た沢村みさは

「まずいわ。このままだと、私たちの装置と同じ事故が起きるわ」

百瀬も同調する。

「ここの装置の方が大型だから、被害も何ケタか上ね」

後ろに控えているはずの二人の黒服は静かにしている。百瀬が結城を肘で小突いた。百瀬の方を見やると、まばたきを始めた。そう、彼女もアイコンタクターなのだ。

「tabakowosutte」

タバコ? 結城は、神経加速剤・筋力増強剤入りのタバコを持っているのを思い出した。暗号破りの仲間であるゼウスからもらったものである。そのタバコを吸えと言うのだろうか? 結城は、しばし考えた。そして、驚愕すべき仮説を立てて、百瀬に尋ねた。

「zeusuka?」

百瀬はにっこり笑って答えた。

「atari」

アバターのゼウスは、ひげもじゃで、喋り方もご老体そのものであったが、まさか、その実体が、若い女性、いやニューハーフであったとは。今日一日、結城は驚きっぱなしであったが、ゼウスの正体が一番の驚きであった。


 結城は、振り返って、恐る恐る黒服の一人、二人のうちの偉そうな方に申し出た。

「あの~ 今日の実験が終わったら、僕は消されるですよね?」

喋りたくないのか、喋れないのか、黒服は、ゆっくり頷いただけである。

「あの~ でしたら、死ぬ前にタバコを一本吸いたいのですけれど」

黒服は眉を上げた。

「男なら、わかるでしょう。一つぐらい、良くないと思っていても、やめられないことがある。男はいつもストレスにさらされている。何も考えていない女と違って、色々考えなくちゃいけない。会社でも、家でも、どの組織に居ても、いつだって、矢面に立たされるのは男だ。おたくだって、そんなストレスの解消のために、一つや二つ、人に言えないことをしているでしょう?」

黒服は頬をひきつらせている。

「僕の場合、それがタバコなのです。後生ですから、死ぬ前に一本吸わせてください」

結城は精いっぱいの愛想笑いを作った。黒服が振り返ると、もう一人の黒服は肩をすくめ同意した。黒服は結城の胸ポケットから煙草ケースを取り出し、結城が希望した青色の帯の付いたタバコをくわえさせ、紙マッチで器用に火をつけた。

そんな結城を、みさは軽蔑の目で見つめた。タバコを吸うことを軽蔑したのか、彼の口上を軽蔑したのか、あるいは両方かは不明である。

 結城は、むせそうになるのを我慢して、ゆっくり深く煙を吸った。肺で薬剤成分が血液に溶け込み体の中を循環していく。体中に力がみなぎるのが分かった。

ゆっくり、手首に力を入れてみる…… が結束バンドは切れない。何度かやってみるが、切れない。絶望しかけた結城は、百瀬が小突いているのに気がついた。

「beruto」

ベルトと言っている。結城はゼウス(百瀬)から特殊なベルトを貰ったことを思い出した。いくつかの機能を順に思い出して、使えそうな機能を見つけた。バックルの端に人工ダイヤの粉を塗ってあるのだ。これは、やすりとして使える。

 結城は、黒服の注意を引かないように、慎重にやすった。なかなか切れない。みさがぼやく。

「どうして、こんなことになったのかしら……」

鈍感なみさもさすがに死を意識したようである。結城の方を振り向いた。

「ねぇ、稔も拉致されたの?」

「あっ、いや~。拉致ではない。自分で来たんだ。罠だろうとは予想していたんだけれど」

「どうして? 私たちを助けに来たの?」

「う~ん。それが半分かな」

「半分? それじゃ、残りの半分は?」

「もう一人助けたい人がいたんだ?」

「誰? どんな人?」

「う~ん、人ではなかった」

「そうなの」

みさはそう言ったきり、黙り込んだ。確かに、オラクルはAIトレーナーだし、夢子の脳を人と言ってよいかは疑問だ。そもそも結城は、なぜ、自ら罠に飛び込むような真似をしたのだろうか? 結城は、みさを見ながら自問した。そして、答えを出した。

