第6話:無印優品
空調の利いていない病院の個室で、結城稔は沢村みさの言葉に耳を傾けていた。みさは心配そうな表情を浮かべつつも、喜々とした様子が明らかだった。その理由は同じ研究者の結城には想像できた。確かに、実験は失敗だったかもしれない。隠ぺい次元のエネルギーを取り出すことはできなかった。手間暇かけて作った実験装置が半壊し、復旧させるのは容易ではないだろう。だが、エネルギーをやり取りしたのは確かである。世界で初めて、それを実現したのである。喜々とせずにはいられないだろう。『世界で初めて』という甘美な響きは彼にも理解できた。そして、他人にとっての甘美な響きを素直に祝えないのは、自分だけではないと結城は思った。そういった彼の認識は、間違っていたことが直ぐに判明する。
あの時、彼女が叫んだように『逆流』が起きた。本来なら、プラズマを用いた物質波と素数共鳴器で、隠ぺい次元のエネルギーを取り出すはずだった。非線形相互作用を通して隠ぺい次元と実空間の間に路を作った。ところが、物質波の位相が乱れた。乱れた原因の詳細は分からないが、彼女の推測によれば、設定した共鳴器長が素数ではなく、約数を持つ合成数だった。そのため、約数モードが励起され、位相が乱れ、エネルギーの流れる方向が逆転した。その結果、実空間の熱エネルギーが急速に吸い取られ、共鳴器と周りの温度が絶対0度近くまで冷えた。エネルギーの逆流は熱エネルギーにとどまらず、共鳴器の質量エネルギーをも吸い取った。つまり、共鳴器がこの世から姿を消した。結城はその一部始終を見ていた。
実験装置全体が冷え、ガラスは脆くなった。ガラスとステンレスの膨張率の違いから一枚のガラス窓が破れた。中は真空、外は大気圧であったから、割れたガラスは内側に砕けた。砕けたガラスは、容器内を横切り、対向する窓を破壊し、その窓はやはり大気圧で内側に砕けた。それが連鎖し、すべての窓が内側に破壊された。いわゆる爆縮である。容器内を跳ねまわったガラスの破片は、レーザーや位相プレートを破壊していき、砕けたガラスの一部は装置から飛び出し、結城たちに襲いかかった。百瀬はラックの陰にいて難を逃れ、みさはやはり結城の陰になって無傷であった。怪我をしたのは、結城だけである。幸い、太い血管や重要な臓器は無傷であり、2,3日の入院で済みそうである。ちなみに、結城が目の下に青あざを作ったのは、この時の爆縮が直接の原因ではなく、結城が飛び込んだ先にみさの豊満な胸があったからで、そのことは医師に告げていない。
みさの話を聞きながら結城は別のこと、暗号破りという裏稼業のことを考えていた。もし、裏稼業に気づいた黒服たちが、それを警察に通報したのであれば、今のようにのんびりベッドに横たわっていることなんて、できないはずである。緊急入院する際に、日本国籍所有者すべてにつけられた個人コードを病院に伝えてある。もちろん、これは、彼が治療を受けている間にみさが勝手にやったことだが。もし警察に手配されていれば、病院が結城の個人コードを照会した時点で、ばれているはずである。
結城は、ほっと一息をついて、みさの差し出した無印の高級リンゴにかぶりついた。皮ごと食べられる正真正銘の無印優品である。無印優品とは、現在の日本の食産業を代表する食品であり、放射能汚染なし、農薬汚染なし、環境ホルモンによる汚染なし、人工遺伝子なし、細菌汚染なしの基準を満たした食品を指す。検査のコストもばかにならないが、無菌室水耕栽培のコストもばかにならず、無印優品は、庶民には無縁である。噂では、150歳まで生きるためには、毎日の食品をすべて無印優品にしなければならないらしい。だが、無印優品が開発されて20年もたたないので、実証した者はいない。
みさは、結城が食べ終わったリンゴの芯をひょいと取り上げ、ティッシュにくるんでゴミ箱に捨てた。その時、彼女は素敵な笑顔を見せた。まるで、自分が満足したかのようであった。結城の手をおしぼりで丁寧に拭くみさに声をかけた。
「なんだか、とても嬉しそうですね。隠ぺい次元とエネルギーをやり取りできたからですか?」
「えっ!」
「だって、世紀の発見じゃないですか?」
「ああ、それは、そうなのだけれど…… 全然、別のことを考えていたわ」
「別?」
「そう、オジサンが無事でよかったって考えていたの。怪我も大したことはなかったし、リンゴも食べられるし」
「実験に失敗はつきものだろ。事故だってないわけじゃないだろうに」
