第7話:AIトレーナー
国立革新技術研究所は、樹海の中にあった。結城は、小銃を持ったいかめしい警備員のいる門をくぐって、受付棟でアポイントIDを示して、ビジターバッジをもらった。無人の小型カートに乗りこんで、バッジをかざすと、彼を乗せたカートは動き出す。オートパイロット機能により、乗客を目的の建物まで案内するのだ。受付では、決して途中でカートを降りてはいけないと言われた。道から一歩踏み出せば、そこは手つかずの樹海。つまり、地面は空洞の多い溶岩の上にあり、いたるところに天然の落とし穴や洞窟があるというのだ。その溶岩に巨大な穴をうがち、三角柱を突き立てた。それが、情報研究棟である。地下五階、地上三十階。窓が一切なく、白く輝く威容は、研究所の建物群の中でも際立っている。
結城が、金属探知機、爆発物探知機を何事もなく通って、建物の中に入ると、警備ロボットがいた。事前調査によれば、持っているのは、麻酔銃である。ピクリとも動かない二体の警備ロボットの間をやはり何事もなく通り抜ける。するとバッジから音声案内が聞こえて来た。
「待ち合わせ時刻まで、しばらくございます。よろしければ、ロビーをご見学ください」柔らかい女性の合成音である。ロビーでは、数人のビジターが思い思いの方法で時間を潰している。ホストと打ち合わせをしているビジターもいる。結城は、情報部門の紹介動画や、個人コードのプロモーション動画には目もくれず、ロビーから出て行こうとした。だが、バッジが
「そちらは、関係者以外立ち入り禁止です」
と注意を発した。結城は構わずに、廊下を歩いていこうとした。
「繰り返します。ここは、立ち入り禁止区域です。10秒以内にロビーに戻らない場合には、警報が発報されます」
結城は素直にロビーにもどった。そして、今度は、バッジを椅子の上において、距離をとった。結城がおよそ3メートル離れた所で
「お客様、バッジをお忘れです」
とバッジが叫んだ。最後に、パッド新聞を読んでいるビジターの背後にバッジを置いて、距離をとった。今度は、バッジは黙っていた。結城はニヤリとして呟いた。
「生体センサーはあるが、個人の特定はできないということか」
オラクルとの面会予定時刻までまだ20分以上ある。トイレでゼウスからもらった電磁干渉器を組み立てていたら、突然、バッジが喋り出した。不審な行動を嗅ぎつけられたのかと焦ったが、そうではなかった。そうではないが、想定外の人名に驚愕することになった。
「打ち合わせ予定の谷川富雄博士が面会可能となりました。恐れ入りますが、移動願います」
オラクルがホスト名を偽装することは予想していたが、谷川富雄博士の名前を使うとは予想していなかった。結城のかすかな記憶によれば、神経生理学者である谷川富雄は、後年、この国革研に所属していたから、ホストとして、その名を使うことはおかしなことではない。国革研で何を研究していたかは知らないが、若いころに神経のシナプス結合形成メカニズムの研究で名を馳せたと聞いている。マスコミには、おかしな言動をする奇人として有名である。だが、結城が驚いたのは、それが理由ではない。谷川富雄は亡くなった谷川夢子の祖父なのである。親族の代表として、結城の面会を頑なに拒んだのも彼である。その谷川富雄の名を使ったということは、オラクルと谷川富雄に接点があるということだろうか。結城はそんな疑問を抱きつつ、バッジの案内に従って、建物の地下へと向かった。面会場所である地下五階の三番倉庫、そこに行けば、すべての疑問が氷解するはずである。
エレベータ内で、結城は、地下一階から地下四階のボタンを押してみたが、最初に点灯していた地下五階以外のボタンが点灯することはなかった。エレベータを降りると、バッジの案内が再開した。
「前方、突き当たりの部屋が面会場所の三番倉庫です」
結城は恐る恐る扉を押しあけた。人感センサーが働き、頭上の高い所にある天井灯が点灯する。部屋の広さはバスケットコートほどであろうか。点灯したのは入り口付近の灯りだけで、部屋の奥は薄暗いが、左右両側に整然と並んだラック群があるのが分かる。明滅する小さなランプ群と低いうなりを発するブロワー群から、それらが、並列コンピュータを形成していることは明らかだった。結城が奥へと歩みを進めていくにつれて、頭上の天井灯が点灯し、徐々に部屋全体が明るくなっていく。椅子も机も全く見当たらず、人の出入りは感じられない。ラック群の並びの端、奥の壁に化学系の装置群が鎮座していた。無色や赤色の液体、あるいは気体が流れるパイプ、液体を循環させるポンプ、フィルター、かくはん機、フローメータといった流体系。無数の光ファイバー、有線の多芯ケーブルといった信号・制御系。そういった無数の線が向かう先に、異様なものがあった。