「みさの笑顔をもう一度見たいと思ったんだ」

みさは、えっという顔をして目を伏せた。そして、顔を上げて、柔らかな笑みを結城に見せた。

 百瀬が咳払いをした。

「みさ先生、あれを見て。右上端の画像。物質波のモニター信号だと思うの。ほら、少しずつ上がってきている」

「始まったのね」

結城はようやく結束バンドを切り終えた。ちらりと後ろを見て、背後の二人の立ち位置を確認してから、頭の中で動作をシミュレートする。百瀬が

「abaremawatte」

とエールを送る。


 座ったまま、右足を半歩投げ出す。右足に体重をかけ、立ち上がりながら、その右足を軸にして、回転する。と同時に左足を振り回しながら、その勢いで、近い方の黒服の正面へ飛ぶ。腰をかがめていて姿勢は低い。黒服は驚いて背をのけぞらせる。結城は低い位置からアッパー気味に、右拳を思いっきり黒服の腹に叩きこむ。黒服は後ろへよろけて、膝を落とす。その時には、結城はすでに二人目の男の懐に飛び込んで、ひざ蹴りをやはり腹に決めていた。二人の背後に素早く回り込んで、首に手刀を叩きこむと、あっけなく、二人は床に伸びた。

 100%シミュレーション通りに事が進み、結城は、満足した。

 百瀬が叫ぶ。

「先生、あそこのツール棚! 上から順に開けていって」

結城は百瀬の意図が理解できなかったが、言われたとおりにすると結束バンドとニッパーが見つかった。それで、急いで男たちを縛り、女たちを解放した。そして一息ついた。

 まるでヒーローになった気分である。百瀬とハイタッチを交わす。結城はみさともハイタッチを交わそうとしたが、彼女は、スクリーンを睨んで難しい顔をしていた。

「あの時と同じだわ」

と、その時、地震が起きた。いや地震ではない。みさの研究室で体験した空間の歪みだ。百瀬が物質波と言ったグラフが急速に下降し始めている。

「逃げましょう。できるだけ遠くに」


 準備室の扉はロックされており、開かなかった。みさは

「まずいわ。きっと大きいわよ」

と呟いたが、部屋から出られなければ逃げようがない。百瀬が叫ぶ。

「結城先生、電磁干渉器は?」

「あっ、そうか、それがあった」

「何よ、それ?」

とみさが尋ねるが、

「後で教える。それより、これが動作するかどうか……」

と結城は答えた。電磁干渉器は、ロック回路を誤動作させるものであるから、望み通りに、ロックを解除してくれるとは限らないのだ。実際、スイッチをいれても、扉はウンともスンとも言わなかった。だめかと思った頃に、音もなく扉が開いた。

 結城は駆けだそうとする二人を呼び止めた。

「ちょっと、待ってくれ。二人ともビジターバッジを持っていたら出してくれ」

結城の意図は分からないが、二人とも素直にバッジを差し出した。結城は自分のバッジと併せて三枚を転がされている黒服の方へ投げた。こうしておけば、三人が抜け出しことはわからないし、バッジは黒服を生体として認識するから、警報を発報することもない。研究所に来て実験したから、うまくいくはずである。


 すべてが完璧というわけにはいかないのが世の中である。結城が放り投げたバッジの一つは黒服から4メートルの位置に落ちた。生体を認識するにはあと1メートル程足りなかったのだ。


 廊下へ飛び出した三人は、結城の指示で駆けだした。結城の頭の中には、事前調査で入手したフロアマップが入っている。廊下の突き当たりの、アナログのロックを外すと非常階段が現れ、彼らは地下五階から地下一階まで一気に駆けのぼった。正確には、一気に駆けのぼったのは二人である。