「それはそうなのだけれど…… 気をつけていても、事故を完全になくすことはできないわ…… 航空機の父と呼ばれるリリエンタールは、実験中に墜落して翌日に亡くなったの。死に際に『犠牲は払われなければならない』と言ったのよ」
「つまり、僕の怪我も払わなければならない犠牲?」
「その逆よ。私の興味を満たすために、私が怪我をするのはまだいいわ。でも、あなたを怪我させたのは間違いよ。科学に身をおいているのなら、少しぐらい世の中の役に立ちたいと思う。だから犠牲も必要かもしれない。でも、オジサンが怪我をする道理はないわ。だから反省しているの…… 本当に大した怪我じゃなくてよかったわ」
みさが本心からそう思っていることは、明らかだった。結城は腕を組んで宙を見つめた。
「僕は沢村さんを少々バカにしていたかもしれない…… 改めてよろしくお願いしたい」
結城の差し出した手を、ほんの少し躊躇して、みさは握り返した。
「ただし、オジサンと呼ぶのは、やめてほしいな」
と結城は続けた。
「それじゃ、何と呼べばいいの?」
「結城と呼んで…… いや、できれば、名前の稔と呼んでくれないか?」
そう言って結城は目を伏せた。今まで、彼を名で呼んだのは、親と谷川夢子とオラクルだけである。
「稔? 稔さん?」
「稔でいい」
みさはにっこりほほ笑んで、
「わかったわ、稔。それじゃ私のことはみさと呼んで」
と言った。結城は目を伏せたまま頷いた。
結城は大事なことを見落としていた。警察に通報されなかったのは、彼の命が狙われていたからである。そして、彼自身が昔、実践したように、病院のセキュリティを破ることなどたやすいことである。さらに、彼が忘れていたことは、個人コード管理センターの情報に自由にアクセスできるのは、裁判所が許可したケースだけではないことである。知らなかったのではない。単に忘れていたのだ。もしかしたら、麻酔がまだ残っていて頭が働かなかったのかもしれない。
深夜の病院は不気味である。人っ子一人いない受付には、昼間の喧騒の名残もない。会計待ちの番号ボードも電源が落ちて、非常灯の淡い緑光だけが頼りである。そんな中を迷いもせずに、横切っていくシルエットがあった。
丁度そのころ、結城は、パンダの目が緑色に不規則に明滅しているのを見つめていた。緊急通信要求の合図である。結城は迷っていた。もし、オラクルとその通信手段が黒服たちの手に落ちていれば、通信を受けた途端に逆探知されるかもしれない。その危険を冒すべきか否か、結城は窓を開け放って、星の瞬く暗い夜空を眺めた。
都会で星がきれいに見えるようになったのもここ十年程のことである。オラクルとの付き合いも十年近くになるが、いつもアバターを介しているので、その素顔は知らない。言葉は学生のものだが、年齢も、性別も不明である。どちらにしろ、彼を見出し、彼を裏稼業に引きこんだのはオラクルである。結城はオラクルの実態を何一つ知らなくても、向こうは結城をよく知っているはずである。
オラクルに目をつけられたのは、彼が谷川夢子の入院していた病院に自作の不正カードを使って侵入したからだと思っていた。だが、今から考えると、その時の技術は稚拙であった。今の彼なら、もっと確実で安全な侵入方法を採用したはずである。あの程度の技術を持っていたからといって仲間に引き込むだろうか。確かに、彼は成長したし、それなりに貢献した。だが、ここのところ、オラクルの真の目的が金儲けとは別にあるような気がしていた。
自販機のコーヒーでも飲んで頭をすっきりさせようと、結城は部屋の出口に向かった。そして、目のいい結城は、扉の取っ手の異常に気付いた。ひとりでに取っ手がゆっくり回っているのである。
結城は、直ぐに反応した。点滴の針を引き抜き、身をかがめ、ベッドの下に潜り込む。同時に誰かが入ってくる。ベッドの下で結城は、息を殺す。黒光りする革靴が見えたかと思うと、『ボスッ』と音がする。薬きょうがカランと音を立てて、床に転がった。消音装置付きの拳銃をベッドに向かって発砲したらしい。革靴がベッドの直ぐそばまでやってきた。毛布をばさりと振り払う音がする。
「どこへ行きましたか?」
と言って、男は舌打ちをした。直ぐに窓があいているのに気がついて、土足のままベッドに上がり、窓の外をのぞいた。結城は、ベッドの上から撃たれれば、弾丸はマットレスを貫通するだろうかと考え、固く目をつぶった。
その時、窓の外で車のエンジン音がした。今時、珍しいガソリンエンジン特有の音が徐々に遠ざかっていった。
「ふざけた真似ですね」