透明な液体の満たされた円筒容器に薄桃色の脳が鎮座していたのである。おそらく大脳だけであろう。小脳、脳幹があるはずの部分には、円筒状の金属があり、そのまま容器底部へと伸びている。円筒容器を下方から見上げると何本もの有色のパイプと無数の細線がつながっている。
結城はここへ来た目的を忘れて、その光景に見入っていた。ホルマリン漬けの標本とは明らかに異なる。まるで、本物の生きている脳のように見える。何かの実験をしているのだろうか。それとも薬品の効能の試験でも行っているのだろうか。
彼のすぐ横の空間が光を発し、見慣れたオラクルのアバターが現れた。ただし、今回は、2次元画像ではなく、立体画像である。ふわりと浮きあがっていた銀色の髪は、まるで軽い絹のようにゆっくりゆっくりと舞い降りていく。髪の毛の動きを計算するだけでも相当なリソースを必要とするはずである。オラクルは、いかにもうれしそうな表情を見せた。結城は緊張が緩むのを自覚した。確かに、この面会は九割がた罠である。だが、残り一割には、助けを求めるオラクル、結城を頼りにしているオラクルがいた。そして、結城は、その一割を信じることにしていたが、同時に、オラクルが素顔を見せないことを不審に思った。
「来てくれてありがとう。きっと来てくれると信じていたわ」
オラクルの立体アバターが、結城の目をまっすぐに見つめた。画像が結城を認識しているはずはないのだが、まるで、画像の場所にオラクルの実体が存在しているかのように視線を動かしている。
「十年近い付き合いだからね。だが、僕は、君の素顔を見たことが無い。君は、この三番倉庫に囚われていると言ったが…… まさか!」
「そのまさかとは少し違う」
結城は目の前の薄桃色の脳に、目をやって押し黙った。オラクルは、それを見ながら、淡々と説明し出した。
「この脳はあたしの一部と言っていいわ」
「一部?」
「順を追って説明した方がいいわね」
結城は唾をごくりと飲み込んだ。何か重要なこと、彼の人生に関わるとても重要なことが明かされるのがわかった。オラクルは話を続けた。
「十年ほど前、ある女性が、事故により、意識を失った。決して目覚めることのない眠りにつき、そのまま、この世から消えていくはずだった。だが、それを認めない研究者いた。その研究者、彼は、女性の大脳を取り出し、培養液に浸し、ここに設置した。そして、何万本もの人工シナプスをつないだ。大脳に疑似神経パルスを与え、神経回路を起動し、意識という動的な状態を蘇生させようとしたのよ。それまでもそういう実験が無かったわけではなかった。動物を使った実験ね。でも、どれもうまくいかなかった。なぜだと思う?」
その質問は、過去へとさまよいがちな結城の思考を現在に戻した。
「さあ、なぜだろう…… 神経パルスのやり取りができても、それを正しくデコード、つまり、パルスの受け手が正しく解釈できなければならない。逆のエンコードも同じ。相手が解釈できるパルスを送らなければならない」
「多分、正解ね。本当の解は分からないから。例えて言うなら、言葉の通じない相手と音だけでコミュニケーションをとって、言葉を理解する。そして、相手が言葉を知らないのであれば、言葉を教えなければならない。毎秒、一メガビットのデータを受信して、解析して、新たなパターンを考え出して、相手に投げかける。それは、とても根気のいる作業だわ。生身の人間には不可能だわ。それを任されたのがあたし」
「つまり、君は生身の人間ではなく、AI…… この部屋の並列計算機が君の実体なのか?」
「ほとんど正解ね。正確には、あたしは、AIトレーナーとして作られたの」
「AIトレーナー」
「AIの教師よ。膨大なデータベースにアクセスして教師信号を作成して、AIに投げ、その反応をフィードバックする。そうやって、AIに論理的な思考を教えるの。同時に自己保存という評価関数、指定した目的関数を教えていく。そうやって、AIを作っていく。医療用AI、ネットワークセキュリティ用AI、といった具合にね」