 地下一階に現れた結城にみさは悪態をついた。

「全く、だらしない男ね。それでも矢面に立っているつもり?」

みさは案外、しつこい。が、結城は反論する元気もなかった。神経が加速され、筋力は増強されているはずだが、持久力は別らしい。

「どっちに行けばいいの?」

と百瀬が結城の顔を覗き込みながら尋ねた。

「えっ?」

「だって、階段はここで終わっているわ」

百瀬の言う通り、非常階段は地下一階で終わっている。地上に続くはずの階段は、真新しい壁でふさがれている。結城の調べたマップにはなかった壁だ。

「し、しかたない。と、とりあえず、フロアの方へ行ってみよう」

息も絶え絶えに結城がささやいた。

 いまや、空間の歪みは本当の地震となっていた。走ることもままならないので、廊下の壁に手をつきながらエレベータを目指した。関係者に見つかりやすいエレベータを使いたくはなかったし、バッジの無い状態でエレベータが動いてくれるかどうかは不確かである。そもそも、地震時にエレベータが動いているかどうかも怪しかった。だが、地上に出る手段は他にないように思われた。

 

 その時、エレベータの扉が開いた。助かったと三人が喜んだのは一瞬。揺れるエレベータから出てきたのは、ハイダルであった。

 地震の中、ゆっくりと近づいてくる。百瀬が

「電磁干渉器」

と叫び、結城が手近なロックにそれをかざした。先ほどと同じように少し間をあけて、扉が開いた。三人が転がりこんだ部屋は、資材置き場である。整然と並ぶ棚に、さまざまな資材が積まれていたが、地震で落ち始めている。三人は、手近にあった資材を、締められない扉の前に積み上げた。即席のバリケードを築いてハイダルの侵入を防ごうと言う魂胆である。しかし、建物の揺れはさらにひどくなり、立っていられないほどであった。

 突然、頭を殴られたような衝撃を感じた。そして視界がおかしくなった。部屋と廊下の間にあった壁が積み上げた資材ごとなくなったのである。しかも、廊下の向いにあったはずの部屋の中が見える。

 地震がやみ、一瞬、闇が辺りを覆った。直ぐに一部の照明が復活した。非常電源が動き出したのだろう。ガラガラ、ドカン、ドカン、カランカランと何かが崩れる落ちる音が反響した。まるで巨大な洞窟の中で聞くような反響であった。視界を奪うほどの塵が立ち込めて、

「ゴホッ、ゴホッ、何これ~!」

と百瀬が悲鳴を上げた。

「稔? 稔は大丈夫?」

みさが叫び、結城がせき込みながら大丈夫だと答える。立ち込めた塵が治まり、視界が晴れた。先ほど、視界がおかしくなったと思った光景が再び現れた。

 彼らのいる部屋の床が途中から無くなっている。向こう側にある部屋は、きれいな床の断面、鉄筋コンクリートの断面を見せている。どうやら、廊下とそばの壁がすっぱりと切り取られているようである。切り取られた壁や床はどこに行ったのだろうか? そう考えながら、三人は恐る恐る途切れた床の下をのぞいた。

 結城の胸ポケットから解毒用のタバコのはいったケースがこぼれ落ちた。結城は、開いた口がふさがらなかった。タバコのケースが落ちたからではない。落ちた先が、はるか下の岩盤であったから。地下2階から地下5階までがなくなっているのである。建物の周囲の壁と柱は残っているが、中身がない。白いタンクもそれが据え付けられていた実験室も、沢山の人がいた制御室も、先ほどで三人がいた準備室も、オラクルと夢子がいた三番倉庫も、皆、部屋ごと無くなっているのである。