男の気配が消えたかと思うと、窓の外からドンという音が聞こえた。なおも結城がベッドの下で息を殺していると、タイヤを軋らせて走り去る電気自動車の音が聞こえた。どうやら、男は三階の病室から飛び降りたらしい。恐るべき身軽さである。
常夜灯の照らす薄暗く長い廊下の両側には検査室が並んでいる。そんな廊下を結城は足早に歩いて、廊下の突き当たりにある洗面所に滑り込んだ。
結城は、ほっと息を吐いて、鞄からパンダの怪獣を取り出し、短い尾を強く引いた。尾は細いワイヤーで本体とつながっている。結城はそのワイヤーを洗面所の窓にかけた。本来の2-アンテナ分散型ノイズ通信用のアンテナであるトーキョーツリーとスカイタワーの模型は結城の自宅、ボロ倉庫に置いてきた。このワイヤーアンテナでは、通信速度は大幅に制限される。逆探知される可能性も高いが、黒服の行動の素早さを考えればオラクルの身に何かが起きていることは確実だ。結城は身を隠すために通信は行わないつもりだったが、その一方で、長年世話になったオラクルの身を案じていた。
パンダが投影した洗面所の壁に現れたのは見慣れた2次元アイドルであった。結城は言葉を待った。
「時間が無いから伝言するわ」
そう言って、オラクルはいつもと違う雰囲気で話しだした。
「見つかったの」
結城は、誰に見つかったのかと問いかけようとしてやめた。通信はリアルタイムではない。どこかにセーブされたものを再生しているにすぎない。一方的に再生するだけで、こちらからの問いかけは無意味である。
「地下倉庫に閉じ込められているの。だから、助けに来て」
オラクルのアバターは伏せていた目を上げて哀願し、こう続けた。
「場所は、国立革新技術研究所、情報研究棟、地下五階の三番倉庫」
結城は、言葉を失った。オラクルは、最悪の相手に捕えられたのだ。国立革新技術研究所、通称、国革研の情報部門と言えば、この国の情報セキュリティ技術の基盤を担っている所であり、暗号破り摘発の総元締めでもある。他にも国防にかかわる技術開発をひそかに進めているといううわさもある。
確実に罠である。結城をおびき寄せ、無きものにしようとする罠である。おそらく、国革研では、エネルギー源として素数共鳴器の開発を進めていたのだろう。黒服を差し向け、第三オアシス、今では素数ではないと結城たちが考えている数を奪い、結城を抹殺しようとした。
オラクルは、緊急通信の最後で、国革研への侵入方法を指示した。偽のアポイント情報をセキュリティシステムに載せ、正規の外来者として、倉庫までたどり着けるように工作したというのだ。だが、そのような事ができるのに、オラクルが逃げられないのはなぜか。やはり、結城を誘い出すための罠であろうか。そこまで予想しながら、結城には、オラクルを簡単に見捨てることができなかった。
鈍っていた結城の頭が徐々に冴えてきて、やるべき項目が次々とポップアップしてくる。結城は一瞬で、それらの因果関係と優先順位を解析して、ソートした。
服を着て、サングラスをかけて、マスク、イヤホンをして、タクシーを呼んで移動した。移動は逆探知を想定したからである。サングラスには、モニターが仕込んであり、マスクは小型マイクを隠すためのものである。それらは、赤外線で腕時計型コンピューターにつながっておいる。キーボードはないが、腕時計の表面に透明電極型キーボードが貼ってあり、ペン先でタッチすることで、文字入力を行う。腕を動かすたびに背中の傷口がひりひりするが、結城には気にしないことにした。
みさの携帯に電話する。呼び出し音は鳴るが、応答がない。みさの携帯に仕掛けておいた音声記録歴をチェックしてみることにする。彼女が結城のボロ倉庫にやってきたときに、携帯にスパイウェアを入れておいたのである。ある程度の音量を感知すると、録音を開始して、それを定期的にネット上のある場所に転送するのである。最後の録音は、十分ほど前だ。
『な、何よ! あんたたち!』 みさの叫びだ。『大人しくしろ』 『警察を呼ぶわよ』 『聞き分けのない奴だ』 『キャ!』 『ドス』 『ガタン』 『運び出せ』 『重いんですけど』 『しょうがないだろ』 『よいしょ』 『バタン』 『……』
結城は真っ青になった。唇を噛み、もう一度再生した。そして、震えるペンで、そのひとつ前の通話を再生した。ヒントが無いかと思ったのだ。
『あたしよ』年配の女性の声だ。『母さん、ケイファ? マゼファラディアット?』 『ディタマライビア、……』 『……』 どこかで、聞いたことのある外国語で二人が話し出した。しかし、東洋の言葉でも西洋の言葉でもない。どこの国の言葉であるかが分かれば、後は自動翻訳システムに任せればいい。