「だが、AIが実現したという噂はないぞ」
「そう、失敗だった。疑似的なAIはできたけれど、自ら進化するAIはできなかった。評価関数、目的関数だけではだめだったのよ」
「つまり、君も、AIではないということだ……」
結城はトーンを落として呟いた。
「ふっふっふ」
オラクルは含み笑いを見せた。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。あたしにはわからないわ…… 大事なことは、あたしがこの脳と外界のインターフェースを構築したということ」
オラクルは話をもとに戻した。結城にも、この脳がすべての始まりであることが分かった。そして、その始まりとは…… 結城の声とオラクルのそれが重なる。
「これは誰の脳なのか?」
一方は、固く拳を握りしめ、他方は銀色の髪をかき上げる。その髪をかき上げる仕草は彼女のそれと似ている。
今や、結城は答えをほぼ知っていた。確信を持っていた。が、確実ではない。確実に証明されたものと99.9%正しい事柄は、全く異なる次元に存在する。オラクルの次の言葉がその0.1%を埋めた。
「谷川夢子よ」
結城は聞きたいことが山ほどあった…… あるはずであるが、オラクルはそれを許さない。
「この脳は壊れているの」
「壊れている?」
「そう。回路が壊れているという表現が近いわ」
「意識がないということか?」
「意識とは? 意識とは何? どう定義するの?」
「意識は意識さ。例えば、自意識だ。自分というものを認識しているのか。あるいは、欲望。生きたいという欲、食べるという欲、話をしたいという欲、そういう欲はないのか。 そもそも論理的な思考はできるのか」
「論理的思考はできるわ。例えば、数学の証明問題。新しい定理を考えて、それを証明することができるの。実の所、かなり早い時期から、この脳は数学マシンとして使われたの」
オラクルの説明によれば、夢子の脳には、感情がほとんどなかった。記憶は断片的に存在するが、質問にまともに答えることはできなかった。生存本能は希薄であり、精神が壊れていた。人格が壊れていた。オラクルの粘り強い解析と教育のおかげで、数学の能力はよみがえった。だが、それは、夢子の脳を取り出した谷川富雄の目的ではなかった。目的は、夢子の意識を蘇生することであったから。
富雄は国革研から追い出され、夢子とオラクルが残った。それを拾ったのが、樫村聡である。6年前、樫村が、Yuki予想に対する反例を見つけたのである。結城は、素数砂漠と素数オアシスは一つしか存在しないと予想していた。だが、樫村は二番目の素数砂漠とオアシスを見つけた。オラクルの話によれば、この時、樫村は、夢子にコアYという名をつけ、彼の支配下において、数学マシンとして利用した。その後、彼は、安全性が高く、かつ、利便性のよい暗号方式を開発し、それが国連認定標準暗号5号となった。彼は、この業績で、国革研の情報部門のトップとなったが、この暗号開発にもコアYが使われた。そして、今、彼は、コアYを使って、素数共鳴器の研究開発を行っているらしい。らしいと推測しているのはオラクルにも現在の夢子がどうなっているのかわからないからだ。
「君は、夢子の外界インターフェースとして機能しているのではないのか?」
「残念ながら、素数共鳴器の研究開発が始まるころに、夢子の主要インターフェースから切り離されたのよ。そうでなかったら、稔がエージェントに狙われるような情報は漏らさないわ」
「エージェント?」
「そう、樫村が雇った者たちがあなたの家を襲ったでしょう」
「ああ、黒服を着たやつらに狙われた」
「あれは、夢子が樫村に情報を漏らしたからなの」
「何故? 何の目的で?」
「それが、不思議なところ。矛盾しているのよ」
オラクルと話をしていると、彼女がAIもどきであることを忘れそうになる。十分に論理的な思考ができている。オラクルは再び過去を語った。