「隠ぺい次元に飲み込まれたのね」

最初にみさが口を開いた。

「本当、すごいものねえ」

百瀬も比較的冷静だ。あまりに多くのものが消失した。結城の頭の中は、真っ白になった。何を考えるべきかも思い浮かばなかった。そして、言葉を失った。

 残った建物の構造物が、ぎりぎりと音を立てている。じきに、この建物自体が崩壊するのだろう。百瀬が結城の服の袖を引っ張った。

「さあ、逃げましょう。ここに居てもろくなことはないわ。運がいいことに逃げ道ができたみたいだし」

そういって、百瀬は部屋の奥のひび割れを指さした。ひび割れの奥には空間があるようだ。樹海特有の洞窟が口を開いていたのだ。


 疲れ切った三人がひび割れに向かおうとすると

「待ちなさい!」

と誰かが呼びとめた。誰かとは、どこからか這い出てきたハイダルであった。高級スーツは、かぎ裂きと汚れで無残な姿になっている。サングラスはなくなり、額から一筋の血が流れているが、足取りはしっかりしている。

「生きていてよかったわ。さあ、一緒に逃げましょう」

みさの優しい言葉はハイダルには届かない。ハイダルはゆっくり、ネクタイを緩め、床に落とした。

「生かしておくわけにはいきません」

「何を言っているの! 皆、消えてしまったのよ!」

みさの黒い瞳がうるんでいく。だが、ハイダルは冷徹である。

「お前たちを生かしておくと、素数共鳴器の情報が他国に漏れます。パルティアのためです。生かして帰すのは無理です」

 結城は国のことしか考えないハイダルに激しい怒りを覚えた。そして、ハイダルの正面に立った。

「待って! 稔のかなう相手じゃないわ」

結城は、みさの制止を無視して、両拳を構えた。動作シミュレーションをする。完璧なシミュレーションだった。

 しばし、にらみ合う。結城は息をとめて、数を数えた。3、2、1。獲物にとびかかる豹のように、ハイダルの懐に飛び込む。右足を軸に、ひねっておいた腰を戻しながら、肘を直角に曲げた右腕を回転させる。右フック。ハイダルの目には、死角から、突然、拳が飛び出したように見えただろう。ボディーに拳を叩きこみ、なおも腰を回転させながら、渾身の力を拳に乗せた。一連の動きは、神速と言ってよかった。

 すべてが完璧というわけにはいかないのが世の中である。ハイダルは全く動じなかった。そして、結城の狙った腹は、まるで岩のようにびくともしなかった。

「痛たたーっ!」

結城は、右の拳を抱えてうずくまった。バビロニア流武術では、体を意識的に石のように硬くできると、樫村が言っていたことを思い出した。

 ハイダルは、結城の襟元を左手でつかんで持ち上げた。そして、ニヤリと笑って、まっすぐ伸ばした右手のひらを水平にして勢いよく突き出した。普通なら突き指を心配するだろうが、その指が石になっているのであれば、何も心配することはない。結城は自分の顔にハイダルの指がのめりこむのを想像し、目を閉じた。

「ゴン!」

結城には、確かにその音が聞こえた。恐る恐る目を開くと、目の前に手の平があった。みさが手の甲で、ハイダルの右手を防いだのだ。結城は、床に落とされ、それを百瀬があわてて引きずっていく。

「やるしかないわね。私の王子様に手を出すとは」

みさは、黒い瞳を怒らせて不思議なことを言った。

「ミーシャはバビロニア流武術を使いますか。面白いです! でも、素手では時間がかかり過ぎです」

そう言って、ハイダルは足場用のパイプを二本、拾い上げ、一本をみさの方へ放り投げた。

 パイプを受け取ったみさは、小さく蹴ってヒールを脱ぎ捨てて、構えた。やや半身になって、棒を両手で中段に構える。左手を前に、右手を後ろにしたいわゆる薙刀の構えである。一方、ハイダルはパイプの端を右手でもち、半身になって正面に突き出した。左手は、不自然に顔の横まで上げている。フェンシングの構えに似ている。

 ハイダルが突く。カンという高い打撃音とともに、みさのパイプがいなす。今度は、ハイダルが上段から振り下ろす。それをみさが自分のパイプで迎え、回すようにして、ハイダルのパイプを振り払う。