結城は、自宅で採取したみさの指紋データを呼び出した。それをある区役所のサーバーを介して、個人コード管理センターに送った。通常は網膜認証を用いるのだが、区によっては、指紋認証も特例で認められている。結城は、その区のサーバーへの侵入路を確保していたのだ。直ぐにみさの戸籍謄本の画像データが送り返されてきた。戸籍は、個人コードシステム発足時の基礎になった書類である。数行の記載がみさの生い立ちを語った。みさの父は、沢村姓の日本人であったが、母親は中東の小国、パルティア国籍である。みさが七歳の時に離縁している。
自動翻訳システムのサーバーに音声データを送ると、直ぐに翻訳された文章が送り返されてきた。内容は、挨拶から始まって、身辺の不審な動きに気をつけるようにという注意が続いた。母親をパルティア政府機関が監視し始めたらしいというのである。母親は最後に『オアシスの名のもとに幸に恵まれますように』と言った。どうやら、それは、パルティアの日常挨拶らしい。
母親の名前、エリー・イシュタールを検索した。結城は、その名に聞き覚えがあったが、検索してみて驚いた。イシュタール博士は、隠ぺい次元の量子揺らぎを研究し、当時話題になっていたダークエネルギーとの関係を指摘した。その後、素数共鳴器で隠ぺい次元のエネルギーを実空間に取り出す原理を考案した。Yuki予想を初めて、物理学界に紹介したのも彼女である。みさが、Yuki予想と彼女たちの仕事が関係していると言った理由が、結城にはわかった。オラクルだけでなく、みさもまた、国革研に囚われているだろうことは想像できた。リンゴの芯をひょいと取り上げたみさの笑顔が、結城の頭から離れなかった。
タクシーを降りた結城は何度目かのため息をついた後に、携帯を取り出し、メモ帳の奥にひそかにしまった番号を呼び出した。コードネーム、ゼウスと連絡をとるために、オラクルには黙って作った通信路である。ゼウスは暗号破りの仲間で、物理担当であるが、実際に顔を合わしたことはない。年齢、性別、素顔、一切が不詳である。仕事でやり取りするときは、アバターを使っているので、声も偽装してあるはずである。
携帯の画面に直ぐに応答があった。ひげもじゃの老人のアバターが現れたのだ。
「久方ぶりじゃのう。この通信路を使うということは、のっぴきならぬ状況ということだな」
結城は、今しがたのオラクルからの救援要請と黒服に狙われた経緯のあらましを伝えた。もちろん、細かい所はぼかしたし、みさが誘拐されたらしいことは黙っていた。
「確実に罠じゃな。ワシの所にはなんも来とらんから、目的はお主ということじゃな。で、数夫はワシにどうせよと言うんじゃ」
数夫とは結城のコードネームだ。
「一緒に来てくれとは言わない。だが、力を貸してほしい」
「他ならぬ数夫の頼みじゃ。よかろう。じゃが、対価は?」
「国連認定標準暗号5号の解読方法とツール一式」
「ほう、これはまた、物騒なものじゃな。お前さんがそこまでできるとは思わなんだ。第一、それができりゃ、暗号破りなどしなくとも、一生困らないぐらいの稼ぎを表で得られるじゃろうに」
「そんなことには、興味ない。だが、この技術が埋もれるのは惜しい。売り払うなり、公開するなり好きにしてくれ」
「なるほど、公開という手もあるか。よかろう、お前さんが無事に戻ってくるか、死ぬまでは手をつけないで置いておくとしよう」
「助かる」
「では、ワシの方からの贈り物じゃが、銀行の貸金庫に置いてあるツール一式を進呈しよう。いずれも、メタルフリーじゃから、セキュリティゲートは問題なく通過できる。ただ、一つだけ、注意して使ってもらいたいものがある」
「注意?」
「タバコじゃ」
「タバコ?」
「吸引型ドラッグじゃよ」
「青いタバコが神経加速剤じゃ。筋力増強剤も入っておるから、修練を積んだ武道家と互角にやりあえる。だが、二十分しか持たん。その後、強烈な副作用が起きるから、解毒剤入りの赤いタバコを吸うのを忘れんように」
ゼウスはそう言ってニヤリと笑った。思わず、結城は尋ねた。
「どんな副作用?」
「理性と意識がなくなるのじゃ」
「では、じっとしていればいいのか?」
「じっとしていられないのじゃ。青タバコには強烈な催淫効果があるのじゃ」
「サインイン?」
「知らぬなら、その方がよい。犬と友達にはなりたくないだろうて」
「犬と友達?」
「わっはっはっは」
ゼウスは豪快に笑ってごまかした。最後に、貸金庫の開け方を結城に教え、達者でな、と言って通話を切った。