オラクルがインターフェース構築作業を初めて一年ほどたったころ、夢子は感情、欲望らしいものを持ち始めていた。そして、その最初の要求が結城稔だった。残っていた断片的な記憶、事故前の記憶から夢子と結城が親しい間柄であることはわかった。それを夢子の脳が認識し興味を抱いた。そこで、オラクルは結城を観察する機会を作った。それが裏稼業、暗号破りである。結城が考えていたのとは全く逆の経緯で裏稼業が始まったのだ。つまり、暗号破りのために結城に接触したのではなく、結城に接触するために暗号破りを始めたのだ。
そこからのオラクルの説明は、夢子の精神が異常であることを伺わせる。オラクルと結城の通信記録はすべて、夢子の脳、すなわちコアYに転送される。それだけならば、よかったが、いつからか、コアYが勝手に通信をするようになった。と言っても結城と話をするわけではない。ただ、こっそり通信を開始し、結城の様子を盗み見するだけである。オラクルは、コアYの結城への興味が高まっていくのが分かったが、そのまま放置した。何も不都合はないと判断したのだ。所が、先日、コアYはいつもの盗み見の後で思わぬ行動をとった。結城が第三オアシスである素数を見つけたことを樫村に報告したのだ。直ぐに樫村はオラクルのメモリーをスキャンし、裏稼業を知った。
結城にとって、オラクルの話は衝撃的であったが、完全に信じたわけではなかった。
「つまり、夢子は樫村のために働いていたということか?」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。あたしは、案外、嫉妬じゃないかと思っているの」
「嫉妬?」
「稔が素数を見つけた時、あたしと話したでしょう? あの時、稔は女性を連れ込んでいたのを黙っていたでしょう?」
「知っていたのか? じゃなくて…… つ、連れ込んだんじゃない! 勝手についてきたんだ!」
結城はしどろもどろになっている。
「どちらにしろ、あたしも、夢子も知っていたのよ。だから、きっと、夢子は、稔たちの邪魔をしようと思ったのよ。つまり、嫉妬よ」
「嫉妬? ばかな、僕の命が狙われたんだぞ! もういい。説明はいい! 夢子と話をさせてくれ」
「そうしたいのは山々だけれど、コアYの思考に割り込めないのよ。さっきから何度も呼びかけているけれど応答してくれないのよ。多分、素数共鳴器の実験が始まって、忙しいのだと思うわ」
「実験?」
「こっそり、仕入れた情報によれば、今日、改造した実験装置の試運転が行われるの。コアYは、樫村に指示されて、データの解析を始めているだと思うわ。それに、稔と話している時間も無くなったみたいだし」
そう言って、オラクルは伏せていた目を上げ、結城の背後を見つめた。
結城が振り返ると、黒服二人を従えた、痩せた男が近づきつつあった。
「結城先生。ご無沙汰しております、と挨拶すればいいですかねえ。会うのは初めてではないですから」
男は、眼鏡の奥から鋭い眼光を投げかけ、ニヤリと笑った。結城は直ぐに視線を外した。
「樫村聡。会うのは三回目だ」
「覚えていただいて光栄です」
Yuki予想の間違いを指摘した男だ。結城が忘れるわけがない。
「何の用だ」
「おお、そうでした。用事があるからお呼びしたのでしたね」
「何の用事だ」
と結城が重ねて尋ねる。
「削除させていただきます。冥土へ送って差し上げます」
半ば、予想していた答えだったが、正面切って言われると、言い返してやりたくなる。結城は口をへの字に曲げてこう言った。
「お前が案内をするとでも言うのか」
「はっはっは。面白いことを言いますね。残念ながら冥土に同行するのはオラクルだ。用済みのオラクルだ」
結城は目を伏せているオラクルに無言で問いかけた。彼女からの返事はか弱い。
「あたしの目的関数はコアY。コアYが樫村さんに従うのなら、あたしも従うだけ」
黒服を着た二人の男が結城の両腕を左右から抱えた。
予想していたとはいえ、結城にはとてもまずい状況である。もちろん、結城はそれなりの準備をした。簡単には死なないつもりだった。その備えが底の浅いものであることが、直ぐに露見することになる。だが、問題はもっと根源的なところにあった。彼の士気が高くないのだ。生身の人間だと思っていたオラクルは、AIでさえないかもしれない。夢子の脳に会えたのは、彼にとって収穫であったが、その精神はすでに壊れているらしい。しかも、その脳と数学で張り合っていたのであるから、ここ十年の彼の人生は何だったのだろうか。そんな彼に悩みをふっきれと言うのは酷である。なぜなら、彼は38歳で、不惑にも届かない年なのだから。