 リーチで勝るハイダルが遠方から先制し、みさが守るという打ち合いが何度か交わされる。かといってみさが劣勢なわけではない。両手で持つみさのパイプはハイダルのパイプの軌道をやすやすと変えるのだ。力負けしてないのだ。ハイダルの遊んでいる左手が勝負を左右しそうだ。

 ハイダルが、左側からテニスのバックのように水平にパイプを振り回す。みさがそれを弾き飛ばす。弾性でハイダルのパイプは大きく左へ跳ね、パイプにつられて、ハイダルの体が左へ回転し、姿勢が崩れる。みさは間合いをつめ、向こうを向いているハイダルの顔を突こうとした。死角からの必中の攻撃。だがみさのパイプの先端はハイダルの左手で受け取られる。みさの突きを正確に予期していたのだ。いや、最初から、みさを誘っていた。ハイダルは、みさのパイプを握った。そうやってみさの動きを封じたのには理由がある。一回転したハイダルのパイプが、さらにスピードを上げて、フォアストロークのように、みさの左に迫ってきたのだ。みさは、ハイダルに握られたパイプの先はそのままに、パイプをねじりながら、手元側を左に回転させ、高速で迫ってきたパイプに手元側をきれいに当てた。恐るべき動体視力である。パイプとパイプのぶつかる衝撃で、ハイダルはみさのパイプを手放した。

 パイプが空を切る音、打ち合う甲高い音が、辺りに反響し、時折、火花が飛び散る。その間にも天井はみしみしと音を立て、石膏ボードがボロボロと崩れ落ちていく。

 再び、ハイダルが突く。みさがそれを左側にいなすと、ハイダルはそのまま、みさとの間合いを詰める。いつの間にか腰まで落とした左拳を、隙のあいたみさの腹の方へ突き出す。体をよじってその拳に体重を乗せている。が、そう簡単にはいかない。みさはパイプを鉛直に立てて、パイプの手元側でハイダルの拳をブロックする。体重を乗せた拳は、簡単には止まらない。みさはパイプごと後ろへ突き飛ばされる。と、ハイダルの打ちおろされたはずのパイプが水平に振り回される。ものすごい速さで、みさの左脇に迫る。先程と同じパターンであるが、今度はもっと時間の余裕がない。みさは左手をパイプから放して、前方へ突き出した。前方にジャンプしながら、飛んでくるパイプを手で受け止め、パイプの勢いを減じつつ、渾身の力で引っ張った。受け止められたパイプとそれを握りしめていたハイダルは引っ張りこまれ、浮いていたみさの体自体もハイダルの両腕の間に引き寄せられ、間合いがなくなった。そして、二人は胸と胸を合わせて止まった。すべてが静止した。

 みさの背中でハイダルのパイプが落ちてカランという乾いた音を立てた。ハイダルが静かに崩れ落ちる。彼は、股間を押さえ、顔を真っ青にして、歯を食いしばっていた。体のすべてが石のように硬くなるわけではないらしい。

 苦しそうにしながら、睨んでいるハイダルに、みさはパイプを突き出して

「オアシスの名のもとに、許しを請うか?」

と厳かに尋ねた。ハイダルは喘ぎながら、

「ゆ、許しはいりません! さ、砂漠で干からびた方がいいです!」

みさの顔から厳かさが消え、代わりに悲しみが満ちた。


 天井と言わず、そこら中がみしみしと音を立て始める。百瀬が叫ぶ。

「早く! 早く逃げないと建物の下敷きになるわよ!」

百瀬は結城の手を引いて壁へと走った。二人の後ろで、コンクリートの塊がドスンドスンと落ちる。支えの無くなった、地下一階の床が端から崩れ落ちていく。二人が洞窟に飛び込んだ時には、辺りに轟音と塵が満ちていた。

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